第七話

『原稿が、進まない』

 スマホに打ち込まれたカイナの絶望の声。伊織はノートから顔を上げ、苦笑する。

 昨日は掃除を頑張った。そんな理由で、今日は休みとなった。

 お家でそれぞれの事をする。伊織は勉強、カイナは原稿、直弘は読書。

 左腕でパソコンを打ち、右腕で本を持ち、視線は本。その直弘の姿はあからさまに異様で、伊織は二日目にして、カイナの存在を受け入れていた。昨日の不思議な体験からも怪異の存在はもはや疑いようがない。

 伊織の勉強を応援するように、しらうさぎは跳ねる。伊織はその背を撫でる。

 カイナがついに、ぱたんと机に身を倒した。ダイイングメッセージを残すようにスマホに指を滑らせる。

『休憩を要求する』

 その文字を打ったきり、カイナはぴくりとも動かなくなってしまった。直弘が申し訳なさそうに伊織に言う。

「ごめん。りんごジュースをいれてきてくれないかな? 冷蔵庫にあるから。勿論、伊織ちゃんの分もね」

「分かりました」

 伊織は頷くと、土間に降り、炊事場からガラスコップを三つ取り出す。二つにりんごジュースを、一つに水を注いだ。

 お家に戻り、ジュースを机に置くと、カイナがのそのそと身をもたげた。

『これは、伝説のアップルジュース! 接種を所望します』

「はいはい、今飲むよ。伊織ちゃんありがとう。伊織ちゃんも飲んでね」

 直弘がりんごジュースを喉に流し込む。すると、カイナがぴんっと背筋を伸ばした。

『やはり、アップルジュースは最高だ! 美味しい!』

 不思議なものだ。伊織は直弘とカイナをじっと見つめてしまう。

 昨晩発覚したのだが、二人はなんと味覚を共有している。直弘が摂取したものの味をカイナは感じることができるというのだ。

 直弘が水の入ったグラスに手を伸ばす。

「ありがとう、伊織ちゃん。気が利いて助かるよ」

 水を飲み干し、ほっと息をつく直弘。

「やっぱり甘いものは苦手だなぁ」

『甘いものは最高じゃないですか!』

「僕は辛い物の方が最高だと思う」

『辛い物は魔の食べ物です……』

 味覚を共有している二人だが、好みは全く違う。何とも難解なものだ。

 視覚、聴覚、触覚は別らしく、嗅覚と味覚は同じらしい。伊織は何故かと問いかける。

『なんでだろうね』

「分からないね」

 それが二人の答えだった。

「怪異に理由を求めるのは意味のないことだよ」

 直弘は言った。伊織は妙に納得した。

 きっちり十五分。スマホのタイマーが鳴る。

『地獄の執筆が、今、始まる』

 カイナがのろのろとパソコンに向かい出す。伊織はグラスを回収し、立ち上がる。

「伊織ちゃん。洗い物は僕とカイナがするよ」

「いえ、大丈夫です。カイナさんに執筆させてあげてください」

『伊織ちゃんがナチュラルに鬼だ!』

 カイナの画面越しの叫びに笑顔を返し、伊織はグラス三つを盆に乗せ、炊事場に向かう。しらうさぎもついてくる。

 直弘とカイナは怪異だそうだが、水道料金も光熱費も税金も払っているらしい。そのため、水も電気も当たり前のように使える。つくづく怪異とは何か分からなくなってくる。

 炊事場から物音がした。

「え」

 伊織は炊事場に着き、驚きの声を漏らす。洗い場の下。鍋やフライパンの入った棚が荒らされていた。

「まさか、こんなところに泥棒?」

 しらうさぎに尋ねても答えなんて返ってくるはずもなく。

 お家に戻って二人に知らせようと思った矢先、足元でそれの瞳が光った。

 伊織は目を見開く。猫だ。

 体からどっと力が抜けた。伊織は箒を持ち、そっと猫を追い払った。

 白手袋を外す。さすがに、洗い物は素手だ。

 落ちた鍋やフライパンをグラスと一緒に洗う。猫が荒らしたのだ。衛生面から考えて洗っておいた方がいい。いや、二人は怪異だからお腹は壊さないと言っていた。己のためだ。隅から隅まで丁寧に洗う。

 しらうさぎが高く跳ねあがり、洗い場に乗った。洗い物も見慣れないのか興味津々といった様子で見てくる。

「落ちても知らないよ」

 伊織は小さく笑う。少しだけ水をかけてやると、しらうさぎは目を丸くしながらも気持ちよさそうに身を震わせた。

 そんな平和な時間もすぐに終わりを告げる。

 窓から猫がしらうさぎを狙うように身を投げた。伊織はとっさにしらうさぎをかばうように抱き込んだ。

「危な――」

 そこで伊織の言葉は途切れた。手にしらうさぎはいなかった。

 黒く艶のある泥の塊が伊織の手から地面に落ちる。べちゃり、とグロテスクな音をたて、床に這いつくばるそれは、苦しむように、のたうち回るように、蠢く。腐臭が、いや、死臭というのか、生臭いにおいが鼻から入り込み、体に回る。

 魅入られたように立ち竦む伊織。逆毛を立たせた猫に、泥が飛び掛かった。

 ぐちゃぐちゃ、ばきばき。炊事場に響く音。

 気付くのには時間を要した。頭が理解を拒んでいたのだろう。だが気付いてしまう。分かってしまう。

 泥が猫を喰らっているのだ。

 伊織の口から悲鳴が漏れた。

「どうしたの?」

『伊織ちゃん、大丈夫⁉』

 直弘とカイナが炊事場に顔を出す。伊織は手に泥の残滓を滴らせながら、口から声にならない声を漏らしていた。

「ああ、腐っちゃったか」

 直弘はこともなげに言う。

『素手で触れちゃったね?』

 カイナの言葉に伊織は今更ながらに気付く。そうだ、しらうさぎを抱き込んだ。その時の伊織は白手袋をはめていなかった。

 己の腕を見た。肌が露わになっている。そこに絡みつく泥の残滓。

 腕に痛みが走る。僅かな泥が己の手に噛みついている。カイナが伊織に手を伸ばす。だが、直弘はそれを止めた。

「カイナ、腐っちゃうよ」

『あ、そうでしたね』

 そう言うと、直弘は右腕にゴム手袋をはめ、伊織の手に付いた泥を地面に落とす。

 伊織の腕にいくつもの歯形がついていた。それは、クッキーを食べる時にしらうさぎが見せた歯、その形だった。

「しら、うさぎ、さんは……?」

 伊織の喉から絞り出した声に、直弘はいつもの笑顔で答える。

「腐っちゃった。伊織ちゃんが素手で触れたから」

 伊織の心臓がドクン、と大きく脈を打った。

 腐らせた。己が。あの愛らしい生き物を――。

 伊織は縋るように、未だに猫を貪る泥に目を向ける。だが、手を伸ばすことも、謝ることもできなかった。

 泥から血が吹き出す。骨がはみ出る。肉が飛び散る。それは、あまりにおぞましかった。

『伊織ちゃん。これはもう、しらうさぎさんじゃない。腐った怪異、化物だよ』

「もう、元には戻らない」

 カイナが、直弘が言った。伊織の膝は震え、やがて、力を失い土間にへたりこんだ。

 猫を捕食したそれはやがて満足したのか、伊織の手についていた残滓と一体になり、窓の外へ消えた。

「あるべき場所に還ったね」

 直弘が呟いた。

「郵便でーす!」

 玄関からやけに明るい声が聞こえた。

「はーい」

 直弘が何事もなかったように返事をし、玄関に歩いていく。

 しらうさぎだったモノが消えた炊事場にはまだ死臭が残っている。それが通っていった場所には赤黒い血が滴っている。腕には歯形がくっきりと残り、血が滲み出た。

 伊織は口元を押さえた。

 込み上げる吐き気を押さえられず、その場で嘔吐した。口の中に酸い味が広がるまで何度も何度も。

 だが、伊織はその中に喜びを覚えていた。

 

 やはりそうだ。ここは異常だ。だから、この中にいれば、私は、いや、私でさえも、普通でいられる。

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