第二話
「どうぞ」
招かれて玄関をくぐると、そこは土間だった。硬く踏みしめられた茶色い土の空間。広さは八畳くらいあるだろうか。右手の壁は物置になっているらしく、黒い木材の扉がついている。
左手は腰丈程の段差。その上に畳の部屋が広がっている。物々しい木製の机。敷かれた四枚の分厚い座布団。客間だろうか。
「きっとこういった家は見たことないよね」
直弘の言葉に伊織は頷く。
更に奥に進むと、木の敷居があり、その奥にもう一つの土間がある。直弘は伊織のスーツケースを右手で持ち上げ、敷居を超えさせた。
二つ目の土間に入ると、右手には炊事場、左手にはまた腰丈の段差。段差の前には木で出来た踏み台が置かれている。段差の上、擦りガラスのはめ込まれた木製の扉を直弘が開ける。
「ここが『お家』だよ」
「オイエ……?」
「ああ、居間をそう呼んでるんだ。さあさあ、上がって」
直弘はスーツケースを持ち上げ、お家に置く。左手は一切使わなかった。
伊織は促されるまま、直弘に倣い、靴を脱ぎ、踏み台を使ってお家に上がった。
何とも生活感のある部屋だった。真ん中には大きな掘りごたつ。今は夏だから毛布はしまわれているが立派なものだ。八人は座れるだろう。
「散らかっていてごめん。今、お茶を入れてくるから好きに座っておいて」
「ありがとうございます」
伊織は軽く会釈し、入り口に近い座布団に腰を下ろす。座布団は客間の厳かなものとは違い、モダンな花柄でセンスがいい。
だが、机の上は大変散らかっている。ペンやノート、袋菓子や卓上ごみ箱まで、ひどいと言っても過言ではない。だが、何より伊織の目を惹きつけたのはパソコンやスマホ。伊織は拍子抜けした。
こたつの正面には台に乗った薄型の大きなテレビ。電気はシーリングライトだし、羽なし扇風機まで置かれている。あまりにも現代的だ。
山奥に暮らす偏屈な小説家。しかも、彼は着物で、女の腕がついていて、それを妻と呼ぶ。建物も築百年は超えているだろうし、てっきり昔の生活をしていると思っていた。
「お待たせ」
直弘が盆をお家の畳の上に置き、下駄を脱いで上がってくる。
ガラスコップは二つ。直弘と伊織の分だろう。もしや、腕が妻というのは質の悪い冗談なのだろうか。
直弘は伊織の正面の席に座り、麦茶を差し出した。
「ありがとうございます」
「うん。こちらこそ。遠いところからありがとう」
にこにこと笑う直弘。柔らかなその物腰。変な冗談を言うとは思えない。
「さて、伊織ちゃん。まず、知ってほしいことがあるんだ」
「はい」
伊織は頷く。腕の妻は冗談だとか。いや、妻の存在は冗談ではないということか。
直弘が口を開く。
「あのね、僕とカイナは怪異なんだ」
「は?」
「僕とカイナは怪異」
何を言われているか全く分からなかった。
怪異というと妖怪とかそういうものの類の事だというのは分かる。だが、叔父は父の弟だし、人間のはずだ。そもそもそんなものが目の前にいるはずがない。
「えっと……」
「信じられないかな?」
「は、はい」
伊織は正直に答えた。直弘は首をひねって、左腕を撫でる。
「カイナ、どうしよう」
左腕が動いた。手元にある銀色のスマホを引き寄せ、高速で打ち込みフリックを決め込む。あまりに素早い。どこかのんびりとした直弘からは想像もできない動きだ。
スマホがこちらに差し出される。
『はじめまして、伊織ちゃん。私は直弘さんの妻のカイナです』
「は、はあ……」
伊織は間抜けた声を漏らす。またもや左腕がスマホに文字を打ち込む。直弘はこちらに顔を向けて、にこにことしている。スマホの方は一切見ていない。
左腕が勝手に意思を持ち、動いているようにも見える。ブラインドタッチだろうか。スマホのブラインドタッチは初めて見る。
左腕がスマホをこちらに向けた。
『といっても、やっぱり信じられないと思う』
伊織は頷く。
『でも、なんていうか、どうやっても証明はできないから……。その、慣れて!』
投げやりだ。投げやりすぎる。
伊織は唖然とする。この訳の分からない状況。怪異を名乗る叔父にスマホで会話してくる腕。
『あの、気味悪いと思うけど仲良くしてくれたら嬉しいなぁ』
怪異。実際にいたら恐ろしいだろう。だが、目の前のそれはなんだか可愛らしく思えた。
伊織はくすり、と笑う。
「えっと、慣れるのには時間がかかると思いますが、その、よろしくお願いします」
『なんていい子なんだ!』
左腕は、いや、カイナはドンッと机を拳で叩いた。
「伊織ちゃんが柔軟な子でよかったよ。兄さんは何度言っても信じてくれないからね」
あの堅物の父が信じるはずもない。伊織だって心から信じているわけではないが、一か月以上ここで暮らすのだ。疑いを持って過ごすより、彼らを信じ切ってしまった方が居心地はいいだろう。
改めて直弘とカイナを見る。
直弘の二の腕と、カイナの連結部。直弘の二の腕にカイナの青白い腕が根を張っている。直弘の異常な若さも、怪異と言ってしまえば説明がつく。そう己を納得させる。
カイナが文字を打ち込む。
『あとね、伊織ちゃんには守ってほしいことがあるの』
「なんでしょうか」
伊織は背筋を正す。カイナが文字を打ち、直弘がビニール袋を差し出してくる。
『こちらでございます』
「はい」
カイナの芝居がかった言葉と直弘の軽い声のギャップに小さく笑ってしまう。
伊織は目の前に置かれたビニール袋を開く。そこには肘まで丈のある白手袋が五組入っていた。
「手袋?」
「そう。この家では必ず手袋を付けて生活をしてほしいんだ」
伊織は考えを巡らす。手袋を付ける理由が思い当たらない。補足するようにカイナがスマホを打つ。
『あのね、怪異は人に触れると腐ってしまうの』
「腐る?」
「そう。怪異は腐りやすいからね」
直弘は答える。何も分からない。だが――。
「もし、今、私がお二人に触れたら」
「腐るね。間違いなく」
直弘は変わらない笑顔で言った。訳が分からないが、冗談を言っているようには思えない。伊織は慌てて袋から手袋を取り出し、腕にはめた。
『ありがとう』
「伊織ちゃん。もし、この家で不思議なモノを見たら、決して触れてはいけないよ」
「『人間は汚らわしいからね』」
カイナの文字と直弘の声が重なった。スマホの中の明朝体が、直弘の笑みを含んだ声が急に異質なものに思えて、伊織はぞくり、とした。
『でも、手袋付けてくれたら全くもって問題なし!』
カイナの打ち込む文字から冷たさが抜け、親しみやすさが戻ってくる。空気は緩むが伊織の体は硬いまま。
『素手じゃなければ大丈夫だからね!』
そう言ってカイナの掌が机に乗った伊織の手に伸びた。伊織に触れようとしたカイナ。伊織は反射的に身を引いた。
直弘が笑う。
「大丈夫。怖がらなくていいよ」
伊織の心臓はバクバクと音を立てる。だが、初日で嫌われるわけにはいかない。
思い切ってカイナの手を握る。ぞっとした。手袋越しでも分かる。その手は氷のように冷たい。
二人を見つめる。彼らは己とは違うイキモノ。異様なモノ。
伊織は思う。
だったら私は普通かもしれない。
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