第十一話

 ふっと、直弘とカイナの姿が消えた。伊織と真は顔を見合わせ、蔵の外に急ぐ。だが、そこに二人はいなかった。

 代わりに現れたのは摩訶不思議な世界。

 蔵の外に出た。母屋の裏手に出るはずだった。だが、そこは四面朱に染まった空間。重力を無視して、黒塗りの椀や盆など和物の食器が浮かんでいる。

「こりゃまた……」

 真が頭に手をやった。伊織はぽかんとそれを見やる。

 朱塗りの道がただただまっすぐ伸びている。果ては見えない。

「直弘、いるかー?」

 真の呼びかけに返事はない。

「駄目か」

 苦笑を思わせるその声。 

 一つの椀が伊織の前をよぎる。遊ぶように伊織の周りをくるりと回った。その動きはまさに椀に描かれた銀色の蝶そのものだった。

 蝶の食器が伊織と真を囲むように集まってくる。

 それを払おうとした真の手を、伊織は思わず掴んだ。

「伊織ちゃん?」

「あ、いえ。触ったら危ないって、カイナさんが」

 そういうと真は豪快に笑った。

「大丈夫、大丈夫。皮手袋してるだろ?」

「は、はい」

「俺、慣れてるから、任せとけって」

 その言葉は心強いと共に、どこか危うさを感じた。こんな存在に慣れていいものなのか、と。

「こんなとこ早く出ようぜ。帰りが遅いとどやされる」

 真の冗談めいた言葉が伊織の心の臓を深く刺した。真には待っている人がいるのだ。だが、己は――。

 真を前に二人は歩き出す。

 幸い食器は伊織達が足を進めると、辺りに散らばっていった。囲まれた後、何が起こるか分からない。本当はここにとどまって直弘とカイナに見つけてもらいたい。だが、今は動く方が良いようだ。

 伊織の視線は落ち着かない。いつどこで何が襲ってくるか分からない。一方、真は落ち着き払っていて、朱塗りの道を迷いなく歩いていく。伊織の歩調に合わせてくれているのも余裕があるからだろう。

 五分程、まっすぐな道を歩いた。だが、出口は見当たらない。細長い空間が延々と続き、和食器が漂っている。

 黒塗りの盆。上品な花柄の夫婦茶碗。土の色を生かした湯のみ。

 食器同士がぶつかると、音をたて、そして、それらは形を失い、光となって空気に溶ける。

 前方で二つの食器がぶつかった。かんっ、と音がした。

 伊織は瞬く。響いた音を合図に景色が変わった。

 真っ白な空間。

 果ての見えない空からしっかりと編み込まれた綱が無数に下りてきている。その先には物を引っかけるであろうフック。金属でもプラスチックでもない。

「鹿の角だな」

 真が言った。

 茶色い下地に白の斑模様。艶があり頑丈そうなそれ。確かに鹿の角のようだ。判断が早い。流石、狩猟免許保持者だ。

 鹿の角を吊るした綱は、緩やかに上下を繰り返している。ありがたいことに、二人が歩くと避けるように綱は上に移動する。ぶつかる心配はなさそうだ。

 乾いた音がした。

 伊織はびくりと身を震わす。何かが破裂したような大きな音。

 途端、前を行く真が立ち止まった。伊織は止まり切れず、真の背にぶつかる。

「すいません……」

 真は無言だ。かと思うと、彼はいきなり駆け出した。

「え⁉ ま、待ってください!」

 伊織は必死になって後を追う。ここに一人置いていかれるのは嫌だ。それに、真が走り出したのは何か恐ろしいものを見たからかもしれない。

 伊織は辺りを見渡した。

「ひっ」

 声を上げる。

 すぐ右手。真っ白な空間が赤く染まっていた。じんわりと、まるで、水の中に絵の具を垂らしたように赤が広がっていく。その赤が白の空間につぅ、と垂れた。綱が一斉に天に上がった。

 そして、空から落ちてくる。頭を、首を、体を、撃ち抜かれた鹿が。

 真は足が速い。伊織は置いていかれないように必死に走る。

 白い空間が赤に染まり、後ろから鹿の死体が押し寄せてくる。

 目の前にそれが落ちてきた。伊織は勢いづいて止まれず、踏みつける。だが、感触はなかった。

 恐る恐る足元を見る。伊織の足は鹿の死体をすり抜けていた。これらは実体ではない。そう分かったとしても、恐ろしいものは恐ろしい。

 伊織と真は走り続けた。

 

 景色が変わった。何度も何度も変わった。

 段ボール箱が鳥のように羽ばたき、黄みがかった古い新聞紙が暴風で飛ばされるように宙を舞い、朱色の盆が狂った拍子を取る。

 黒い空間の中、鳴り響く壊れたおもちゃのようなリズムを聞きながら、伊織と真は歩き続ける。

 先程から真は口を開かない。伊織は気になって声をかける。

「あ、あの」

 真の体がびくりと跳ねた。そして、飛びのき振り返る。あまりの警戒。伊織は驚いてしまった。

「ええ、と」

「わ、悪い、悪い。ちょっとビビっちまって」

 真はそう軽く言うが、声はかすれ、体は小刻みに震えている。

 怖がる人間を見ると、こちらは冷静になってくるものだ。伊織は自身が落ち着いてくるのを感じる。

 伊織は力強く踏み出した。

「私が前を歩きますね」

 真はしばらくぼんやりしていたが、我に返ったように頷いた。

 盆の奏でる歪な音楽に不安を煽られながらも、二人はまっすぐに道を進んでいく。

 刹那、黒い空間に白い人影が過った。身長的に成人。おそらく、そのいでたちは――。

「康樹……?」

 真がぽつりと呟いた。白い影がこちらに顔を向ける。その形は着物姿。左腕は異様に細い。おそらく直弘とカイナだろう。

 だが、真は狂ったように「康樹」という名を唱え、やがて、その声は意味を持たない叫びとなっていった。

 真がまっすぐ伸びる道を踏み外す。

 伊織は反射的に手を伸ばした。真がその手を強く握る。だが、伊織の力で真を引き上げることなどできるはずもなかった。

 二人は底の見えない闇に落ちていった。

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