Ⅲ 疑念


 写真で見た男は、雨の降りしきる街角に立っていた。角の向こうを睨み、トレンチコートを着たその背中は丸まっている。

 私は、その男へ、ハイヒールを履いた足を進めた。庇の下で濡れなくとも、こちらの方まで石畳を伝って広がった水たまりが、ばしゃりと跳ねる。


「ねえ、お兄さん」


 甘い声を出すと、男は訝しげに振り返った。はっきりとしたほうれい線の周りには無精ひげが生え、目は落ち窪んでいて、お世辞にも、お兄さんといえる年齢ではない。

 私は、薄手の赤いワンピースの裾から、そっと太ももを見せた。右手を左膝にのせて、ぱっかりと開いた胸元を強調させる。


「一緒に雨宿り、しない?」

「今忙しいんだ」


 嫌そうな顔をした男だったが、瞬時に、私の十七歳の体躯を舐めるように眺めたのを見逃さなかった。

 しっしっと野良犬を振り払うかのように動いた男の右手を掴み、自分の胸の谷間に挟む。


「ちょっとだけ。いいでしょ?」

「……」


 男は何も言わない。だが、その視線は熱心に自分の右手に注がれている。

 だんだんと、胸元が湿っていくのを感じる。男の汗なのか、私の汗なのか、それとも雨のせいなのか、判断は全くつかない。


 あともう一歩だ。私は、真っ赤なルージュを塗った唇で、男の耳に熱い息を吹きかけた。自分の首元の香水が、ふわっと匂い立つ。

 男が生唾を飲み込んだ。すかさず、私が蠱惑的な笑みを浮かべると、彼に抱き寄せられた。






   ◐






 雪崩れ込むように、二人でホテルの一室に入った。

 そこは、窓側にダブルベッド、そのわきには鈴蘭の形をした電気スタンド、くすんだクリーム色をした壁紙に囲まれた、寂しい寝室だった。窓の向かいの壁に、何か絵が掛けられているような気がしたけれど、それを確認する間もなく、ベッドの縁に座らさせられた。


 くしゃりと皺が寄ったワンピースを直すよりも先に、男が唇を奪う。彼の左手は私の腰に回され、右手は胸を絶えずまさぐっている。煙草の匂いを、肺がいっぱいになるほど吸い込んだ。

 目をつぶっていると、男の唇が離れた。ハアハアと犬のように息をしながら、深い緑色をしたネクタイを外そうとしている。気持ちばかりが急いているため、一発でするりとほどけないのが、男を苛つかせていた。


 コートを脱ぎ、シャツのボタンももたもたと外し始めた男をよそに、ベッドから立ち上がった。突然、捨てられた犬のような瞳で見上げた男に、大丈夫と答える代わりに微笑みかける。

 右足のハイヒールを脱いで、投げた。壁に当たり、黒い色がコロンと横に倒れる。同じように左足を脱ぎ、ワンピースの肩紐に手をかけた時、男の熱視線に気付いた風に装う。


「……恥ずかしいから、あっち向いてて」


 さっきまで強気で誘ってきた女が、突如しおらしくなっても効果はあるのだろうかと疑問だったが、男はじっとりと潤んだ瞳で頷くと、くるりと窓の方を向いた。

 ああ、存外あっけない。気が抜けるような思いで、その頼りない背中を見ていた。


 肩紐をずらす音に紛れさせて、太ももの後ろに付けていたホルダーから、小型の銃を抜く。音のならないようにゆっくりと安全装置を外したそれを、男の後頭部に置いた。

 感覚で伝わっただろう、男の体が、ほんの僅かにびくっと動く。だが、男が違和感を抱いても、もう遅かった。


 引き金を引く。紙鉄砲よりも、小さな音が聞こえただけだった。


 男が、糸の切れた操り人形のように、ベッドの上に俯せに倒れた。後頭部に空いた小指も入らないほどの穴を、じっと眺める。

 シーツは、皺が増えたくらいで、あまり変わりが見えない。男の死体を動かせば、そこに血のシミが付いているのだろうか。


 あっさりとしすぎている。私は、ずっと息を止めていたかのように、大きく吐き出した。鼻の奥に、煙草の匂いがまだ残っていて、少しだけ咳き込む。

 ともかく、殺しの仕事自体は終わった。肩を大きく回して、男が脱いだコートに目を向ける。今度は、この中身を確認するのが使命だ。


「キャフェロだ」


 聞き覚えのある声がして、私は顔を上げた。

 壁に掛けられた絵を見る形で、死神が立っている。黒いスーツと黒い皮靴と黒い髪も、左足に体重をかけるような立ち姿も、二年前も全く変わっていなかった。


「『サーカスのライオン』のレプリカだね。ここのオーナーとは趣味が合いそうだ」


 彼は誰にも聞かれなくとも、絵の解説をして、満足げに頷いている。

 この部屋で起こった一部始終を彼は見ていたはずなのに、私に対して同情などはしていない様子だった。そんないつも通りの死神の言動に、何故だか私は安堵していた。


 死神の背中越しに、その絵を眺めた。テントの内側のような場所で、筒形の台座に横向きで乗ったライオンが、項垂れるように座っていた。

 私がイメージするライオンとはかけ離れた、弱々しい姿だった。ライオンは上からスポットライトを当てられていて、周りにも観客らしき人影もあるのに、暗い絵だと印象を受ける。


 私は改めて、男の着ていたトレンチコートを手に取った。あちこちに着いたポケットを一つずつ開ける。

 沈黙の中、閉め切ったカーテン越しでも、外の雨音が聞こえてきた。しとしとと止まないその音に耐えかねて、私は口を開いた。


「最近、組織の様子が可笑しいの」

「そうなんだ」


 横目で確認すると、死神はこちらを一瞥もせずに返答した。声の調子からも、あまり興味を持っていない様子だ。

 ただ、私は間を持たすために話し始めたので、これくらいの温度が丁度良かった。


「二年前……ルコンセールが殺された時からね」

「ああ、あの日ね」

「場所が悪かったのよ……沢山の人に注目されて、センセーショナルに報道されて。まあ、大企業の社長の命を狙った、身元不明の男だから、騒がれるのもしょうがないけれど」

「大ピンチだね」

「正直ね。彼がインカムと小型カメラも持っていたから、裏に操っている人物がいるはずだと推測されて、警察が探り出したのよ。ルキャプリコルヌ……私たちの指示役が、電波を切ったから、そこから追いかけられることはなかったけれど」


 コートの中から、男の警察手帳を見つけ出した。中身を確認すると、男の写真と名前などが載っている。


「そっか、その人も警察官だったね」

「ええ。お察しの通り」

「でも、君たちの組織は確か、政治にも介入で来てたよね? 警察は無関係なの?」

「警察の上層部とは太いパイプで繋がっているわよ。ただ、その権力が及ばない、末端の警察官たちが勝手に探っていて……まあ、これでも、二年前より随分減ったけれど」


 この男も、独自に組織のことを追っていた警察官だ。情報収集係のルベリエルおひつじ座を囮として泳がせて、それを知らずに彼を尾行しているこの男に私が声をかけた。

 男がどこまで組織に迫っていたのかを確認しなければならないが、警察手帳にはその手掛かりが入っていなかった。それならばと、別の膨らんでいたポケットに手を入れると、携帯電話が出てきた。


 これにはロックがかかっているだろうから、ルキャプルコルヌにハッキングしてもらおうと、何気なくホームボタンを押した。瞬時に、ロック画面が浮かび上がる。

 画面には、男と幼い少年が映っていた。満面の笑みの男に頭を撫でられて、少年も嬉しそうに笑っている。彼らの前にはテーブルが、その上には、十本の蠟燭の立ったバースデーケーキが置かれていた。


 視界が、ゆっくりと歪んでいく。写真の男と少年の笑顔が、渦に吸い込まれていくように、捻じれていく。

 男には、家族がいる。いや、そんなのは、当然だ。今まで、私が殺してきた人たちにも、家族がいて……。


 思い出してしまう。見ないようにしていたのに、目に入ってきたもの。男の膨らんだ股間。左手の薬指の指輪。

 矛盾した情報が、ぐちゃぐちゃと頭の中でかき混ぜられる。気分が悪くなってきた。


 組織からは、男が油断した瞬間を狙えと言われていた。今回は、着替えの時に乗じることができたが、もしかすると、性行為の途中になっていたのかもしれない。

 まるで、獣のような男だったと、心の底では嫌悪感を抱いていた。でも、それは、私が誘ったからではないのだろうか。この男も、自分の正義感で組織のことを探っていたのであって……。


 気が付くと、何度も空嘔吐を繰り返していた。激しく咽ぶように、胸の奥から、何度も空気だけを吐き出してしまう。

 前かがみになって、シーツを強く握りしめる。何かが過ぎ去るのを待つように、体をぎゅっと丸めた。


「大丈夫?」


 死神から、そう尋ねられる。

 だが私は顔を上げられず、無言を貫いた。


「ひどく苦しそうだけど」

「……苦しそう?」

「うん」

「私が?」

「そうだよ」


 死神の言葉を鸚鵡のようにそのまま返していると、少し落ち着いてきた。

 深い呼吸を繰り返しながら、体を徐々に伸ばしていく。


「こういう、ハニートラップは初めてだったからね、流石に動揺したみたい」

「ただ、それだけなのかな?」

「きっとそうよ。私より年上のレジェモォふたご座は、同じやり方で成功していると聞いているから」


 なぜ、死神はこのことを追求してくるのだろうと思いながら、淡々と答える。警察手帳と携帯電話は持っていこうと、手に取った。


「ルリオン」


 湖面に小石を投げ入れたかのような静かな声で、死神が私を呼んだ。

 彼から名前を呼ばれるのは初めてだと思いながら顔を上げる。私と向かい合った死神は、穏やかな瞳で私を見据えていた。幼い頃、悪戯を咎める直前の母の眼差しを、前触れもなく思い出す。


「サーカスのライオンが、どうして自分よりも弱い猛獣使いの言うことを訊くのか、知ってるかな?」


 しかし、彼が口にしたのは、この状況とは殆ど関係のないことだった。

 言っていることは理解できても、話の流れが掴めず、私は眉を顰める。


「何の話?」

「まだ力の弱い小さい頃から、鞭で調教を受けているから、『あれには逆らえない』って思いこんでいるだけなんだよ。だから、自分に強い力がついていても、大人しく従っているんだ」


 私の問いを無視して、死神はそう説明する。

 死神が何を言いたいのかが、まだ見えなかった。しかし、何故だか、この先を聞いてはいけない、パンドラの箱を開けようとしているような気持ちになって、私の中で一瞬躊躇いが駆け巡った。


「……ねえ、ずっと、何の話をしているの?」

「いや、なんだか、君たちみたいだなって思って」


 死神がふっと顔の力を抜いて笑ったのとは反対に、私は指先に静電気が走ったかのように、ピクリと体が反応した。


「本当に君は、脳の手術を受けたのかな?」

「ふざけないで!」


 私は、声を張り上げて、ベッドから立ち上がった。体中の血が沸騰したような心地のまま、死神に詰め寄る。

 ……私に目の前で睨まれても、死神の表情は変わらなかった。夜の闇よりも黒いその瞳が、光も何もかも、吸い込んでしまいそうだった。


「私は、今まで、たくさんの人を殺してきた。それでも、何も感じないように、させられたのよ」

「うん。殺してきたのは事実なんだろう。それは分かるよ。でも、ずっと何も感じていなかったのかな?」


 私の激昂を真正面から受けても、死神は平然としていた。まるで、雲を殴っているかのように手応えがない。

 かつて、話したときには感じなかった不気味さを、私は死神に抱いていた。何を言っても通用しない。彼と私の間には、目には見えない線が引かれている。


「最初、君から手術の話を聞いた時は、僕らと同じだと思ったんだ」

「……同じ?」

「僕らは、感情に流されてはいけない。生まれて間もない赤ん坊も、百歳になる老人も、定められた寿命に則って、死を実行するから、『可哀そうだ』と思うこと自体が許されていない。災害や戦争などで、何千人単位が亡くなる光景を目にしても、僕らは同情しない」


 三千年、彼は歴史を見続けたと言っていた。私は、この年月を、形骸的にしか捉えていなかったのかもしれない。

 この三千年間、彼は、いくつの災害を、戦争を、そして人の死を、見届けてきたのだろうか。私には、想像すらできなかった。


「人間の生死に関して、何も感じないように、僕らは作られた」

「……」


 私は、何も言い返せなかった。死神の瞳を見詰めているはずなのに、地の底へ続く穴を覗いているような気分だった。

 死神のこれまでの言動を思い返す。四人も殺した相手に平然と話しかけたり、仲間の死に動揺する私に挨拶を残して去ったり、危うい状況下で標的を殺した私よりも絵を眺めることを優先したりと、普通ではないことを平然と行っていた。それは彼にとって、生死に係る場面というのは、頭上の空のように、当たり前のものとして見つめているからだろうか。


 足が勝手に後ずさっていた。目の前の彼に、一人の男性の姿をしている死神に、怖さとも悲しさともつかない感情が湧き上がってきた。

 膝の裏がベッドの縁に当たった瞬間、下半身から全ての力が抜けて、私はぺたんとしりもちをつくようにそこへ座った。時間が止まってしまったかのような部屋の中で、放心した頭が、背後の止まない雨音だけを聞いている。


「もちろん、手術の話は僕の妄言だと片付けてもらっても構わない。ただ、こう思うのにはちゃんと根拠があるんだ」


 そんな雨の音に紛れそうなほど静かな声で、死神は続けた。

 どうして彼は、殺し屋の私に対してもこれほど優しい目を向けられるのだろう? 今は、そんな疑問しか考えられない。


「君には、感情がある。人を殺した時には、罪悪感を抱き、仲間が亡くなれば、酷く悲しむ」


 後光のように、死神の後ろにはあの絵が鎮座している。

 サーカスのライオン。歓声を受けても尚、項垂れていて、苦しそうな、その横顔。


「君は人間だよ」


 死神は、羨望と憐憫が入り交じり合ったマーブル模様のような瞳で、私を見据えていた。


「どうしようもないくらいにね」




































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