第五話

一六時。作業再開。白手袋を新しいものに替えて、伊織は片付けに臨む。大きな箱や行李の処理は終わり、箱の中に入っていた小箱の中身の選別だ。

 木箱もあれば、古いお菓子の缶もある。中身は家計簿だったり、農業の説明書だったり、古びた観光案内のパンフレットだったり。

「兄さんは全部捨てていいって言ったんだよね」

「はい」

 直弘の問いに伊織は答える。伊織をこちらによこす際、父は家にあるものの扱いは全て弟に任せると言った。

「だったら、もう捨てていいか」

 直弘は箱ごと袋に捨てていく。一方カイナの手は止まり気味だ。

『うう、捨てるの悲しい……』

「そうだね。カイナは僕より古くからこの家にいるもんね」

 直弘はカイナを撫でた。その手は優しく慈しみを感じる。

「でも捨てようか」

『非情だ!』

 切り捨てるような直弘の言葉にカイナは素早く文字を打ち込み、スマホを彼の頬にぐりぐりと押し当てた。

 さすがにこれを自作自演は難しいだろう。直弘とカイナは別個体。異常なモノ。だけど、仲睦まじい普通の夫婦。

 ああ、彼らはもしかしたら、己より普通なのかもしれない。

 急に足元に穴が開いた感覚に襲われた。嫌な気分に呑まれそうになった伊織の前で、しらうさぎがぴょんと跳ねた。そして、伊織の膝に飛び乗る。伊織は大きく深呼吸する。

「ありがとう」

 しらうさぎの背を撫でた。

 伊織はしらうさぎを膝に乗せながら、手を伸ばす。A5くらいの大きさの古びた封筒。封を開け、中身を取り出す。それは写真だった。

『おおおお!』

 カイナがスマホに文字を勢いよく打ち込む。興奮が伝わってくる。

 カイナに促され、伊織は何十枚もある写真を一枚一枚捲っていく。しらうさぎも興味津々の様子だ。

 写真は白黒のものとカラーのものがあった。ほとんどの写真がこの家で撮られているようだ。見覚えのある景色が背後に映り込む。

 母屋をバックにして撮られた家族写真を、カイナが伊織の手から抜き取った。

『これ、直弘さんだよ!』

 彼女は写真の中の幼い少年を指さす。その子どもは確かに直弘だが、今の彼から想像もできないくらい不貞腐れた顔をしていた。直弘が照れ笑う。

「恥ずかしいな。あ、僕の横が兄さんだよ」

 直弘とは真逆に幼い父は満面の笑みを浮かべている。父は彼の母親、伊織の祖母に寄り添っている。

 伊織はわだかまりを覚えた。それを無視するように他の人物に目線をずらす。

 祖母の横に立っているのが祖父だろう。あと一人。祖母とは違い、直弘の方を心配そうに見ている初老の女性。

「もしかして、この方が私のひいおばあちゃんですか?」

「そう。彼女が僕の祖母、イトさんだよ」

 直弘の言葉にしらうさぎが写真に飛びつく。そして、写真をじっとみると、小首をかしげた。少し考えた後、直弘がああ、と声を上げる。

「確かに君はこの頃の祖母を知らないかもしれないね」

「え?」

「ほら。この子が出てきた帯を思い出してごらん」

 言われて伊織は頭に黒地に雪の結晶が入った帯を思い浮かべる。カイナが人差し指を立てる。

『確かにおばあちゃんになったイトが着るには可愛らしすぎる』

「その通り」

『私ってば名推理』

 カイナは指を鳴らした。

 なるほど、確かに大人の女性が身に着けるものではないのかもしれない。

 しらうさぎはイトに興味があるようだ。ならば――。

「若い時のひいおばあちゃん、イトさんを探せばいいのかな?」

 伊織は写真の中から白黒のものを見つけ出し、畳の上に広げてみる。

 しらうさぎは伊織の膝から畳に飛び降り、一枚一枚写真を吟味していく。伊織は己の前に写真を広げていくが、そのうち場所が足りなくなり、己を囲むようにそれらを置いていった。

 不思議な心地がした。

 背景は知っている。この家だ。だが、白黒写真に写るのは見知らぬ人。だけど、彼らはここで暮らしていた人。ここにいる人は皆、普通だったのだろうか。いや、普通だったのだろう。結婚し、子を成し、家族を守ってきた彼らは。

 しらうさぎはそんな伊織の気など知らないだろう。伊織の周りを小さく跳ねながら、写真を見ている。

 しらうさぎの動きがある一枚の写真の前で止まった。

「見つけたのかな?」

 直弘が写真を覗き込む。伊織もそれに倣う。そこには着物をまとった女性が佇んでいた。だが、肝心の顔の部分は水で濡れたような染みがあり、表情は見えない。

 しらうさぎが写真の上で跳ねる。

「え」

 伊織は声を上げた。しらうさぎが写真の中に潜り込んだ。まるで水の中に飛び込むように。

 白黒写真が渦を描き、景色も人物も混然一体となる。そして、ごぉっ、と大きな風が吹いた。

 あまりの風圧に伊織は目を閉じる。次の瞬間には、ぼとん、という音。体がふっと浮く。昼下がりのまどろみのように心地よく沈んでいく。

 とんっと、背に何かが当たった。伊織はハッと我に返り、恐る恐る目を開ける。

 そこは水の中だった。プールの中のように、上から光が降り注ぐ。ただ、色はない。白黒の水の中。目に入った己の手。伊織自身も色を失っている。

 体を起こす。息は苦しくない。だが、呼吸をするごとに伊織の口から泡が漏れる。靴下をはいた足はしっかりと漆黒の水底についており、水中特有の抵抗もない。歩くのに問題はなかった。

 夢のようだ。ここはどこなのだろう。誰もいない。何も聞こえない。

 目の前に白く丸いものを見た。しらうさぎだ。

 このままここにいるわけにもいかない。伊織はしらうさぎを追うことにする。跳ねるしらうさぎは中々に早い。足を速めてやっとその背が近づいてくる。

 上から刺す光が強くなってくる。視界が真っ白に染まった。

 眩しさに閉じた目を開けると、そこは岩森家の前だった。桜が舞っている。いや、違う。

「雪だ」

 伊織は零した。手をかざしてみるが雪は掌をすり抜けていく。

 家の中から怒鳴り声が聞こえた。伊織は思わず身を固くする。玄関の扉が開き、追い出されるように女性が出てきた。彼女の息は白い。

 女性の顔はこちらには向かない。だが、しらうさぎは彼女の足元を駆けまわる。きっとあの女性がイトなのだのだろう。しらうさぎは縁側に腰を掛けたイトの周りを飛んだり跳ねたりする。だけど、イトはそんなしらうさぎの方を見ない。

「無理だよ」

 後ろから聞こえる声に伊織は振り返る。直弘だ。

「ここは写真の中。思い出の世界。君は気付いてもらえるはずもない」

 嫌に冷たく聞こえる直弘の声。しらうさぎの耳はこちらに向いている。だが、聞こえないのか、聞こえないふりなのか。懸命にイトの傍らで跳ねている。

「それはただの幻。君も知っているはずだ」

 直弘の声をしらうさぎは聞かない。イトの気を引こうとしたのだろう。しらうさぎは彼女の膝に飛び込んだ。だが、しらうさぎは彼女の膝をすり抜け、縁側の板もすり抜け、地面に落ちた。何度も何度もそれを繰り返す。

 必死なしらうさぎの姿。伊織の胸は締め付けられる。あまりに切ない。

 伊織の手をカイナが引いた。

『伊織ちゃん。お願い、言ってあげて』

 唇を噛む。しらうさぎがまたイトに向かっていく。

『イトはもう死んだって』

 伊織は行き場のないやるせなさを振り払うように、しらうさぎの元へ駆ける。そして、白手袋をはめた腕で、しらうさぎを拾い上げた。

「もう、やめよう」

 しらうさぎは伊織の手の中で暴れる。伊織はそれを強く抱きしめる。

「イトさんは、もう、会えない人なの」

 しらうさぎの動きがふっと止まった。

「もう、この世にいない人なの」

 直弘とカイナがこちらに歩んでくる。直弘が口を開く。

「生き物は僕達と違う。あっという間に死んでしまうんだ」

 しらうさぎが伊織の腕に埋めた顔を上げる。そして、俯くイトを見つめる。しらうさぎの真っ赤な目から透明の雫が落ちた。

『イトは怪異が好きだったんだ』

 カイナがスマホに打ち込んだ。

『家でも外でも外れ者。だから、イトは怪異になりたかった。でもね、やっぱり彼女は人間だったんだ』

 カイナは続ける。

『人間として生きるには外れ者ではいられなかった。外れ者は生きづらいから』

 外れ者は生きづらい。カイナの言葉が伊織の胸を刺す。

『だから、イトは怪異を忘れようとした。だから、あなたは行李の中に入れられてしまった』

 カイナが伊織の方を向く。しらうさぎは文字が読めない。伊織はカイナの言葉をしらうさぎに伝える。

 しらうさぎの涙は先程から止まらない。直弘がしらうさぎの頭を撫でた。

「でもね。僕は君のことを知っていた。何故だと思う?」

 しらうさぎは首をかしげる。

「祖母が君のことを話してくれたからだよ。この家のどこかにいる大切な友達の話をね」

『だからさ、帰ろう』

 伊織はカイナの文字を読み上げる。

「『私達の世界へ』」

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