第十話
とんっと地面に足がつく。伊織は我に返る。感覚はある。おそらく、生きてはいる。
だが、目の前に広がるのは真っ暗な闇。暗すぎて己が目を閉じているのか開いているのかすら分からない。
闇の中、耳が音を拾う。かたかたかたかた。足元から音がする。
刹那、細い光が差し込んできた。伊織は目元に手をかざす。
明るくなった視界。見覚えのある雑然とした埃っぽい部屋。どうやら、ここは蔵の中のようだ。
蔵の引き戸が開いた。
伊織は目を丸くする。
「直弘さん?」
現れた直弘。だが、そのいでたちはTシャツにジーンズ。表情は険しく、肌の色も健康的だ。伊織の知る直弘とかけ離れている。
直弘に伊織の声は聞こえていないようだ。おそらく姿も見えていない。
伊織はそっと蔵の壁に触れてみる。案の定、手は壁をすり抜けた。ここは、この間の写真と似た世界のようだ。
ということは、この空間は怪異ということか。
この間は直弘とカイナが来てくれたから帰れたものの、今回は――。
伊織の背につっと冷たい汗が伝った。下手に動くのも危険だ。伊織はこの場に留まることを決めた。
直弘が蔵の電気をつけた。そして、扉を閉める。
彼はポケットから白手袋を取り出し、自身の両手にはめた。
伊織は目を瞠る。直弘の左腕はカイナではない。先程、鞄の中で見たような男性らしいがっしりとした腕。
直弘が伊織の方に向かってくる。触れることはないと分かっているが、伊織の足は自然と後ろへ下がった。
直弘は緑の鞄へ。それは、がたがた、と音をたてている。直弘は辺りを見渡す。そして、膝を付き、ゆっくりと鞄を開けた。
そこには、青白い女の腕が入っていた。
伊織は悟る。これはカイナだ。
カイナは腕に湿布を貼っていた。直弘はそれを丁寧にはがし、新しいものに貼りかえる。
「だいぶ治ってきたかな?」
直弘の表情がほころんだ。カイナは頷くように手首を折った。直弘は蔵の棚からメモ帳とボールペンを取り出し、床に座った。
「ごめんね。兄さんが」
カイナがさらさらとメモに文字を記していく。その字は美しい。
『いいえ。貴方のせいではありません』
「でも、痛いんだろう?」
カイナは体を左右に振る。
『貴方が来てくれるなら痛みも和らぎます』
直弘がくすりと笑う。だが、その笑みはどこか寂しげだった。
「どうして皆は君を受け入れてくれないのだろう。こうして会話もできるのに」
『仕方のないことです。私は怪異。人間とは相いれぬモノ』
「そんなものなのかな」
『そんなものです』
それから二人は黙って時間を共有した。そこにあるのは、親愛の静けさだった。
「真に言われたよ」
『何を?』
「『お前が怪異を思うなら大切にしろ』って」
直弘が天井を見上げる。
「嬉しい。嬉しかったよ。真は僕のことを分かってくれる。この家の人間とは大違いだ」
『嫉妬してしまいます』
「あはは。またそんなことを言う」
少しの沈黙。
「だけど、僕は残念ながら人間なんだ」
『どういうことですか?』
「僕はこの家を出るよ」
『今、なんと?』
「僕はこの家を出る。本社に転勤になった。憧れの東京だ」
直弘は大きく伸びをした。
「君達を大切にしたい気持ちは勿論ある。だけど、行かなきゃ」
直弘は白手袋越しにカイナを撫でた。
「年に何度かはこっちに帰ってくるよ」
『そんな』
「ごめんね」
二人は黙った。先程とは違い、重い沈黙。
「ごめん」
直弘はもう一度言い、立ち上がろうとする。その左腕をカイナが引いた。
『直弘さん』
カイナはメモ帳に筆を滑らせる。直弘が目を落とす。
『怪異になれば傍にいてくれますか?』
悪夢のような光景だった。
カイナが直弘の白手袋の腕に飛びついた。そして、ぐるりと捻り、回し、ちぎる。ぶちぶち。ばきばき。
直弘のつんざくような悲鳴が蔵に響いた。
カイナは血の滴る直弘の左肘に己の体をそっと沿わせる。根を張る植物のようにカイナの腕が張り付いていく。
血、汗、涙、鼻水、唾液。直弘の顔はぐちゃぐちゃだ。
「なんなんだ、直弘」
うんざりとした声と共に引き戸が開かれる。若い父の姿。彼の顔は一瞬で青く染まった。蔵が騒がしくなる。
「ああああ、うあああああ!」
直弘は半狂乱になって叫んでいる。現れた祖父と祖母。祖父が慌てて母屋に駆け込もうとする。それを祖母が止めた。
「救急車を」
「何言ってんの! こんなこと人に知られるわけにいかないじゃない!」
「……。そうだな」
伊織はぞっとする。のたうち回り苦しむ息子を前にした言葉とは思えない。
カイナが動いたのが目に入った。
メモにペンが走る。
『これで貴方も怪異ですね』
伊織はその場に立ち尽くした。
「懐かしいね」
聞きなれた声に振り向くと直弘がいた。カイナがスマホに指を滑らす。
『私ったら、大胆』
「本当にそうだよ」
直弘は穏やかに笑う。伊織には直弘の笑顔の意味が分からない。どうして左肘についているモノに笑顔を向けることができる?
真がヘルメット越しに顔を覆う。
「話は聞いてたが、実際目の当たりにするときついな」
「そうだね。自分の腕が千切れる音は結構嫌だね」
「そこ?」
真の視線がカイナに向く。
「お前、本当に何でカイナさんと夫婦になろうと思ったんだよ」
その問いに直弘がわずかに頬を染める。
「カイナが魅力的だったからだよ」
『もう、直弘さんったら照れます』
分からない。何も理解できない。
未だ床に転がる若かりし頃の直弘が見える。その前で平然と左腕を優しく撫でる直弘。
直弘は静かに口を開く。
「確かに人間としての未練がないと言えば嘘になる。だけどね、怪異も悪くないんだよ」
彼は地面を這う己を見やった。
「ただ在るだけ。それは不思議と心地よい」
騒ぐ祖母と祖父、そして、兄である父をすり抜け、直弘は蔵を出る。
「人間はおかしな生き物だからね」
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