Ⅳ 探求
五歳の夏のことだった。
いつも笑顔で優しい母、不在がちだがよく遊びにつれて行ってくれる父、ちょっと意地悪な兄と共に、私は郊外の一軒家で暮らしていた。
生活自体は平凡だったと思う。クレヨンを使ったお絵かき、母の作ったキッシュの味、父の車から見た景色、兄と積み木で町を作った日――思い出せるのは、そんな断片ばかりだ。
家は二階建てで、一階に私の寝室、二階に兄の寝室があったが、両親がどこで寝ていたのかまでは覚えていない。家族が憩う一階のリビングは広々として、大きな窓と接しており、いつも日光が入ってきたために温かった。
幼い私には自室があるものの、そこは自分よりもずっと大きくて、いつも眠るときに心細さを感じていた。早く朝が来てほしいと願いながら、ぎゅっと目を閉じていた。
その夜、部屋の外から何か声が聞こえて、私は起きてしまった。しばらくは目を閉じたまま、両親とものらしき声に耳を澄ましていた。
このまま、うとうとと眠りの淵に誘われた時、何かが割れる大きな音がして、はっと身を起こした。
続いて聞こえてきたのは、母の悲鳴と何か破裂音のようなもの。間をおいて、先程と同じような破裂音がした。
電気の消えた室内で、私は急いでベッドから降り、ドアまで駆けた。鉄製のドアノブの生温かさと、低い視点から見たドアが脳裏に焼き付いている。
私の部屋を出ると、そこはダイニングだった。電気がつけっぱなしだったため、眩しさに目を細める。
白くなった視界の中で、何か人影が動いていた。目が慣れてきた私が見たのは、黒づくめの服装に目出し帽を被った二人の男だった。
彼らがこちらを向き、私は喉の奥でひっと悲鳴を飲み込んだ。このまま、ドアノブを閉めようとした時に、右側の端に、何か見覚えのないものが見えて、手を止めた。
それは、父の足だった。キッチンの方に頭を向けて、俯せに倒れている。その下には、仰向けになった母の姿があった。
パジャマ姿だった両親の胸からは、その時も血が流れ出ていた。二人の目は、ガラス玉のようで、このまま一切動かなくなってしまったことは、幼い私にも明白だった。
私は硬直してしまった。どんな悪夢よりも恐ろしい光景が、生々しくその場に横たわっている。
その直後、廊下に続くドアを乱暴に開けて、三人目の目出し帽の男が現れた。同時に、「やめろ! 離せ!」と兄が叫ぶ声が聞こえる。
三人目の男は、兄の首根っこを掴んで、引き摺るように連れてきていた。野良猫を捕まえたかのような軽々しさで、兄を二人の仲間に突き出した。
「こいつはどうする?」
「あー、駄目だな、育ちすぎている」
男たちが、そんな言葉を交わしていたが、意味は全く理解できなかった。
その時、兄は未だに立ち尽くす私に気付いた。泣き出しそうなその目を大きく見開いて、兄は口を動かした。
「逃げ」
しかし、兄は最後までその言葉を言えなかった。
兄を掴んでいた男が、背中から銃を取り出し、兄の後頭部を撃ち抜いた。三度目の破裂音と同時に、兄は脳漿を撒き散らしながら、手足がぐったりして俯いた。
兄が物のように捨てられるのを見て、私はすぐにドアを閉めようとした。しかし、すぐ近くにいた男に腕を掴まれてしまった。
全身をばたつかせて、精一杯抵抗したが、大人の力には敵わない。そのまま私は、薬の滲み込んだハンカチを嗅がされて、気を失った。
あの夜、あの瞬間、私の人生は終わった。
そう、思っていた。
◐
くすんだ色をしたビルの一室内、そこはとても狭かった。右側の壁に接するように置かれた大きな机と、私が座っている背もたれのない椅子一つで、この部屋の横幅は埋まってしまっている。
しかし、私の向かいに座っている白衣の男の後ろ、シミの浮かんだカーテンのそのまた向こうは存外広いということを知っている。あそこに、レントゲン室もあるとは、最初にここへ足を踏み入れた時は思いもしなかった。
私は、とある闇医者の元を訪ねていた。このビルが拠点の闇医者は、とても腕がよく、知った情報は外に漏らさないという話を聞いていなかったら、決してこんな所へは来なかっただろう。
五十代と思しき闇医者は、赤い口髭を撫でながら、じっとカルテを眺めている。私が受けた検査の結果が、そこには書かれているはずなのに、分厚い老眼鏡の奥の茶色い瞳は、何か考え込むように細められている。
「……結論から言いましょう」
「はい」
こうして向かい合うように座ってから、三分近くの沈黙の後、闇医者は重々しく口を開いた。
結果を早く知りたかったので、佇まいを正して、闇医者の話に耳を澄ます。
「あなたは、脳に手術を受けていません」
「……」
――三日前、あのホテルの一室で、死神は言いたいことを言った後、死体を片付けるために訪ねてきたルべリオルが部屋をノックした途端に消えてしまった。
彼が芽生えさせた疑念は、日を追うごとに私の中で大きくなっていき、自分では抱えきれないほどになった。そこで、組織の目を盗み、ここで詳しく自分の体を検査してもらうことにした。
自分の境遇を簡単に話した後、「本当に脳の手術をされているかどうか調べてほしい」と、頭のレントゲンを撮り、採血をされた。それから約一時間後、カーテンの奥から険しい顔で出てきた闇医者から、やっと結論を言われた。
それを聞いた瞬間、私の心には一切の波風は経たず、むしろ「そういうことだったのか」とほっとしている部分があった。ただ、逆に言えば、事が大きすぎて、飲み込めないだけなのかもしれない。
闇医者は、私の頭蓋骨のレントゲン写真を取り出した。そして、前頭葉の所を蓋が付いたままのペンで丸く囲うように示す。
「あなたには、頭皮を一度切り、縫い合わせた後はありますが、頭蓋骨は綺麗なままです。いくら幼い子供の時に受けた手術とはいえ、頭蓋骨にその痕跡が全く残っていないのは異常です」
「そうですか……。でも、そもそも、脳の手術で、人の感情をコントロールすることはできるのでしょうか?」
「さあ……少なくとも私は、そのような前例を聞いたことがありません」
こちらに体を向けた闇医者は、仏頂面でそう説明した。
組織の絡繰りを明かされて、力が抜けてしまいそうになる。それを何とか持ちこたえようと、膝の上で拳を握り、私は尋ねてみた。
「しかし、私は組織に命じられるがまま、何の抵抗もせずに人を殺してきました。何故、そのようなことが可能だったのでしょうか?」
「おそらく、あなたはマインドコントロールを受けていたのでしょう。私は、その分野にはあまり明るくないので推量になりますが、脳の手術という嘘も含めて、自分はこのようにするしかないと、頭に刷り込まれていた状態だったのかもしれません」
「マイルドコントロール、ですか……」
そう説明されても、あまりピンとこない。
ただ、組織に思考をコントロールされていたのなら、何故、今頃急に、色々考えられるようになったのだろうか。
「そのマインドコントールは、どうやって解けるのですか?」
「要因は多数ありますが、一番大きいのは、外部からの刺激でしょう」
「外部からの、刺激……」
闇医者の言葉をゆっくりと繰り返した時、否応にも思い出したのは、あの死神のことだった。殺し屋の私に対しても、優しく微笑んでいる彼の姿だ。
組織とは無関係で、それ以前に人間ですらない死神こそ、究極の「外部」である言えるだろう。私は、彼の言動に振り回されていると思っていたが、その実、本来の私らしさを取り戻してきた予兆だったのかもしれない。
……闇医者へ手短に礼を言い、口止め料を上乗せした代金を支払って、私はこの場を後にした。
ビルの外はすっかり日が暮れて、寒々としている。空に浮かぶ三日月に吹きかけた息が白くなっているのを見て、ああ、もう冬になっていたんだなと気が付いた。
◐
正面の壁一面には、縦に五つ、横に七つの小型モニターが置かれていた。それらからは、組織のベース内に設置された計三十五台の監視カメラからの映像が、絶えず流れている。
一番右上のモニターには、実行係の男である
ベースの中で過ごす、同じ「手術」を受けたとされるメンバーを眺めていた私は、最後に、左側に置かれたモニターを見つめた。
ウェーブのかかった水色の髪をした少女が、ノートパソコンに向かい、一生懸命キーボードを叩いている。彼女は
郊外のひっそりとした森の中に、組織のベースが建っていた。仕事が無い時、私たちはそれぞれの部屋で待機をしている。現在、外出しているのは情報収集係のルベリエルと
そして、この監視部屋に私を招き入れたのが、ルキャプリコルヌだった。私の隣に座り、手渡されたカヌレを、まるで宝石のように矯めつ眇めつ眺めている。
「……食べないの?」
「そうしたいのは山々だけど、あなたの話が終わってから、ゆっくり食べるわ」
大きな一つの三つ編みにしている青紫の髪を、下に垂らすようにしながらカヌレの下側を見ていたルキャプリコルヌは、フチなしの丸眼鏡をかけた藍色の瞳をうっとりと細めていたが、やっと名残惜しそうに、カヌレを元々は入っていた袋に戻した。
ルキャプリコルヌは、組織に育てられたメンバーの中で一番古株であり、ベースの監視役も引き受けるほど信頼されている。だが、本人はそれを利用して、カヌレ一つで、本来は組織が禁止していることを見逃してくれる。
例えば、仕事以外での外出もそうだ。それから、他のメンバーと個人的な話をすることも。彼女が取り計らってくれなかったら、外へ出ること以外にも、ルベリエルに相談して、あの闇医者を紹介してもらえることも出来なかっただろう。
ちなみに、いくら仕事をしても、私たちに報酬は入らない。その代わり、仕事の時に持たされる、ターゲットを尾行するための交通費や以前にホテルへ入るための宿代など、使わなかったり余ったりしたお金を、密かに溜め込んでいる。あのカヌレも、それを用いて購入した。
「それで、結果はどうだったの?」
ルキャプリコルヌはこちらを向き、グレーのスラックスを履いていた足を組み直した。
私は、これから自分が話す内容を頭の中で組み直し、にわかに緊張し始めた。スカートの上で手を握り、自分を心の中で鼓舞しながら口を開く。
「医者の診断では、頭に手術を施された後はない、と」
「……そう、やっぱり、そうだったのね」
彼女は、諦めきったような顔で、溜め息をついた。
その一言は予想もしていなかったものなので、私の方が戸惑ってしまった。
「手術のこと、疑っていたの?」
「本当のことを言うとね、昔から薄々怪しいと思っていたのよ。だって、いくらカヌレが好きだからって、組織に嘘をつけるって、可笑しいでしょ?」
「まあ、確かにそうね」
「ただ、手術自体はされているものだと考えていたわ。私だけが、何らかの不具合があるんじゃないかなって」
肩を竦めて、ルキャプリコルヌは苦笑する。
てっきり、取り乱されてしまうことも覚悟していた私は、拍子抜けしてしまった。ずっと、仕事のことでしか彼女と話していなかったので、今初めて、本当の彼女自身と触れられた気がする。
「それで、この事実を知って、あなたはどうするの?」
……だが、このままほっとしている場合ではない。当然の疑問を、ルキャプリコルヌは真剣な顔で、容赦なく放ってくる。
私は、闇医者からの帰り道の間、いや、死神から疑念を植え付けられた瞬間から考え始めていたことを宣言した。
「ここから逃げるわ」
一瞬、ルキャプリコルヌの瞳が、睨むように鋭くなる。
私は、一呼吸おいて、続けた。
「みんなと一緒に」
目の前のルキャプリコルヌが安堵の息を漏らしている横で、私は無意識にモニターの方を向いていた。
私と同じように「手術をされた」と言われた仲間たち、その中でも特に、訓練を受けてるラヴィエルジュを見つめる。彼女は、手が汚れていない。まだ、引き返すことができる。
改めて、ルキャプリコルヌを見ると、彼女は意味深な微笑みを浮かべていた。
この話はまだ終わっていない。私の目標を達成するために、今すぐ動かなければいけない。
「ルキャプリコルヌ、この逃亡計画に協力してほしいの」
「……私はね、一番古株で、二十六歳だから、あなたたちのことを、妹や弟のように思っていたわ」
下を向いて、ぽつぽつと彼女は話し始めた。
私は、雫が落ちていくのを聞くように耳を傾けながら、小さく頷く。
「だから、ルコンセールが殺された時、酷くショックを受けた。努めて冷静に、その後の指示を出していたけれど、あなたが逃げ切れた後、涙が出てしまったの」
「ああ……」
二年前のパーティー会場、ルコンセールの死の瞬間は、まるで録画した映像のように、何度も鮮明に思い返せる。
でも、あの時、泣いたというルキャプリコルヌの話は、少し羨ましかった。仲間の死に即しても、私は感情を表に出すことは出来なかった。
「あなたたちが、もう殺したり殺されたりする、そんな危険な世界から抜け出せるなら、私はどんなことだって出来るわ」
「ありがとう、ルキャプリコルヌ」
感無量になった私が礼を言うと、彼女は照れ笑いを浮かべた。
それから、眼鏡をかけ直しながら、ぺろりと上唇を少し舐める。
「まずは、みんなの協力を求めないとね。ルリオンは、レポワソンとレジェモォを説得してちょうだい。ラヴィエルジュ以外の子には、私から話すから」
「ええ」
「明日、レジェモォが殺しの仕事のために外へ出るわ。あなたはこっそり合流して。街中で、監視カメラがない場所を教えるから」
「分かった。任せて」
実行役二人には、私の方から説明した方がいいと、ルキャプリコルヌは判断したようだった。確かに、最も組織の手として働いてきたのだから、私たちには実行役同士にしか分からない感覚があるのかもしれない。
その采配に感心していると、ルキャプリコルヌは、改めて壁のモニターを、挑むように睨んでいた。
「他のスタッフはともかく、一番ネックになるのは、ボスと先生ね」
「そうね……」
ボスというのは、文字通り、この組織のトップに立つ人物だ。名前、年齢などは不明で、私も実際にあったのは一度しかない。筋肉質な長身の男で、子供の時に対峙した際、得も言えぬ恐怖心を抱いたことを覚えている。
先生とは、私たちに手術を施し、殺しなどの手ほどきをした男だった。今は、ラヴィエルジュの部屋で、彼女に暗号解読法を教えている。薄い白髪の頭で、やせ細った手足に酷い猫背で、普段から白衣を着ていた。
この時、ボスがどこのモニターにも写っていないことに、私は気が付いた。
「ボスは? 今日は不在なの?」
「来てるわよ。ただ、ボスの個室には監視カメラが付いていないのよ」
渋い顔で、ルキャプリコルヌは説明した。私も嫌な予感を抱いて、顔を顰める。
この監視部屋からならば、ベース内の全てが把握できていると思っていたが、その考えは甘かったらしい。
「他に、カメラがない場所はあるの?」
「手術室ね。そこは、今回の逃亡作戦とはあまり関係ないと思うけれど」
「さて」と話を区切って、ルキャプリコルヌは私と向き合った。そして、私の前に自分の右手を差し出した。
どうして彼女がそんなことをしたのかを飲み込めず、ぼんやりとその右手を眺めている。すると、ルキャプリコルヌは、苦笑交じりに言った。
「握手をしましょう。この作戦が上手くいくように願って」
「……でも、私と握手をしてもいいの?」
自分の右手と彼女の右手を見比べて、思わず躊躇ってしまう。これまで、たくさんの命を奪ってきた右手が、こんなことをしてもいいのだろうかと。
そんな私に反して、ルキャプリコルヌは、力強く頷いた。
「いいのよ。私たちは仲間よ。気にする必要はないわ」
「……分かったわ」
私は、彼女の手をぎゅっと握る。他人の手は、こんなに温かくて強いものなのかと、驚いてしまう。
考えてみれば、五歳のあの日以来の握手だった。私はこの瞬間に、皆と自由になることを誓った。
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