偏頭痛2
保健室の女先生が背負われている彼女を覗き込んで、開口一番に言った。
「吐く?」
彼女は無言で頷く。
「三波くん、佐藤さんをあそこのソファにお願い」と指示を出しながら、ガーグルベースに黒いポリ袋をセットした。そして、項垂れて座る彼女のもとへ急ぐ。
ガーグルベースを彼女の顎の下に持っていくと、彼女は嘔吐き、我慢していた物が噴出する。
三波は貰い吐きをしない様に窓の外を眺める。
黒い雲の大きな塊が、南の空からやってくるのが伺えた。
胃袋にあるものを出し切ると、込み上げる感覚はなくなった。
保健室の水道で口をゆすぎ、ブレザーのポケットに常備してある薬を取り出す。
一錠口に含むと、その水道から手酌で水を汲み、含んだ錠剤を流し込んだ。
「コップあったのに」
言葉の端に「はしたない」が付け加えられそうな口調で先生は言った。
はしたなさを気にする余裕など彼女にはない。
それより一分一秒でも痛みを和らげる方が先決なのである。
備え付けのペーパータオルを2枚引っ張り出し、手と口の水滴を拭き取った。
そして、足元にあるゴミ箱にペーパータオルを丸めて捨てる。
背中を丸め、左の頭を押さえながら、ふらふらと歩き、ベッドへ辿り着いた。
彼女は上履きを脱ぎ捨て、ベッドに潜る。
外部の刺激を遮断するように、掛け布団を頭から被った。
先生は体温計を持っていき、「熱だけ測って」と言う。
彼女は右手だけを布団から出した。「全くもう」と呆れた様子で、先生はその手に体温計を持たせた。
1分後、ピピっという電子音が体温計測の終了を知らせる。
彼女は体温を確認することなく、掛け布団の隙間から右手に持った体温計を出した。
先生は、彼女の右手からそれを取ると視線を落とす。
すると、彼女の気怠い声が掛け布団越しに聞こえた。
「36度1分」
先生は、溜め息を吐きこう返す。
「残念、36度ピッタリ」
程なく、カーテンを閉める音がした。
やっぱり体温が低くなってる。
彼女は、確信を得たように、そう思った。
この半年、彼女は体温を測り続けている。
調子の良い時の体温は、36.7度から37.2度。そして決まって、体温が下がると頭痛が引き起こされているのだ。
彼女はこの事をお医者さんに伝えるも、「ホルモンのせいかもね」と、空を掴むような回答しか返ってこなかった。
今日は特に体温の高低が激しく、更に五感全てが過敏になっている様である。
そんな彼女の耳は、三波と先生のやり取りする声を拾ってしまう。
「三波くんいつも有難うね」
「うっす、席近いんで」
別に頼んでないよと思いつつ、抗えない痛みの前に現れる三波のあの大きな背中が、救いの神に見えてしまう事があるのは否めない。
「アイツがあーなると、雨降るんすよ」
空はすっかり雲に覆われていた。
そして、大粒の雨がぼたりぼたりと降り出す。
「あー、それね。気象病ってやつ」
「気象、病っすか」
「気圧が急激に下がったり上がったりするとね、身体に不具合が起きるのよ。頭痛だけじゃなくて、古傷が痛んだりとか」
三波は「はぁ、そっすか」と捉えどころのない返事をした。
「うーん、何ていうかな。深海魚が水揚げされる感じかしら」
「余計わかんねっす」
「だからね、深海魚って、深海で生息するために適した体なわけよ。網にかかった深海魚が水揚げされると、急激な水圧の変化で内臓が膨張したり、目が飛び出たりするのよ」
三波は少し考え、こう解釈した。
「つまりあれっすか。深海魚の水揚げと同じ現象がアイツの身にも起こってて、急激な気圧の変化にアイツの身体が対応しきれず頭痛が起こっていると」
「そうそうそう言うこと。でもまぁ、まだ頭痛って解明されてないことが多いんだけどね」
彼女は水揚げされた深海魚をテレビで観たことがあった。
胃袋が口から溢れ、目玉が絞り出されていた。
うわ、キツそう
と思ったが、胃袋の内容物を噴射し、目が抉り取られるような痛みは、“深海魚の水揚げ”という表現もあながち間違っちゃいない。
そうか 私は、水揚げされた深海魚か-
彼女は深海の生物を頭に浮かべる。
リュウグウノツカイにデメニギス、チョウチンアンコウやメンダコ-どれも奇怪な姿形だ。
いや、でもまて、漁師の網に捕まって水揚げされたのは不慮の事故である。そもそも、深海魚は低い水圧に耐えられるよう進化を重ねてあの姿形になったわけであって、水深の浅いところで生きられる仕様ではない。
住む環境に順応するよう、深海魚は進化を遂げたというのに、私はどうだ。
気圧に変化に弱すぎるこの身体はきっと、進化を拒んだ代償なんだ。
あーもう、嫌になるぜ……
そう考えを巡らせていると、薬が効き痛みが引いていく。と同時に、瞼は閉じ、寝息をたてた。
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