第十二話
伊織ははっと目を覚ます。幸か不幸か意識が飛んでいたようだ。
辺りを見渡す。
そこは木々が張り巡らされた部屋だった。といっても、フローリングのように美しいものではない。木材の破片が乱雑に埋め込まれている。
宙には割れたガラスや鏡が浮いている。伊織の顔を掠めるが傷はできない。これも実体を持たないらしい。
真は頭を抱え、身を丸くしてしまっている。今は落ち着くのを待つしかないだろう。伊織は地面に腰を下ろす。
「……。康樹は死んだんだ」
真の唐突な言葉。彼は憑りつかれたようにぶつぶつと言葉を並べる。
「もうずっと前に死んだんだ」
その言葉が二回。
「死んだんだ死んだんだ」
三回。
「見つかるはずがない見つかるはずがない見つかるはずがない」
何度も何度も。
伊織は思わず立ち上がり、後ずさった。様子がおかしい。
僅かに訪れた沈黙。
逃げ出したい。だが、このままというわけにはいかない。真のためではない。真を置いていったら寝覚めが悪いからだ。
そんな自分に嫌気がさしながらも、伊織は数メートル離れたところから真に声をかける。
「あの、大丈夫ですか?」
真のヘルメットが弾かれたようにこちらを向いた。伊織は己の迂闊さに気付く。もし、目の前の真が真ではなく別のモノならば。だが、それは杞憂だった。
「い、伊織ちゃん……?」
我に返ったような真の声に伊織はほっと息をついた。
「よかった。落ち着きましたか?」
「え、あ」
真はヘルメット越しに口元を押さえた。
「その、俺」
「大丈夫ですよ。歩けますか?」
伊織は真の気が荒立たないように、出来る限りの優しい声で言った。
「悪い」
立ち上がった真の声はまだ緊張している。加えて足が震えている。これで、何かに遭遇したら逃げきれないだろう。
伊織は再びその場に腰を下ろした。
「伊織ちゃん?」
「少し休憩してから行きましょう。とりあえず、ここは何かが追ってくるということはありません。今のところですが」
努めて明るい声を出す。真は大人しく胡坐をかいて座る。そして、語り出す。
「康樹は俺の弟なんだ」
真の言葉に伊織はハッとする。康樹。その名前は先程、直弘も口に出していた。
「そりゃもう優秀で頭が良くて性格も良くてさ」
彼は伊織から目を逸らして言う。
「本当に、本当に良い弟だったんだ」
兄と弟。二人は仲が良かった。真が親の反対を押し切って東京に出た時も、彼は応援してくれた。
夢破れて東京から帰ってきた真を家族からかばってくれたのも弟の康樹だった。医師、弁護士の集まり。そんな家系だった真は親類から見下された。それでも康樹は優しかった。
そしてその日が訪れる。
真と康樹はこの岩森家を訪れようとしていた。ちょうどその頃、直弘はカイナに左腕を持っていかれ、直弘の家族はそんな彼から逃げるように村を出ていった後だった。
幼馴染だった真と康樹は直弘を心配して、家に向かっていた。
夏。雨。ぬかるんだ道。じっとりとしたにおい。そんな時に限って、タイヤが側溝にはまる。
車を下りた康樹が足を滑らせた。
ここまでの出来事を真は早口でまくし立てるように話した。そして、伊織に尋ねる。
「なあ、伊織ちゃん。この森で行方不明者が出てるのは知ってるか?」
伊織は息を呑む。そして、頷く。直弘とカイナが言っていた。この二十年で五人消えた、と。
真は辺りを窺い、くぐもった声で話し始める。
「康樹が最初の行方不明者だ」
真が言う。
「斜面を落ちた康樹は何処にもいなかった」
かすかに震えるその声。
「その後は消えたのは直弘の友達だった」
伊織は目を見開いた。
「その後は直弘が昔から世話になってた爺さん。その後は俺の従兄、直弘とは仲が良かったんだ。その後は近所に住んでたおばさん。ずっと直弘を化物だと怖がってた」
伊織はぞっとする。皆、直弘の関係者なのだ。
「俺は直弘を信じてる。でも、時々分からなくなっちまう」
真のヘルメットが伊織に向く。
「伊織ちゃんだって、そう思わないか?」
伊織は何も言えなかった。真は俯き言った。
「死んでるのか、生きてるのかも分からない。やりきれないよな」
しばらくの沈黙の後、真は立ち上がる。
「そろそろ行くか」
「はい」
互いの声が硬いのが分かる。伊織と真は再び歩き出した。
そこは木製の梯子がかかった垂直の壁だった。
「登れってことか?」
「そうですね」
真は何を思ったか、先程から歩調が早い。気を付けなければ追いつけなくなりそうだ。
真は壁一面にかかった梯子の一つに手を伸ばし、掴んだ。どうやら、この梯子は実体を持つようだ。
どうしてだろう。いや、考えても無駄だ。直弘が言っていた。
『怪異に理由を求めるのは意味のないことだよ』
全くその通りなのだろう。
真が梯子を登り始める。伊織も慌ててそれに続く。
迷いなく足を進めていく真。
妻と子が待っている真。皆の死を悔やんでいる真。
己はなんだ。
迷いしかない。誰も待っていない。それに加え己は人を――。
「あ」
手が滑った。伊織は片手で体重を支えようとした。それが不味かった。梯子は重みに耐えきれず、折れた。伊織の体が宙を舞う。
真がこちらを見つめる。だが、その表情はヘルメットに隠れて見えなかった。
落下特有の浮遊感。同時に沸き上がる、いつ地面に叩きつけられるのかという恐怖。
だが、いつまでたっても衝撃は来ない。
伊織は落ち続ける。
目の端に過るもの。椀、盆、段ボールに、鹿の角、割れた鏡。どれも、楽しそうに真っ黒な空間を飛び回っている。落ちていく伊織の存在など気付いてもいないようだ。人間と同じだ。
いや、違う。
人間は気付いている。落ちる人間を見ている。だけど、気付かないふりをする。そして、落ちたことをはっきりと突きつけられると――。
父の目を思い出す。
――あの目をするのだ。
きっと、己はこの先も落ち続けるだろう。今だってどうしようもないのに、更に深く深く、まだまだまだまだ。落ち始めたものはもうどうしたって止まらない。
飛び回るモノ達が見えなくなってくる。
もう届かない。二度と普通には手が届かない。幸せになんてなれない。
己のせいだ、分かってる。だけど、望んだわけじゃない。戻りたい。もう落ちたくない。もう――。
とんっ、と背中に柔らかなものを感じる。
「おかえり、伊織ちゃん」
そこは直弘とカイナの腕の中だった。上から落ちてきた伊織を抱きとめてくれたようだ。直弘とカイナがゆっくりと、伊織を下ろす。
足をついたのは薄汚れた地面。目に入るのは心もとない電球、雑然とした部屋。蔵だ。戻ってきたのだ。
伊織の目から涙が溢れ出した。
『伊織ちゃん、そんなに怖い目に遭ったの⁉』
「大丈夫? 怪我はないかい?」
伊織はその場にしゃがみ込む。
嬉しかったのだ。
落ちて落ちて落ちた伊織をカイナと直弘は受け止めてくれた。こんな己を受け入れてくれたようで。違う、分かっている。ただの偶然だ。
だが、泣き続ける伊織に二人は寄り添い、その背をさすってくれた。直弘の、カイナの、人間ではない手がとても温かく感じた。
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