第一章 しらうさぎ
第三話
「に、にじゅうまん⁉」
「うん、二十万」
『二十万円だよ!』
伊織の叫びに直弘とカイナはさも当然のように答えた。
伊織が岩森家に着いて一時間。既にバイトは始まっていた。
お家のある母屋。それとは別棟の離れ。
擦りガラスのはまった玄関扉を開けると、人一人入るのがやっとの靴置き場が現れる。一階は外に面した物置になっているため、玄関を上がると直ぐに階段。勾配はきつく、段差と段差の間から下が見える。中々に怖い。
階段を登り切ると、木製の廊下。まっすぐ十メートル程伸びている。手前と奥に一部屋一部屋。計二部屋。どちらも例にもれず和室だ。
この奥の部屋が伊織の寝泊まりする場だと言うが、それはもう、大変なことになっていた。
積まれる箱、箱、箱。小さなものから大きなものまで。竹で編まれた箱、木製の恭しい箱、段ボール。めちゃくちゃだ。
むっとした熱気を放つように木戸が開かれた。
今、伊織達は箱を一つずつ開け、選別をし、片付けを行っている。
蒸し暑い部屋。扇風機を二台回す。それでも、長袖長ズボンに白手袋をした伊織にとっては暑くて仕方ない。だが、そんなことも高額すぎるバイト料の提案で吹っ飛んでしまった。
「そ、そんなにもらえません!」
「でも、きついよ。片付け」
『二十万円は妥当だよ』
二人は伊織の言葉をまともに取り合ってくれない。段ボール箱を開け、埃にむせながら伊織は言葉に詰まる。
「で、でも」
「大丈夫。お金はあるからね」
直弘がにこりと笑う。手首にストラップを付け、スマホをぶら下げるカイナが文字を打ち込んでいく。
『そうだよ!こう見えてそれなりに売れっ子なんだから!』
「あ、そういえば、叔父さんは――」
直弘が困ったような表情を浮かべる。伊織はハッとする。直弘は「叔父さん」と呼ばれるのがどうもしっくりこないようで、呼び方を変えて欲しいと言われたばかりだ。
伊織は気を取り直し、咳払いをする。
「その、直弘さんは作家さんでしたね」
理解に苦しむ出来事が続いてすっかり忘れていたが、そう父に聞いていた。だが、直弘は首を横に振る。
「僕じゃないよ」
「え」
『ふふ、なんと私が作家なのだ!』
スマホに打ち込まれたカイナの言葉に伊織は絶句する。直弘が積み上げた段ボールの一つを片手で器用に下ろしながら、小さくため息をつく。
「僕はパソコンを使うのさえ億劫だからなぁ」
『パソコン関連は私に任せてください!』
カイナが直弘に向かって、ぐっと親指を立てる。
パソコン関連ということはスマホもカイナが用意したのか。なんと、この家が現代的なのはカイナのおかげだったのだ。驚きしかない。
「カイナさんは現代的な怪異なんですね」
『すごいでしょ』
思わず漏れた感想に、カイナはピースサインを出した。
「すごいです」
伊織は頬に滴る汗を拭いながら、素直に答える。直弘が段ボールを開ける。
「でも、三十万でもいいかもなぁ」
「どうして増えるんですか⁉」
「危険料だよ」
「え」
伊織が身を固めているのをよそに、直弘がお中元でもらったであろう未使用の洗剤を選別もせずにゴミ袋に入れていく。カイナがスマホに文字を打ち込む。
『怪異は危険だからねぇ』
カイナも怪異ではないのか。
伊織がぽかんと口を開けている横で、二人は片付けをしながら世間話をするかのようにのんびりと話をする。
「カイナ。それじゃ誤解を生むよ。怪異はさほど危険じゃない」
さほどというのが怖い。
『確かにそうですね。伊織ちゃん、怪異は大丈夫!つまり私達はそこまで危険じゃない!』
「ただ、そこに在るだけだよ」
二人の言葉に伊織はぎこちなく頷く。
やはり彼らも怪異なのだ。何かしら危険であることは分かった。肝に銘じておこう。
ただ――。
直弘の瞳が弧を描く。
「怪異は腐るから怖いんだよ」
「腐る、ですか」
「そう。怪異は腐ると化物になるんだ」
直弘の細い目から見えた黒目がどろりと蠢いたように見え、伊織は反射的に目を逸らした。カイナが伊織の白手袋をとんとん、と指で叩く。伊織の視線は自然とカイナのスマホに向く。
『腐った怪異、化物はイキモノを喰らう』
「え」
『勿論、人間も』
伊織は顔を上げ、部屋全体を見渡した。
この部屋の中には怪異がいて、腐れば人を喰う。人間の素肌に触れると怪異は腐る。触れた瞬間に伊織は化物の口の中。牙は生えているのだろうか。そしたら、痛いだろうな。それは身体に突き刺さり、伊織を貫く。頭の中の映像が真っ赤に染まった。
「伊織ちゃん、大丈夫?」
直弘の声に我に返る。
「す、すいません」
『ごめん!ちょっと怖がらせすぎちゃったね!確かに腐りやすいけど、その、とりあえず、危ないモノだってことを覚えといて』
「……。分かりました」
伊織は頷く。
そうなればいいのに。どこか思った己もいた。
『さて、サクサク行こうか!今日この部屋の片付けが終わらないと伊織ちゃんの寝る場所がないぞー』
「それは困りますね!」
伊織は打って変わって元気よく箱に向かい合う。段ボール箱を次々と開けていく。
ティッシュの箱や錆びたブリキのおもちゃ。縦書きの古い家計簿から虫の死骸がぽとりと落ち、伊織は悲鳴を上げた。
十時半から始まった作業。十三時にお家に戻り、昼食休憩を取る。だが、用意された食事は一つだけ。
今更ながら思った。歓迎されていないのだろうか。だが、どうやら違うようだ。
「ああ、僕ら食事を摂らなくてもいいんだ」
『そうそう。趣味で食べることはあるけどね』
二人にとって食事は嗜好品らしい。
午前中で既にカイナの存在に慣れ始めていた伊織だったが、当然、直弘の妄言という説も捨てきれなかった。しかしながら、食事を摂らないのはさすがに説明がつかない。
怪異の信憑性が増してしまった昼時であった。
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