第21話  『二人』


凌羽は体にのしかかる疲労を感じながらも、全力で走っていた。


一分でもいい。


一秒でもいい。


とにかくはやく前に進みたかった。



奈々未と山端が戦っている新トンネルから二百メートルほどはなれたところに、特事のスタッフが待機している。


そのスタッフのもとにいき、体力が回復するサプリメントをもらわなければならない。


それを摂取したらすぐに奈々未のもとにとってかえすのだ。


奈々未をひとり残してきたことがなによりも気がかりだ。


山端の復活は予想外だったが、それも自分がきちんと対処しなかったせいである。


そのせいで奈々未がケガでもしてしまったら、悔やんでも悔やみきれない。


無論、奈々未がそんなことで凌羽に責任を追及するわけはない。


だが、凌羽にとって、奈々未はそれだけ大事な存在なのである。



 

凌羽には幼少のころの記憶がない。


ぼんやりと街をさまよっているところを警官に保護されたのだ。


名前も、住所もおぼえていなかった。


おもいでのかけらさえ浮かんでこない。


運動靴に記された〈桜洋守凌羽〉というめずらしい名前。


それだけが彼という人間を証明するものだった。


そして、そんな凌羽を探している家族もいないようだった。



やがて、その理由が判明する。


火事によって両親を失い、そのときのケガで記憶障害をおこしていたのだ。


そうして身よりのなくなった凌羽は、施設に入所することになった。


違和感をおぼえながらも、凌羽は教えられた自分の名前を心の中でくりかえした。


何度も何度もくりかえした。


自分にいい聞かせるようだった。


これがボクの名前。


それ以外、ボクはボクを知らない。


だから絶対に忘れてはいけない。


忘れてしまえば、ボクはまた、ボクを失う。


さみしさより、不安のほうが大きかった。



おなじ施設の子は、おまえの家族は死んだんだ、といった。


そう教えられても記憶のない凌羽には実感がなかった。


ほんとうはちがうのではないか。


ほんとうはだまされているんじゃないか。


なにかをかくしているのではないか。


おかあさんはどこにいるんだろう。


おとうさんはどこにいるんだろう。


兄弟はいたんだろうか。


友達はいなかったのか。


頭の中を探ってみても、なにもおもいだせない。



べつな子は、おまえの両親は殺されたんだ、といった。


またべつな子は、両親は殺人犯で、警察に捕まったんだ、ともいった。



否定できなかった。


いいかえせなかった。


おとなしくて、人見知りが強い性格だったからではない。


そのどれもが正しいかもしれない、とおもったからだ。


すべてに可能性がある、とおもったからだ。


何者かわからないのに、たしかに自分はここにいる。


凌羽は、そんな自分自身が気持ち悪かった。


白紙の本をめくるように、無為な日々がつづく。



そんなある日、ひとりの男が凌羽をたずねてきた。



奈々未の父親、市夫だった。


当時の市夫は、強い自責の念にかられ、みずからの命を絶ってしまいそうな奈々未のおもり役をさがしていた。


それで、おなじような境遇であり、おとなしい性格の凌羽のことを、つきあいのある警察関係者から聞いたのだ。


心を閉ざした奈々未に大人があれこれいうより、おない年の凌羽のほうが話しやすいことがあるかもしれない。


凌羽にとっても日常生活の中でおきるちょっとしたできごとが、記憶を呼びさますきっかけになる可能性もある。


大勢の子供たちにかこまれた環境より、少人数のしずかな環境に置いたほうが、自分にむきあう時間が増えることもあるだろう。


そうしてふたりがうまく関係性を築きあげることができれば、凌羽と奈々未の未来になにかしらの光明が見えるかも知れない。


それが市夫のかんがえだった。


そして奈々未のこともある。



朱雀家は、奈々未の小学校入学にあわせて新築されたばかりだった。


その家で家族四人、ずっとしあわせに暮らしていくはずだった。


だが悲しい事故によって、母と姉は帰ってこなくなった。


そんな新築の家は奈々未にとって、ひろくて寒々しい牢獄のようだった。


奈々未は引きこもり、小学校には登校していなかった。


家政婦に対しても、ひとこともしゃべらず、ただじっとテレビ画面を見つめている。


心を閉ざしたままだった。


いや、心が死んでいるようでもあった。



翌日から、特事の車が凌羽の送り迎えをした。


記憶障害の治療のため、編入する小学校が決まっていなかった凌羽は、施設で昼食を口にするとすぐに朱雀家へむかった。


市夫はやさしい笑顔で凌羽を迎え、家の中へ入るようにうながす。


リビングのソファーに、無表情な少女がいた。


ただじっとテレビをながめている。


目の前のテーブルには、オレンジジュースの入ったふたつのグラスと、封を開けたスナック菓子が置かれていた。



「奈々未。この子が昨日話した凌羽くんだ。彼は記憶を失くしていてな、すこしさみしいおもいをしているんだ。よかったら、なかよくしてくれな」



そういって紹介されても、奈々未は視線をむけなかった。


父親の市夫も、奈々未の応対をとがめることもなく、たださみしそうに見つめた。



「じゃ、あとで迎えにくるから、気楽にしてくれよ」



凌羽の肩を軽く押し、ソファーに座らせた。


それでも奈々未はいちべつすることさえせず、〈腰痛の治し方〉というワイドショーの特集をながめていた。


そんな内容に奈々未が興味をもっているはずもなく、ただ目から入ってくる情報で悲しい記憶を埋めつくそうというのだろう。


父、市夫は職務にもどるため、外に待たせてあった車に乗りこんだ。


低いエンジン音が遠ざかっていく。



閑静な住宅街だ。


おもてから聞こえる物音はほぼない。


そのせいか、室内の沈黙が苦痛にさえ感じはじめた。


住みこみの家政婦は自室にこもり、でてこない。


できるだけふたりをほうっておいてほしい、という市夫の指示であった。



「あ、あの……」



たえきれずに、凌羽が口を開いた。



「ボク、桜洋守凌羽っていいます。……いや……そういう名前、らしいんです……」



奈々未の反応はなにもない。


バツが悪くなって、オレンジジュースを口にはこんだ。


ごくり、と予想以上に大きな音でノドが鳴った。


夕方四時半に特事のスタッフが迎えにくるまで、それ以外の会話はなかった。



「……じゃあ、またね……ばいばい……」



凌羽がかすかな声でわかれを告げた。


奈々未は無反応のままだった。



次の日も。


また次の日も。


凌羽は奈々未のとなりに座った。


ひととおり自己紹介をすませた凌羽にはもう、特に話すことはなかった。


かといって奈々未のことを無理に聞きだすこともない。


だから、ふたりでぼうっとテレビをながめるだけだった。


それだけで十分なのではないか、ともおもった。



二週間もたつとこの環境になれたのか、ふたりのあいだにあった重い空気感はすでになくなっていた。


無理に話題を探そうとするから気まずくなるのだ、とおもう。


ただおなじ空間にいて、すこし相手を気づかえれば、それでいいのかもしれない。



奈々未の父親、市夫からは、悲しみの癒えていない奈々未がおかしな行動をしたら止めるように、とだけいわれている。


くわしくは知らないが、おかあさんが天国へいったと聞いた。


お姉さんも入院していることも聞いた。


そのせいで奈々未は心を閉ざしている、と。


だからそばにいてやるだけでいいんだ、ともいわれた。



ある日、凌羽はうとうとして、いつのまにか眠ってしまった。


特事のスタッフが迎えにきたときに起こされ、



「……あれ?」



と、上半身をおこしながら気づいた。


うたた寝してしまった凌羽の体に、タオルケットがかかっていたのだ。


奈々未だ。


奈々未がかけてくれたんだ。


そう理解したとき、自然と笑顔がこぼれた。



「ありがとう。奈々未ちゃん!」



あかるい声で礼をいう。


奈々未の返事はなかった。


しかし、ほほをすこし赤らめているようにも見えた。


テレビ画面の光が反射しているだけかもしれないが、凌羽は前むきに受けとった。



わかれの言葉を告げる。


返事はなかった。


だが、凌羽の心はおどった。


記憶を失くしてから、はじめて、笑顔を浮かべた。



そんなことがあってからも、とくに会話があるわけではなかった。


でもなぜか、凌羽がする一方的な話に奈々未が反応している気がした。


まばたきの回数だろうか。


それとも気づかないくらい、わずかにうなずいているのだろうか。


よくはわからないが、意思の疎通ができているような気がした。



「ボクね、来週から、小学校に通うことになったんだ……。だから、これからは週末にしかこられなくなったの……」



凌羽の声に元気がない。



「……ほんとうはね、ボク、学校にはいきたくないんだ。みんなとなかよくできそうもないし……。でもね、施設のみんなは学校にいってるし、ボクもいかなきゃだめだ、って。だから、しかたなくいくんだ……」



凌羽はさみしそうにいった。


奈々未からの返答はない。


新しい環境に不安を感じていた凌羽は、奈々未になにかいってほしかった。


だが、やはりテレビを見つめているだけだった。


夕方、特事のスタッフが迎えにきた。



「じゃあ、またね」



いつものようにわかれを告げ、凌羽は玄関にむかった。


クツをはき、何気なく視線をあげた。


そのさきに、奈々未が立っていた。


リビングのドアをすこしだけ開けて、恥ずかしそうにこちらをのぞいている。


凌羽はうれしくなって、にっこりと笑いかけた。


そしてちいさく手をふった。


奈々未は、こくり、とちいさくうなずいて、ソファーの方向へ去っていった。



すこしずつ、すこしずつ、ふたりは心の距離を縮めていく。


凌羽も週末が楽しみになった。


一週間、学校でおこったことを、奈々未に全部話して聞かせた。


たまに、奈々未が笑いをこらえているのがわかった。


その表情がたまらなくうれしかった。



「ボクね、前からおもっていたんだけどね……」



凌羽が立ちあがる。


そのままゆっくりとで窓へむかった。


その動きを奈々未が目で追った。



出窓には、奈々未の母親の写真が飾ってあった。


やさしそうな笑顔である。



「おかあさんの写真の横に、花があったらいいなって。きっとよろこんでくれるんじゃないかな」



満面の笑顔で凌羽がいった。


その瞬間、奈々未がボロボロと涙を流した。


声をだして泣き崩れた。


母が亡くなった理由に、〈花〉が関わっていることを凌羽は知らなかったのだ。



「ごめん! どうしたの? ボク、なにかいった? 悪いこといった?」



冷静に見えていた奈々未の豹変に、凌羽はあわてた。


かけよる凌羽に、ちがうのだ、と奈々未は首をふった。


でも、しゃくりあげ、言葉にならない。


そのあいだも、凌羽はあわてている。



「あ。そうだ。おとうさんに電話するね」



名案だ、とおもった。


なにかあったときは連絡してくるようにいわれていたからだ。


固定電話がリビングのすみにあった。


凌羽は急いで立ちあがり、受話器をとろうとしたそのときだった。


奈々未がそれを阻止した。


追いかけてきた奈々未が、凌羽の手をつかんでその行動を制止したのだ。


そして強く首をふっている。



「え? え?」



凌羽はふたたびあわてる。


なにがちがうというのだろう。


奈々未は凌羽の手を引いて、ソファーに連れていき、腰かけた。



「だ、だいじょうぶ……?」



凌羽の問いかけに、奈々未はうなずいて返事をした。



「ごめんね。ボク、何も知らないから。きっと嫌なこといったんだよね」



凌羽の言葉に、奈々未が首をふる。



「……ちがう……」



奈々未の口から、声がもれたような気がした。



「え……?」



凌羽は耳をうたがう。


この数ヵ月間、奈々未の声をたったの一度も聞いたことがないのだから当然だろう。



「ちがうの……」



力のない、かすれた声だった。


それでも、凌羽はうれしかった。


やっと。


やっと聞けた。


ずっと聞けなかった奈々未の声。



「な、なにが……、なにがちがうの……?」



涙のとぎれない奈々未に、凌羽がやさしくたずねる。



「……わたし……わたしね……」



奈々未は意を決したように、自身の身におこったことを凌羽に話して聞かせた。



母を死にいたらしめ、姉を意識不明にした。


そんな自分に何の価値も見いだせない。


それどころか生きていていいのか、という疑問さえわいてくるのだ、と告白した。


みずから命を絶つこともかんがえた。


だがそうすれば、きっと父と姉を悲しませるのではないか。


そんなおもいから決心しきれない、ともいった。



一日中そんなことをかんがえていれば、精神が疲労していくのは当然だ。


心が固く閉ざされていくのも納得できる。


小学生どうしの会話である。


当然、言葉は稚拙であった。


だが、それでも奈々未の苦しみが痛いほど伝わった。


ただじっと、テレビをながめていたわけではなかった。


その心の中ではつねに葛藤があったのだ。



奈々未の告白に耳を貸していると、凌羽は不思議な感覚に襲われた。


まるで自分も、過去に奈々未とおなじ経験をしたのではないか、と錯覚してくるのだ。


喪失した記憶が刺激されているのだろうか。


ただの同情だろうか。


それとも、同調なのだろうか。


奈々未の悲しみが、凌羽の悲しみになり、深く深く突き刺さる。


そして、



「うぇ……、うえええぇぇ~んんッ」



と、凌羽が泣きだした。


奈々未ではなく、突然大声をあげて、凌羽のほうが泣きだしたのだ。


そのボリュームは、奈々未の泣き声をはるかに越える。


一瞬、あっけにとられる奈々未。


凌羽に視線をむけると、大粒の涙と共に、鼻水までたらしているではないか。


あごの下まで糸を引き、ブランブランゆれている鼻水に、奈々未はガマンできなくなった。



「……ぷふッ。……ぷふふふぅぅッ」



両手で口を押えるが、どうしても笑い声がもれてしまう。



「へ……?」



正気にもどった凌羽が奈々未を見る。


そのぽかーんとした表情と、顔をあげたいきおいで、またぶらぶらと揺れだした鼻水が、さらに笑いを誘う。



「あははははははッ! やだやだ。鼻、鼻ッ!」



凌羽を指さしながら、奈々未が笑った。



「え? え?」



奈々未の指摘で、やっとたれさがる鼻水に気づいた。



「あ。あ」



両手で鼻をかくしてあたふたする凌羽に、奈々未がティッシュを箱ごと渡す。


まだ笑いがとまらない。



「ひ~。ひ~。おなかいた~い」



奈々未は腹を押さえ、腹筋の痛みに耐えている。


そんな奈々未に背中をむけ、凌羽は鼻水をぬぐい、涙をふいた。


泣いて。


笑った。


そんな感情のたかぶりがあったせいか、奈々未の心は氷解したようだった。



その日から、凌羽と奈々未の心の距離はぐっと縮まった。


会話もはずむようになると、案外奈々未がおしゃべり好きなんだ、と知った。


奈々未の父、市夫も、ふたたび娘と会話ができるようになったとよろこんだ。


記憶のない凌羽にとって、奈々未との日々が、かけがえのないおもいでになった。


奈々未の母にささげる花束を一緒に買いにいった日のことも。


いじめっこから奈々未が守ってくれた日のことも。


おなじ高校にかよえるようになった日のことも。


ふり返る日々にはかならず、そこに奈々未がいる。




今。


奈々未は凶刃をふるう男にひとりで立ちむかっている。


それもこれも、自分の詰めが甘かったからだ。


だから早く。


一刻も早く。


奈々未のもとにもどりたかった。



奈々未にかわって、あの男と対峙するために。








 

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