異類婚の番とノーマルな私

針間有年

序章

第一話

 普通は幸せの象徴だ。


 岩森伊織いわもりいおりの信条だった。

 平均的な身長体重。成績は悲惨ではないが、とびぬけているわけでもない。友達もそれなりにいる。父、母、伊織。そんな一般的な家庭環境。

 伊織はどこにでもいる普通の高校生だった。普通の少女だった。


 どこまでも普通のはずだった。



「叔父の家に?」

「ああ」

 七月の半ば。部屋にこもる伊織に珍しく父が声をかけてきた。伊織は布団から起き上がり、深呼吸して、扉を開いた。

 父は厳しい目つきで伊織の斜め下を睨みながら、硬い声で言う。

「家を整理するらしい。私は仕事で行けないから、伊織が行ってくれないだろうか」

 父には一人・弟がいる。彼は生まれ育った山深くの家に一人で住んでいるという。伊織は彼に会ったことはない。だが、なにやら偏屈らしく職業は作家だとか。

「ひと月以上かかると思う。向こうに泊まることになると思うが」

「いいよ」

 言い澱む父に伊織は精一杯明るい声を出す。 

 父の顔が強張っているのに伊織は気付かぬふりをする。彼は伊織と目を合わさないまま口を開く。

「……。終わったら何か欲しいものを買ってあげるから、考えておきなさい」

「別にいらないけどね」

 伊織は出来損ないの笑顔を浮かべた。

 出発は明日らしい。急なものだ。

 伊織は二階の自室を出て、準備のため一階へ向かう。

 階段を静かに降りる癖が抜けない。あれだけ祖母に小言を言われていたのだ。仕方ないだろう。

 

 半年前まで、この家で祖母と同居をしていた。

 父方の祖父母は元々、今叔父が住む山奥の家に住んでいたが、そこを離れ、郊外のマンションで暮らしていた。

 だが、一昨年、祖父が他界。祖母一人の生活を心配した父が同居を決めた。

 そして半年前、祖母は階段から落ち、頭を打って死んだ。

 伊織はその時のことを思い出し、かぶりを振る。代わりに明日からのことに思いをはせた。

 山での生活。不安もある。

 台風で木が倒れ、一時通行止めになったとか、熊が出たとか。だが、何より偏屈な叔父が気になる。祖母の葬式にも来なかったのだ。面倒な人だったら嫌だ。

 しかしながら、行く以外の選択肢はない。

 伊織はスーツケースに衣服を詰め込んでいく。スマホの充電器、イヤフォン。田舎の生活は退屈だろう。インターネット環境は整ってるらしいから、スマホゲームが捗りそうだ。ふと思い至り、勉強道具も詰め込んだ。

 家を整理するとなると、軍手や体操服が必要かもしれない。体操服を用意し、下駄箱から庭掃除用に用意されている軍手を拝借した。

 何の変哲もない黒いスーツケースが膨れ上がる。物を選別しているうちにあっという間に日を跨いだ。

 伊織は暗くなったリビングで遅い夕食を摂る。

「ごちそうさまでした」

 小さな声が誰もいない薄暗い部屋に消えた。

   

 伊織の住む郊外の街から車で二時間。

 午前十時を回るのにシャッターが下りたままの商店街、信号なんてお構いなしに道路を渡る人、底が透けて見える川。

 これが田舎か。

 父と二人、車に乗りながら、伊織はぼんやりと外を眺める。

 やがて、車が山道に突入する。

 杉と檜が乱立した森。夏の強い日差しが木々の間から差し込むがそれでもやはり、山の中は薄暗い。いつのまにか民家は姿を消していた。

「お父さん、運転気を付けてね……」

 伊織は思わず口にする。

 車一台通るのがぎりぎりのアスファルトの道。雑草は所かまわず頭を出し、道路は凸凹としている。右手は土で固められた苔だらけの垂直の壁。そして、何より左手は急な斜面となっている。ガードレールすらない。

 伊織は車内から斜面を覗き込む。

 落ちる先は見えている。十メートル程下。木々が生えているため真っ逆さまということはないだろうが、車で落ちた場合、木にぶつかり、枝が折れ、ガラスが突き破られ、中の人間は死ぬだろう。

 伊織は斜面から目を逸らす。刹那、急ブレーキがかけられた。

「っ」

 父が声にならない声を上げる。車はそれの直前で止まった。

 車の目の前には鹿。こちらが冷や汗を流したなど知りもしないだろう。それは素知らぬ顔で山道を駆けて行った。

 鹿が路上に現れるなんて未知の世界だ。伊織はごくりと息を呑んだ。

 それから二十分程行っただろうか。

 ヒヤリとするような幅の道を行くと下り坂が見えてくる。素人がセメントで固めたような道。その道を車はゆっくりと注意深く下りていく。

 見えてきたのは二つの木造の建築物。一つは正面に見える平屋建ての、それこそ、歴史の教科書で見たような古びた家。そして、その建物に対して九十度の角度で建てられた、二階建ての家屋。一階は居住スペースではなく、屋外に面する物置となっている。

 平屋建ての家に目を移す。

 瓦の屋根。正面に見える三分の二のスペースが外に面した縁側、濡れ縁となっている。そして、残りの三分の一が玄関。玄関は木製の引き戸。下半分は木で出来ているが、上半分は襖のように紙が貼ってあるだけ。鍵もなさそうだ。

 不用心極まりない作りに伊織は驚く。だが、ここらに民家はなかった。こんな山奥まで入ってくる物好きもいないだろう。そう考えると、この作りも自然なものに思えた。

 車が四台ほど入れそうな家の前に父は車を止める。音が聞こえたのだろう。玄関から人が現れる。

 今時珍しい着物を着た男だった。

「伊織はトランクから荷物を」

「はーい」

 父の言葉に伊織はシートベルトを外し、助手席を降りて、車後方のトランクに向かう。重たいスーツケースを運び出し、玄関の方に向かう。

「兄さん、お茶でもどうだい?」

 叔父の言葉に父は顔を強張らせている。己を見る顔と同じだ。伊織は固まる。父が己以外にこの表情を向けているのを初めて見た。

 どんな人物だ。伊織は叔父に目を向ける。

 驚いた。父の弟というのにひどく若い。父は五十を過ぎている。だが、彼はまだ二十代と言われても分からない。

 短く切りそろえられた黒い髪に切れ長の瞳。すっとした鼻筋に、薄い唇。控えめに言ってイケメンの部類である。きっちりと着こなされた深緑の着物がよく似合う。

 父は叔父の申し出を断ると伊織に顔を向けた。

「また、八月の末に」

「分かった」

 伊織は答える。父は伊織の言葉に軽く頷くと、車に戻り、あっさりと帰ってしまった。

 車を見送る。一時的にと言えども、扱いに困るモノを捨てることができた。父は喜んでいるだろう。いや、父だけじゃない。皆。

「伊織ちゃんだね」

 ハッとして振り返る。

「ごめんなさい、挨拶もせずに……!」

 伊織が慌てて頭を下げると、彼はくすくすと笑った。

「はじめまして。僕は君のお父さん・岩森浩二いわもりこうじの弟、岩森直弘いわもりなおひろ。よろしくね」

「こちらこそ、お願いします!」

「元気だねぇ」

 涼やかな顔立ちとは裏腹に、その笑みは穏やかだ。ぶっきらぼうな父とは対照的な人物らしい。偏屈と聞いていたから、人当たりの悪い人物を覚悟してきた伊織は毒気を抜かれる。

 直弘が彼自身の左腕をさする。

「カイナも君に会えて嬉しそうだ」

「カイナ?」

「そう、僕の妻なんだ」

「え」

 伊織は思わず声を上げた。

 直弘は独身だと聞いていた。この山奥で一人暮らしているのだと。

 直弘は照れ臭そうに笑い、左腕の着物の袖をまくり上げた。

 貧弱な、それでも、骨ばっていて一目で男性のものと分かる二の腕。だが、その肘から下は――。

「彼女が僕の妻、カイナ。よろしくね」

 肘から下には、青白い、それでいて、作り物のように美しい女の腕がついていた。

 その腕は、お辞儀をするように腕を立て、手首をぺこりと曲げた。

 伊織は言葉を失った。

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