第9話 絶望の化身

 私の思考が戻り、現実が脳裏を侵す。

 殺され、横たわったルク君。肉の壁になっても生かされている教会の皆。それをプレゼントだとでも言う彼。

 もう嫌だ。もう良いじゃないか。私はもう貴方の前で充分絶望してみせたじゃないか!


「これ以上……もう……良いでしょう?」

「いいや。まだ一つだけ」


 一つだけ? 何? この男はまだ何かするつもりなのか? 一体何を……。


「お前とは11年の付き合いだ。俺について来い。そうすれば、ここにいる全員を助けてやっても良いぜ」

「着いていくって……どこへ」

「要は魔王軍になれってことだよ」


 魔王軍に……私が……? 私なんて入っても何の役に立ちはしないだろうに。この男はなぜそんなことを? 嫌、そもそも何でそんな取引を?

 もし、断ったら…………嫌、恐らく皆殺されるんだ。だとしたらもう、実質的な選択肢は無いじゃ無いか――――!


「ダメよ、そんな一方的な取引に乗っちゃうなんて」

「うんうん。こー言うのって、あれだよねぇ。詐欺でよく見るやつ」


 ふと、聞き覚えのある二人の声が響き渡る。と同時にクロバルトさんに向かって、何かが襲い掛かり、彼を2~3Mほど吹き飛ばす。

 吹き飛ばされる前の彼の位置には、その何かの正体があった。一つは白い大柄の虎。もう一つは、麗しい白い衣服をまとった男性。

 あの人は……確か――


「おいおい、何の用だエイガ」

「え~~ぼく君に用件を一々言わないといけないの? 見れば一目瞭然だと思うけど」


 白い虎は牙を見せて威嚇をし、クロバルトさんを睨みつける。一方でエイガさんが虎の横でギルドに居た時と同じような、穏やかなほほえみを浮かべたまま。

 穏やかと言えば聞こえがいいが、ねとりと粘着質なその微笑はクロバルトさんとは別のベクトルで恐怖すら感じてしまう。


「あのね~~クーくんさぁ。人がせっかく丁寧に手入れした庭でさ、こんな事しないでほしいんだけど~~」

「ふん。"庭"ねぇ……」

「そうそう。お庭、枯れそうだったのを丁寧に手入れしてたんだよ」

「そうだな。バケモノであるお前らがやけにお行儀よく手入れしたもんだ」


 一体何の話をしているんだ、この二人は。庭って一体何のことなんだ? この教会のことか? いや、其れより私は――今このチャンスを……。

 何かを考えるよりも先に、身体が動いた。足が大地を蹴り飛ばし、その場から咄嗟に逃げ出した。選択肢がないんだ。なら、逃げるしかない。卑怯かもしれない。卑劣かもしれない。

 分からない、分からない、分からない! けど、目の前でエイガさんとあの虎が作ってくれたチャンスを逃がすほど私は愚かではない!

 殺したい! 殺したい殺したい殺したい殺してやりたい! でも、けれど! 私には無理なんだ!

 圧倒的な実力差は知っている。圧倒的な絶望を突きつけられた。だから――私は必死でその場を逃げ出すしかなかったんだ!

 そう自分に言い聞かせ、私は走る。走って、走って……つまずきそうになっても、やみくもに走っている。どこに逃げればいいか分からない! けど、あの人からできる限り遠くへ行かなければいけない!

 教会の皆、救えない。救えなかったんじゃない、救えないんだ。あんなことになってる人間を、どうにか元の人としてできるのなら、していたい!

 けど、どうすればいいんだ! どうすればよかったんだ! 目から涙があふれる。口から後悔の念と悔しさと恐怖が溢れ出そうになっている。だから、必死に歯を食いしばり、何もかも溢れ出ない様にした。

 苦しい。この苦しさは後悔か、それとも酸欠なのか分からない。

 頭が痛い。走り続けた足も痛い。ならばいっその事、どちらの痛みも感じない様にもっと走ればいいだけのことだ。


(うぅぅ……うぐ……あぁぁ……!)


 私は、本当にこれからどこへ逃げ、どう生きて行けばいいのだろうか?


◆◆◆


 クロバルトは逃げたアリウムを眺め、不機嫌そうにエイガに言い放つ。


「お前のせいで逃げられたんだが?」

「あっはっはっはっは! 振られてやんの~~♪」


 一方でエイガはいつも通り、楽しそうに吾入れを茶化す。そのまま隣に居る虎の背中をポンポンと優しく撫で、流れる様な動きで右手でクロバルトを指さした。


「とらくん、アレ食べて良いよ」


 虎はエイガの合図とともにクロバルトに襲い掛かる。鋭い牙で彼の右腕に食らいつこうとしたが、間一髪のところで躱された。しかし、虎も追尾するように再び襲い掛かる。

 クロバルトは軽く溜息を零し、食らいつかれそうになった右腕で虎の頭を掴む。予想外の行動に虎は驚きつつも、どうにか彼の腕を振り払おうと両腕で彼の胴体を鋭く引掻く。

 さすがのクロバルトもこれは躱せず、傷を受けた――かに見えた。虎自体も、何かを強く引掻いた感触はあった。しかし、まるで何かに激しくぶつけられたかのような感覚がすぐさま虎を襲い掛かる。

 まさかと思った。そう、それはエイガとて例外ではない。彼が、クロバルトが片腕で虎を掴んで、教会へと投げたのだ。

 瞬間、エイガもクロバルトへと襲い掛かり、袖の中に隠し持っていた赤いナイフで彼の首を切り落とす。首という支えを無くしたクロバルトの胴体は、重力に沿ってそのまま倒れた。


「はぁ……。なんて事だ」

「…………信じられないんだけど。その状態でまだ生きてるの?」


 首だけになったクロバルトは、まるで何事もなかったかのようにしゃべり始める。確かに、人は首を刎ねられても、暫くの間は意識がある。中には喋るものもあるというが……。

 彼の場合、首だけになっても明らかに……生きている時の様な意識があるのだ。


「今直ぐこっちの心臓ぶち抜けば、君は死ぬかな?」


 などと言いながら、エイガは一切の躊躇をせず倒れているクロバルトの胴体を、心臓を狙ってナイフを貫く。確かに、手ごたえはある。心臓を貫いている。しかし。


「おいおい、バケモノさんよぉ。普通気付くだろ? 首ぶっ飛んで、平気でしゃべってる奴が心臓ぶち抜かれただけで死ぬかっての?」

「ふうん? 心臓二個あるだけじゃないの? こっちも抉っとこ~」


 宣言通り、エイガはもう片方の胸元も貫き、抉る。けれど、クロバルトの首はまるで何事もなかったかのように、言葉を続けていた。


「はぁあ~。クソねみぃ攻撃な事で。無駄だってわかんねぇかね」

「クーくんうざぁい。賽子ステーキになっちゃえ」

「うわ、人が体動かせねぇからって容赦ねぇ……」


 ざくざくと、エイガはナイフでクロバルトの体を賽子状に切り裂いていく。しかしそれでも、彼は痛がるそぶりも見せないし、命乞いもしない。ただ何となく見ていただけであった。

 だが、次第にそれも飽きたのか、自分の体が全て細切れになった頃。彼は何かをぶつぶつと呟き始める。


「細切れに切ろうが、何しようが死なねぇってのに。難儀なこった。我は庭師也、庭園を造りし者也、さぁ……思い出せ。我が姿を」


 エイガは失念していた。バケモノでありながらも、どのような生き物でも急所は胴体にのみ存在するのだと、信じていた。だからこそ、本来であれば先に頭から潰すべきだった相手に、猶予を与えてしまったのだ。

 だが――むしろそれで良かったのかもしれない。何故なら、クロバルトも今、失念していたから。自分の背後に、ぶっ飛ばしたはずの虎が忍び寄り、自身を喰らおうとしていたなんて……思いもしなかったのだ。

 ばくりと、彼もとい頭部は虎に背後から食われ、そのままバリバリとかみ砕かれる。虎はまるで不愉快でまずそうな物を必死に咀嚼し、飲み干した。


「グルル……」

「難儀なのはどっちだろうねぇ~~」


 エイガは少しだけ驚いたような表情を出したが、すぐさま何ともないような様子で虎を優しく撫でる。虎もまた、自身を投げた不届き者を食べた満足感と、主の役に立ったことに対し誇らしげに喉を鳴らす。


「こっちの細切れも食べて良いよ~~」

「あらまぁ、食べさせちゃうの?」


 エイガの左耳の赤いイヤリングからもう一人の声の主、セツナの声が響く。どうやら、彼のピアスは携帯通話装置の役目を果たしている様だ。

 ギルド内からエイガのイヤリング越しに様子を見ていたセツナは、何かに警戒している様にいつもより落ち着いた声で彼に話しかける。


「クロバルトちゃん、意外とあっけなかったわね……っていう事になればいいけど」

「どーいうことー?」

「彼があんな簡単に殺されるように思えなくって。義体だった可能性があるわ。だから本体がどこかに隠れてると思うの。エイガちゃん、警戒して」


 セツナの言葉を聞き、エイガは納得する。というよりも、彼自身、心臓を貫いて死ななかったあたりで薄々感じていた。だからこそ警戒を解かず、周りを注意深く見渡す。人の気配はない。


「あぁ、そりゃダメだな」


 どこからともなくクロバルトの声が聞こえ、エイガは声の方へ振り向いた。すると、肉と骨がえぐられる様な音と共に、虎が強い悲鳴を上る。

 何かが、内側から虎を抉っているのだ。その何かは恐らく。


「…………クーくんさ、本当に人間なの?」

「人間だ、紛れもなく俺は人間さ」


 虎の脳天を、人の――クロバルトの腕が貫き、そこを境目にして内側から大量の肉片や内臓と血を浴びた彼が這い出て来たではないか。

 月夜というのもあるのだろう。月を背後に、赤黒く、血生臭く、蘇生された彼は――爽やかな様子でこちらを見下していたのだ。


「さて、皆殺しの時間だ」

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