第2話 幼女にできること
「疲れた。今日はもう寝る」
なんだかんだで誰かと話をしたり、ペースを合わせるというのは疲れるものだ。
俺は流しに置いた食器は明日洗うこととして、そのまま寝室に向かった。
とてとてと、後ろからレイシーがついてくる。
「ん? どうした?」
「あの……どこなら寝てもいいですか? ここの床を使ってもいいですか?」
「………」
俺は、今日一番の大きなため息を吐いた。
寝る場所ですら許可を取らなければならない生活をしていたレイシーもそうだが、彼女を買うにあたり、『あくまで復讐の道具』と考えて生活用品の一切を考慮していなかった自分に呆れ果てる。
「ベッドが必要だったか………すまん、今日は無いから、ここで寝ろ」
そう言って、俺は自身のベッドから出た。
「え。でも……そしたら、旦那様は?」
「俺は一階のソファで寝る」
すると、レイシーは血相を変えて扉の前に立ちはだかった。
「ダメなのです! そんなことは許されないのです!」
「いや、でも………俺がいいって言ってるんだからいいんだよ」
「レイシーは、旦那様がベッドで寝ないなら、寝ません!」
「ちょ――」
こういうとき、何故だか知らないがレイシーは頑なだった。
まぁ、そういう教育を受けてきたのだから仕方がないのだろう。
しかし、こんな幼い十歳程度の子どもを床やソファに寝かせるのもいかがなものか。
俺は、ひとまずベッドで一緒に寝かせ、レイシーが眠りについたところで自分は一階におりることにした。
「わかった。じゃあ、一旦ここで寝ろ」
ベッドの端に詰めてスペースを空けると、レイシーは寝間着代わりに貸してやったぶかぶかな俺のシャツの裾を握り、もじもじと躊躇う。
「一緒だなんて、そんな無礼な真似、できません………」
(はぁ、今日ばっかりは仕方ないな……モノは使いようだ……)
「旦那様命令だ、一緒に寝なさい」
短く告げると、レイシーはさっきまでの態度から一変、すんなりとベッドに入ってきた。
(なんだ、やればできるじゃないか……)
「じゃあ、俺は寝る」
くるりと背を向けると、少ししてあたたかな感触が俺を包み込んだ。
どうやら、レイシーが俺の背に抱き着き、へばりついているらしい。
「………レイシー?」
知らないところで夜を過ごすのは不安なのだろうか。
年相応に可愛いところもあるもんだと安堵していると――
「あの、旦那様……ごめんなさい。レイシーは、ねやごとをしたことが無くて、何をすればいいのかわからないのです……」
心の中で、ガーンという大きな音が聞こえた気がする。
もうなんか、色々ショックだよ。こんな歳の子がそんなことを口にするのもだし、俺がそんな意図で一緒に寝ろと言ったと思われたこととか、色々。
てゆーか……
「お前、
「えっと……こうですか?」
「うわ、下を触るな! なんのつもりだ!?」
「それは、ええと……旦那様に、ご奉仕を……?」
「そんな台詞いますぐ忘れろ!! ったく、碌でもねぇな娼館ってやつは!!」
がばっと起き上がり、俺はベッドの上に正座した。
ついでにレイシーも正座させる。
「いいか! 好きでもない男に、そう簡単に身体を許すんじゃない!!」
「でも……」
「『でも』、何だ!」
「お姉さま方は、みんなそうしています……」
「あああ! もう!!」
俺は頭をぼりぼりと掻いて、レイシーに向き直る。
「お前にとっての『当たり前』は、世間一般では『当たり前』じゃあないんだよ。わかるか?」
「……?」
「まぁいい、その辺はおいおい教えてやる。はぁ……今日はもう疲れた。とにかく、俺には触れずに、ベッドを使って、隣で寝なさい」
「はい……」
「なんだ、その顔は。納得していないのに返事だけするのはやめろ。言いたいことがあるなら、はっきり言うんだ」
強めに言うと、レイシーは心底申し訳なさそうな顔をする。
「レイシー……あ、いや、私は……旦那様のお役に立てていないのです……」
「それは――」
「役に立たない子は捨てられて、寝るところも食べるものも無くて、魔物に食べられてしまうのです……」
「そう、教えられたのか?」
こくりと頷く少女。なんというか、どうすれば真っ当な思考を手に入れることができるのだろうか。
とにかくこいつは、己の価値が低すぎる。だが、ただ『自信を持て』と言ったところで、こいつは自分に価値を見出していない。どうせさっきのように納得のいかない顔をして終わるのだろう。
「じゃあ、こうしよう。俺がお前に役目を与える。それができれば、お前は役に立っていると自信をもって言えるだろう。なにせ、俺の与えた役目を全うしているのだからな。誰にも文句は言わせない。だから、胸を張ってこの家にいなさい」
「はい……! なんでもやります! がんばります!」
いったい何を命じられるのかとドキドキしている瞳が、その奥で『捨てないで……』と懇願していた。
「お前に与える役目は!」
「はい!」
「…………」
(え、どうしよう。思いつかない…………)
なるだけ簡単で、誰にでもできそうなやつ。
家事は……大体魔法で済ませられるし、仕事? 無理だろ、こんな小さな子。
窓拭きとか? ダメだ、簡単すぎて、こいつが納得するだけの理由が思い浮かばない。
(レイシーにできて、俺にできないこと……?)
そんなもんあるわけねぇだろ!?!?
「あの、旦那様……?」
俺の顔色を伺う瞳が、みるみるうちに涙で滲む。
「やっぱり、私じゃあ……旦那様のお役には……ふぇぇ……」
「そ! そんなことないぞ! ああもう、泣くな泣くな!」
近くにあった布で涙を拭ってやる。
拭いきれずに零れた粒が指に触れ、あたたかかった。
(そうか、コレだ……!)
俺は、できるだけ変態ぽく見えないようにレイシーの手を握った。
「ひゃっ、冷た……!」
「そうなんだ。俺は、体温が人より異常に低いんだよ。だから、寝るときいつも寒いんだ。レイシーには、湯たんぽの代わりをしてもらう」
「湯たんぽ……あったかくするのですか?」
「そうだ。火の魔法では布団が燃えてしまうから、打つ手が無くて困っていた。レイシーだったら、背中をくっつけて寝るだけで俺をあたためることが可能だ。どうだ、できそうか?」
問いかけると、レイシーはにっこりと自信満々に頷いた。
「はい……! お任せください!」
そうしてレイシーは、彼女にできるめいいっぱいの力を込めて俺を抱き締めてくれた。
久しぶりに感じる人肌のあたたかさが懐かしく、その一方で嫌な思い出が蘇る。
気がついたら、恋人が勇者に寝取られていたときのことを。
(くそっ、あの野郎……)
だが、俺にはそれ以外に復讐をする理由があった。
(その為にも、今はレイシーを……)
ふと背後を振り返ると、レイシーは俺を抱き締めたまま心地よさそうな寝息を立てていた。
(レイシーが本当の意味で俺の役に立つようになるまで、あと六年か……)
それまでに、レイシーがひとりでも暮らしていけるよう、鍛えなければ。
この子はただの復讐の道具……そんな考えはいつの間にか吹き飛んでいた。
いや、正確には、そうだといくら自身に言い聞かせても、考えられないようになってしまったのだ。
だって、この少女は――こんなに、あたたかいのだから。
◇
翌朝。鬱陶しい陽光に目を細めて起き上がると、隣で寝ていたレイシーが目を覚ました。
「ふぁ、あ……おはようございます……」
「おはよう」
なんとなく挨拶を返すと、レイシーはぎょっとした表情で飛び起きる。
「だ、だ、旦那様っ……!?!?」
「ん? そんなに慌ててどうした? まさかおねしょ――」
「するわけないですっ!! 私、そんな子どもじゃないですっ……!!」
珍しく俺の言葉を遮るように浴びせられる言葉。
今までにないようなすごい剣幕。
どうやら、彼女のプライドを刺激してしまったらしい。
さすがに十歳でおねしょを疑うのはナメすぎていたようだ。反省。
「じゃあどうした――」
改めて問いかけると、レイシーは凄まじい勢いでベッドの上に土下座した。
「も、もも、申し訳ございません……!」
「は?」
「だ、旦那様よりも遅く起きるなんて! 小間使い失格ですっ!!」
(ああ、そういう……)
「あの、その、こんなにふかふかなベッド、初めてで……気持ちが良くて、つい……」
「別にいい」
「ああ! 言い訳なんてしてごめんなさい! ごめんなさい!!」
「おい、落ち着け……」
「レイシーは悪い子です! 悪い子ですっ……!」
「いい加減にしろ!」
見るに堪えず制止すると、レイシーはようやく顔をあげた。
今すぐ泣き出しそうな、それでいて『泣いたら怒られちゃう』みたいな顔。
できることなら、二度とその顔をしないで欲しい。
それに――
「俺は怒ってないし、レイシーを悪い子だとも思っていない。だからそんな、『殴らないで……』みたいな情けない顔をするのはやめろ」
「ふぇ……?」
『殴らないの?』みたいなきょとん顔。
「殴るわけねーだろ。俺を何だと思ってる?」
って……レイシーには言っても無駄か。
これは彼女のせいじゃない。
「そもそも、俺より早く起きろなんていつ言った?言ってないだろ?」
「でも、小間使いは旦那様が起きるときまでに朝食を用意しないと――」
「別に俺は、レイシーを小間使いにする為に買ったんじゃない」
「ふぇ? そうなのですか? じゃあ、なんで……」
言いかけて、レイシーはハッとした表情をする。
「すみません……!
「違ぇ!!」
「旦那様に満足してもらえるよう、一生懸命練習しますからぁ……捨てないでぇ……」
「ひとの話聞いてたか!? つか俺、最初にロリコンじゃねぇって言ったよな!? ああもう!!」
こんなに卑屈でいられると、こっちの気が狂いそうだ。早々になんとかしたい。
「いいか! レイシーは小間使いでもないし、奴隷でもない! もっと自分を大事にしろ!」
「でも、じゃあ、レイシーは何なのですか?」
まっすぐに見つめる瞳に心が抉られる。
だって、『復讐の為にお前を買った』とは言えないから。
いや、いずれは知られることなのでいっそバラしてもいいのだが、何故か今はそうしたくない。
俺は、レイシーにはっきりと告げた。
「お前は、俺の弟子だ」
「……!」
「今日から魔法の訓練をする。将来的に食い扶持に困らないくらい。そして、もう二度と誰もお前をイジメることができないくらいに、強くしてやる。覚悟しろ」
「でも……魔法の先生は貴重で、一回の授業料でレイシーが一か月ご飯を食べられるって、前にオーナー様が……」
「ああ、あのいやらしい笑い方の店主か。あいつ絶対ヅラだよな」
吐き捨てるように言うと、レイシーは大きく目を見開いた。
そして――
「……ぷぷっ。うふふっ……!」
(笑っ、た……俺の言った冗談に、まるで、その辺にいる小娘と同じように……)
「レイシー。お前、そっちの方が可愛いぞ」
「か、可愛い、ですか……?」
「ああ。ずっとそうしてろ」
「可愛い……えへへ……」
「なんだ、やればできるじゃないか」
ぶかぶかなシャツの裾をくしゃっと握り、嬉しそうなレイシー。
その姿を見て、思い出す。
「そうだ……! 今日は買い物に行くんだった。すまんが魔法の訓練はナシだ」
「買い物ですか?」
「ええと、必要なものは……服に靴、ベッド、あとは? 女だから櫛とかか? ああもう、わからん! とにかく、すぐに出るぞ」
俺はわけもわらず目を白黒させるレイシーの手を引き、麓の村へと繰り出した。
◇
俺の暮らす屋敷から徒歩で三十分ほどの場所には、小さな村があった。
昔は高名な魔術師だった俺は、知り合いのいない場所を探しに探してようやくこの村に辿り着いた。
移住してから約一年、その間俺は魔法で精製した薬を売ったり、村人からの依頼をこなしたりしてこの村で信頼を築いてきたのだ。
正直な話、今も昔も金には困っていない。だが、村で買い物などをする際には見知らぬ顔では何かと不便だし、村人の主な悩みは干ばつや魔物退治など、魔法さえ使えれば簡単に解決することができるものばかりだったので、そんなに苦労はしなかった。
そして何より、村人と交流することで王都の様子を知れることは大きかった。
「こんにちは、ライネス夫人。最近お身体の調子はどうですか?」
立ち寄った雑貨屋で、村人にしてはそこそこ身綺麗にしている女性に声をかける。
ライネス夫人は週に何度か王都でメイドの仕事をしているので、この村の住人にしては裕福な方であり、王都の情勢にも詳しい。噂では、雇い主である館の主人と不倫しているとかなんとか。
俺は以前、より若く見えるようになる秘薬は無いかと相談を持ち掛けられ、代謝と肌艶を良くする薬を処方した結果、絶大な信頼を得ることに成功していた。
中身は生姜と妖精の鱗粉、羽化後の抜け殻なわけだが……それを言うのは無粋というものだろう。
「あら、ヨハンさん! お陰様でこの通り、十歳は若返った気分ですわ! 昨晩なんて旦那様にもお褒め頂いて……本当にありがとうございました。今日はお買い物ですか?」
「ええ、まぁ。それより、王都で何か変わったことは?」
「いいえ。一年前に即位なされた勇者様――ヒルベルト王のおかげで、王都は平和そのものです。魔族の侵攻も、魔王を崇拝する残党が僅か。あの程度でしたら
「しかし、ここ数か月は辺境であるこの村にも魔族の残党がやってきていると聞きます。であれば、物資の豊富な王都にはもっと魔族が押し寄せていてもおかしくはない。勇者サマは、自ら残党の討伐に出陣なされないのですか?」
「私の知る限りでは、そういったお話はありませんわ。勇者様は城での公務でお忙しい身ですから、仕方がないのでしょう。それに、あの魔王を倒したヒルベルト様ですから。式典でそのお姿をお見せになるだけで、騎士団や人々の士気は向上し、自ら出向く必要もないということなのでは?」
「へぇ、そうですか……」
(勇者の奴、部下に仕事を押し付けて、自分は安全な城内で一生を過ごすつもりだな? 王妃である、俺のかつての恋人を侍らせて……)
「チッ……」
「そうそう、それから! 昨日の夕方の号外で、王妃様の第二子ご懐妊が発表されて。ご即位一周年という日に、おめでたいことばかり! 街はもう夜通しお祝ムードですの!」
「そうですか……」
(くそっ。糞クソッ! できれば今のは聞きたくなかった。第二子だと? ふざけんな。ほんっと、勇者死ね)
「……旦那様?」
「ああ、レイシー。なんでもないよ」
「にこにこ、お顔が変ですよ? どこか痛いのですか?」
「なんでもないよ」
「口調も、いつもと……」
「いいから、ちょっと静かにしていなさい。欲しいものがあれば、なんでも買ってやるから」
服の裾を引くレイシーに、笑顔で『黙れ』と釘を刺す。
勘のいいレイシーは、心配そうな面持ちのまま俺の脇に引っ込んだ。
(ああ、危なかった。レイシーが声をかけてくれなかったら、思わず下唇を噛み切るところだった)
安堵していると、ライネス夫人はにこにこと問いかけてくる。
「あら、ヨハンさん。妹さんがいらしたのですか? とっても可愛らしいですね! 綺麗な金髪に、水晶のような瞳。けど、ヨハンさんには似ていらっしゃらないような……? ヨハンさんは、闇夜のような御髪ですものね?」
「ああ、この子は私の弟子でして。妹では――」
「まぁ! その歳で魔法の才に目覚めるなんて、なんて素晴らしい娘さんなのかしら!」
(魔法が使えるかどうかはまだ試していないが……まぁ、血筋が血筋だし、おそらく使えるだろう)
「住み込みをすることになったので、今日は物資の買い出しに。そうだ、ご夫人。女の子が生活するのに必要そうなものを、見繕ってはいただけませんか? なにぶん私は、男の独り暮らしなもので」
そう言うと、ライネス夫人はここぞとばかりに張り切って、寝具やら服やらをあれよという間に揃えてくれた。
買い物を終えて店を出る直前、レイシーが一瞬立ち止まる。
視線の先には、雑貨屋の棚が。
「なんだ? 欲しいものでもあるのか?」
聞くと、レイシーは千切れんばかりに首を横に振る。
「いっ、いいえ! そんな! 欲しがったりなんて、はしたない真似、しません!」
「…………」
俺は、ため息を吐いてレイシーの前にしゃがみこんだ。
目線を合わせて、静かに諭す。
「あのな? 『欲しい』と思うことは、決してはしたないことなんかじゃない。むしろ、人間ならばごくごく自然な欲求だ。三大欲求はもちろん、それ以外にも、生きていく上でとても重要なことと言える」
「生きる、ため……?」
「そうだ。『欲しい』と思うことは、興味を抱くこととも言える。興味や好奇心なくして、優秀な魔法使いにはなれない。それに、欲しいものを手に入れることで心が満たされたり、生活が潤ったりするものだ。精神的な安定は、それら無くして得られはしまい。現に勇者も、欲しいものはなんだって手にいれて、ときには人のものをすら奪って――くそっ!!!!」
「だ、旦那様?」
「あ!?」
「あ、あの……旦那様は、勇者様がお嫌いなのですか?」
「嫌いもなにも!! 大っ嫌いだな!!」
人前で大きな声では言えないが。
だって、そんなことがバレたら盲目的に勇者を崇拝する街の人々によって制裁という名の集団リンチを受けることになるだろう。
それがまたムカつく。
「でも、勇者様は魔王を倒して、国を救った英雄で、皆の憧れで……」
「もしそれが全部勇者の嘘で、本当は裏で悪いことを沢山しているとしても?」
「えっ?」
「はぁ……まぁいい。子どもの夢は壊すもんじゃないな。で、話は逸れたが。俺が言いたかったのは、お前はもっと自分の気持ちに素直になってもいいということだ」
「すなお……」
「そうだ。欲しいものは欲しい、イヤなことはイヤ、と。きちんと自分で言える人間になりなさい。言える勇気を持ちなさい。そうして、その願いは誰にも踏みにじらせるな。その為の力は、俺がくれてやる」
「……?」
子どもには、少し難しかったか。
まぁ今は、いずれ理解してくれることを祈ろう。
「あああ! 今はアホみたいに散財したい気分だ! パーッと金を使いたい! 欲しいものを言え! 『あの棚全部!』とかでもいいぞ!」
「え、でも……お金を沢山使うのはよくないんじゃ……? レイシーには、これだけで十分です……」
申し訳なさそうに、でも大切そうに、レイシーは買ってやった服の入った包みを抱き締めた。なんだか知らんが、俺は大層満足だ。
だが、その服ですら生活の必要最低限。こいつは今まで苦労した分、もっと多くを望んでもいいと思う。
「さっき、何か見てただろ? 何見てたんだ?」
「え……」
「『欲しい』と思ったんじゃないか?」
きっと、『欲しい』という感情を抑え過ぎて、忘れてしまったんじゃなかろうか。
娼館を出るとき、レイシーの持ってきた荷物はとても少なかった。
破れて使えなくなった服を繕って作った袋の中に、替えの服と下着が一枚ずつ。
しかし、そんな少ない荷物の中にも、薄汚れたくまのぬいぐるみのようなものがあったのだ。
誰に貰ったのかはわからない。
ひょっとすると、酔って機嫌の良くなった客が気まぐれにプレゼントしたものかもしれない。しかし、そんなぬいぐるみをボロボロになるまで愛でる程度には、レイシーにだって年相応に遊びたい気持ちがあったはずだ。
「別に、お前がいいなら無理に教えろとは言わないが……」
いつまで経っても答えないレイシーに痺れを切らし、店を離れようとすると、ちょい、と袖を掴まれた。
「あの……あれが、欲しいです……」
◇
買い物を終えて帰ってくるや否や、レイシーは真っ先に炊事場へ駆け込んだ。
「旦那様! ありがとうございます!」
「お前……本当にそんなんで良かったのか?」
「はい! これがあれば、レイシーはもっと旦那様のお役に立てますので!」
呆れるくらいに献身的。
レイシーが欲しいと言ったのは、火を起こすための『火打石』だった。
「確かに、それがあれば魔法が使えなくても料理ができるだろうが……俺は好き嫌いがかなり多いから、料理は自分でやった方が早――」
「ダメです! お願いです! お料理、私にさせてください! それに――」
レイシーは、火打石のついでに俺が勝手に買ったエプロンを、丁寧に丁寧に包みから取り出す。
「可愛いエプロン、たくさん着ていたいので……」
家事は魔法で効率的に、と常々思っていたが、レイシーにとってはエプロンを着けて料理をする時間そのものが楽しみなようだ。
今まで何も手に入れられなかったレイシーの、初めての望み。
それは、最強の魔法使いでなくなった俺にも叶えることができる、とてもささやかな願いだった。
(まったく……これじゃあどっちが師匠かわからないな……)
素直に認めよう。
素直になれとレイシーに言ったのは、俺なのだから。
レイシーは、俺に、忘れていた感情を思い出させてくれた。
「旦那様! お好きなものは何ですか? 今日は、何が食べたいですか?」
そんな無邪気な笑顔が、教えてくれたのだ。
俺にもまだ、誰かを救うことができるのだと。
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