第二章 くらめいきゅう

第八話

『美味しい?』

 卵粥を飲み込んだ伊織にカイナがスマホを見せる。

 少し薄めの味付け。柔らかい卵。ふっくらとしたご飯。

「美味しいです……」

 伊織は肩を落とした。


 しらうさぎが腐った。

 伊織は酷くショックを受けた。胃が食事を受け付けないほどにだ。だが、それも一日の事だった。

 午前九時。今日も蝉がやかましい。

 伊織はお家で、直弘とカイナが作ってくれた遅めの朝ごはんを食べながら、己に落胆していた。

 あれほどまでに恐ろしい体験をしたのだ。なのに、もう己はご飯を美味しく食べることができる。しらうさぎを腐らせたことに対する罪悪感。それにさえ、空腹は勝ったのだ。

 伊織はため息をつく。とんとんっと白手袋越しに手の甲を叩かれた。差し出されたスマホ。

『伊織ちゃん、そんなに気にしなくてもいいって』

「でも」

「気落ちすることじゃないよ。よくあることだから」

 直弘がにこりと笑った。

 カイナと直弘。二人はどうやら、しらうさぎの件を冷蔵庫の中で食べ物が腐ったくらいにしか思っていないらしい。伊織がどうしてここまで落ち込んでいるのかも分からないようだ。

 だが、伊織と二人の感覚は違う。

 伊織はもう一度深いため息をつき、卵粥をちびちびと口に運んだ。

「直弘、来たぞ!」

 玄関からの声に伊織はむせた。あまりにも元気な声。加えてこの家に客人が来るなんて予想外にも程がある。

 彼は直弘の返事を待たず、玄関の扉を開け、ずかずかと土間を進んでくる。

「よ、お疲れさん」

 そういって片手を上げたのは、がっしりとした体形の男性。フルフェイスのヘルメットにスポーティーな長袖長ズボンをまとっている。上から下まで黒を基調とした服。赤のラインがアクセントだ。手にはこれまた黒い皮手袋。肌の露出が一切ない。

 直弘の顔に笑顔が浮かぶ。

「真。来てくれてありがとう。お茶飲む?」

「いや、外で飲んできたから大丈夫」

 そっか、と言った直弘の顔が伊織に向く。

「伊織ちゃん。彼が例の郵便屋さんだよ」

 伊織は息を呑む。

 目の前の彼が直弘とカイナの生活を支えている郵便屋。あの落ちたらただじゃすまなさそうな道を大きな荷物を積み、運んでくるプロフェッショナルだ。

 カイナがネットショッピングで頼んだだろう物を思い浮かべる。食べ物、小物、本やマンガ、おそらく、家具や電化製品もそうだ。車だとしても後ろに重心がいきそうで怖い。

 伊織はまじまじと彼を見つめる。

 すさまじいドライビングテクニックの持ち主なのだろう。確かに彼のいでたち、そして、その引き締まった体はいかにもスポーツマンだ。山道も難なく乗り越えていける気がする。車の運転に本人の運動神経は全く関係ないだろうが。

 そんな伊織をよそに、彼は首をかしげる。

「なんだ? 俺、有名人か?」

「うん。真は郵便のプロだね、って話をしてたんだ」

「照れるなぁ」

 真と呼ばれた彼は手を頭の後ろにやる。ヘルメットなのに、彼の感情は声の抑揚で伝わってくる。情緒豊かな人なのだろう。

「とりあえず上がってよ。出すものもないけど」

「おお。ちょっと休憩させてもらうわ」

 直弘の声に応えながら彼はお家に上がり、慣れた様子で席に着いた。彼の視線が伊織に向く。

「挨拶が遅くなったな。俺は篠原真。直弘の親友だ」

「え」

 親友、という言葉に思わず声が漏れる。そして、伊織は口元を覆った。直弘が小首をかしげる。

「どうしたの?」

 伊織が答えあぐねていると、真は豪快に笑う。

「分かる、分かる。直弘に友達なんていそうにないもんなぁ」

「ち、違うんです! そ、その」

 焦る伊織に直弘は表情を緩める。

「なんだ、そんなことか」

「あ、あの……。ごめんなさい」

 伊織は項垂れる。真の言う通り、直弘に親友いるというのが驚きだったのだ。

 直弘はいつも通りの笑顔で言う。

「大丈夫。真以外、僕に友達はいないよ」

「おい、そんな返事しにくいこと言ってやるなよ」

 真が呆れたような声を出し、直弘に視線をやる。直弘は「そうかなぁ」と不思議そうに呟いた。

 伊織は胸をなでおろす。真がフォローしてくれてよかった。確かに返事に困る言葉だった。

 それにしても。

 伊織は直弘の左腕、カイナに目をやる。先ほどからピクリとも動かない。もしやすると、真の前では存在を隠しているのか?

 カイナの存在を認めている伊織は少しばかり緊張する。下手に口を開かないほうがよいのかもしれない。

「ところで、君」

「は、はい!」

 黙っておこうと決めた矢先に声を掛けられ、伊織は思わず声を上ずらせる。その反応が真を驚かせてしまったようだ。

「わ、悪い。その、君が浩司さんの娘さん?」

「そ、そうです。岩森伊織です。よろしくお願いします」

「行儀のいい子だなぁ。良かったな、直弘」

 直弘は頷く。

「本当に伊織ちゃんはいい子だよ。ねえ、カイナ」

 伊織の心臓はどくん、と跳ねた。直弘は揺らがない。カイナを隠さない。はじめて会った時からそうだった。隠す気などない。

 伊織は真の方をちらと見る。真の表情はミラーの入ったヘルメットに隠されている。

 ついにカイナが動きだした。もぞもぞと身をもたげ、スマホに文字を打ち込んだと思うと、乱暴に真に突き出す。

『ホント、伊織ちゃんはいい子だよ。おっさんと違って』

「今日も相変わらずだなぁ」

 真の苦笑声が聞こえた。伊織はほっとする。どうやら知っていたようだ。

 今度は真がこちらを窺う。

「ええっと、伊織ちゃんはカイナさんのことは?」

「知ってます」

「よかった。若い娘さんが来るって聞いて、信じてもらえるのかヒヤヒヤしてたんだよ」

 ヘルメットでくぐもった声の中に安堵が混ざるのが分かる。直弘が笑う。

「伊織ちゃんは柔軟な子でね、カイナも僕のこともすぐ受け入れてくれたよ」

「すごいなぁ。怪異に出くわしたことがあるとか?」

「いいえ」

 伊織は答える。怪異という言葉は知っていたが、存在するはずはないと思っていたし、今でも正直信じられない。

 真はほぅ、と息を漏らす。

「見たことあっても信じない人間もいるのに。若い子は頭が柔らかくていいねぇ」

 その言葉に直弘がくすりと笑う。

「真、その言葉、おじさんみたいだよ」

「いやいや、もう俺、おっさんだよ? 既婚者子持ちの四十五歳」

 四十五歳。伊織の父が五十一歳だから、直弘も同じくらいの年のはずだ。直弘は言う。

「僕も既婚者の四十五歳だけど、まだおじさんじゃないよ?」

「いや、見た目が若かろうが怪異だろうが、四十五歳はおじさんだ。なあ、伊織ちゃん」

 唐突に振られた話。伊織は答えに困る。

「ええっと、直弘さんは私から見て立場的には叔父さんですが、その……」

「お前、直弘さんって呼ばせてんの?」

 真が怪訝な声を上げる。直弘が珍しく眉を顰める。

「だっておじさんって呼ばれるの嫌だもの」

「変なところにこだわりみせるよな。お前」

「そうかな」

「そうだよ」

「そんなことないよ」

 直弘の不貞腐れたような顔。物珍しい思いで伊織はそれを見る。なんだか今日の直弘は浮世離れした雰囲気がない。地に足がついている。

「ねえ、カイナ」

 直弘に尋ねられて、カイナは掌を直弘から遠いところに置く。何か気に入らない事でもあるのだろうか。

 先程の様子を見ると真のことは好きではないらしい。話したくもないということか。いや、それだったら、直弘の言葉には返事くらい――。

 伊織の頭にふっと一つの可能性が浮かんだ。

 もしかして、カイナの機嫌が悪いのは真と仲良くする直弘へのやきもちか?

 伊織は思わず笑ってしまう。もしそうなら、可愛らしい。

 カイナが手首を上げ、伊織の方に身体を向ける。

『伊織ちゃん、何笑ってるの……?』

「いえ、カイナさんは乙女なのかなぁと」

 刹那、カイナの腕がプルプルと震えた。伊織はぎょっとする。何か不味いことを言っただろうか。

「カイナさん、どうしたんですか⁉」

 直弘も神妙な顔でカイナを見つめる。

「体調でも悪いのかい?」

 と、カイナが白手袋をはめた伊織の右手をぎゅっと掴んだ。

『伊織ちゃん。初めてだ、初めてだよ!』

「へ?」

『直弘さんは鈍いし、このおっさんはおっさんだし! 伊織ちゃん、後で恋バナしよう! SNSでもメールでもいいから、連絡先教えて!』

 なるほど、そういうことか。

 伊織はほっとし、そして微笑む。ズボンのポケットからスマホを取り出す。カイナと二人、連絡先を交換した。こういうことは久しぶりなのでなんだか楽しい。

 直弘と真が顔を見合わせる。そんな二人にカイナはスマホを突きつけた。

『これはおっさんどもには分かるまい』

「そんなぁ」

 直弘が眉を八の字にする。真は笑う。

「やっぱり、直弘もおっさんってことだよ」

 真が革の手袋をはめた手を直弘の肩にぽんっと置いた。

 革の手袋。

 伊織は自身の白手袋を見る。これでさえ暑いのだ。真の全身を覆う暑苦しいまでの装備。熱中症になったりしないのだろうか。

 伊織はおずおずと尋ねる。

「あの、本当にお水とか飲まなくても大丈夫ですか?」

「え、ああ。なんで?」

「あまりに暑そうなんで」

「大丈夫だよ」

 答えたのは直弘だった。

「今まで倒れたこともないし。真の体の強さは怪異だよ」

「お前なぁ」

 真の声を直弘は無視する。そして、彼は瞳を細くし「それに」と付け加える。

「真は怪異を腐らせるからね」

 怪異が腐る。

 伊織の血がさっと引いた。

 しらうさぎ。黒い泥。喰われた猫。血。死臭。

 頭にあの惨劇がフラッシュバックする。

 直弘は変わらない笑顔で続ける。

「真はね、怪異を腐らせる体質なんだ」

「怪異を腐らせる、体質?」

「そう。真が存在するだけで怪異が腐っちゃうんだ」

 伊織は恐る恐る真に視線を向けた。だが、真はあっけらかんとしている。

「悪いなぁ。俺、東京に出たことがあって」

 急に逸れた話に伊織はぽかんと口を開く。真が続ける。

「東京から帰ったら、俺がいるだけで怪異が腐っちまうようになったんだ」

「東京って人間がたくさんいるから汚らわしいんだろうね」

 直弘が当然のように言う。東京の人が聞いたら怒りそうだ。

 カイナは不服そうにタブレットを掲げた。

『東京じゃない。このおっさんが汚らわしいんだ』

「酷いこというなよ」

「まあ、僕は」

 直弘が静かな声で言った。

「もう一つ、理由があると思うけどね」

 静寂が訪れる。蝉時雨が部屋を満たす。

 直弘がぱんっと手を打った。部屋に小気味よい音が響く。

「さあ、そろそろ蔵掃除に向かおうか」

「へーい」

 真はのろのろと立ち上がる。伊織も立ち上がろうとすると、真がそれを止める。

「なんかえらい目に遭ったんだろ? 休んどきなって」

「え」

「伊織ちゃんの代わりに俺が助っ人として呼ばれたんだ。心配すんな」

 そう言って真はお家を出て、靴を履く。伊織はハッとした。

 よくよく考えたら、伊織はバイトとして雇われているのだ。ショッキングな出来事があったからといって仕事を放棄するわけにはいかない。部屋までもらっているのだ。働かなければ、存在意義がない。

「す、すいません。私、大丈夫ですので!」

「でも」

「私、お掃除のためにここに来たので!」

 伊織は目いっぱい声を張る。立ち上がった直弘が首をかしげる。

「伊織ちゃん、いいの?」

『全ておっさんにさせればいいんだよ?』

 二人の問いかけに、伊織は大きく首を横に振る。

「大丈夫です。させてください」

『いい子過ぎる!』

 カイナが伊織の手を取り、ぎゅっと握った。

『お給料は四十万円に増やそう!』

「どうして⁉」

 伊織は叫んだ。真のヘルメットが伊織に向く。

「伊織ちゃん、本当に適応能力高いな」

「僕達と違って若いからね」

 直弘がぼそりと言った。その背を真がはたく。

「まだ拗ねてんのかよ」

「拗ねてないし」

 そんなやりとりはカイナにとってさぞ面白くないのだろう。スマホに文字を打ち込み、伊織にぶつくさと文句を吐いてくる。伊織は小さく笑う。

 しらうさぎの一件は今も伊織の心をかき乱している。だが、こうしていると少しは気がまぎれる。しらうさぎに申し訳なさを覚えながらも、先ほどより心は軽い。

 蔵掃除に専念しよう。

 伊織は彼らの後に続いた。

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