3-12

 それから私は、純の案内で神保町にある小さな洋食屋に連れてかれた。居酒屋でも、小洒落たバルでもなく、昔ながらの定食屋ってところがなんだか彼女っぽいなと思った。

 白髪のナイスミドルなおじさんが席に案内してくれると、純はメニューも見ずに「カロリ焼きを二つ」と言った。もちろん私に断りを入れることもなく。

「ここはそれが一番おいしいの。ニンニク醤油をかけて食べるの。”女子女子した飲み会”じゃ絶対に食わないでしょ」

「確かに。よく来るの?」

「昼にね。大学から近いから。わたし基本的に友達いないし」

「そう。でも、あの髪の青い人は? 今日会ったんだけど……」

 私がそう言うと、純はすべてを悟ったみたいにため息をついた。大きく、深いため息。それから頭をもたげ、「塔子の仕業かぁ」と吐息混じりにつぶやいた。

「塔子のことは気にしないで。あいつは、なんていうか……まあ、変な奴なのよ」

「まあ、普通の子じゃないとは思ったけど」

「美大やめて一年海外放浪してから哲学科に入った頭のおかしいやつなの。気にしないで」

「面白そうな人だけど」

「傍から見てる分にはね。関わるとロクなことがないタイプ」

「はは、なんとなくわかる気がする」

 他愛もない話。

 どこに住んでるとか、私が田舎から出てきたこととか。結婚式の酷い話とか。あと純のことも。高校時代の話とか、昔からずっと一人で曲を作ってたって言う話も。

 まもなくやってきたのは、鉄板焼きの牛肉だった。お肉の下にはパスタが敷いてあって、油をすっててらてらと光っている。

「こうやって食べるのよ」

 純はそう言って、机の上にあったニンニク醤油を手に取り、よくかき混ぜてから、思いっきり鉄板の上に振りかけた。飛び散る醤油と、鉄板の上で焦げる香ばしい匂い。腹ぺこの私にしてみれば、それはもう犯罪級の誘惑だった。

 私が今まで十九年生きてきた中で知り得た『世の中の真理』というものが三つほどあるけど、そのうちの一つは「ニンニクが入ってれば大抵のものはうまい」だ。もちろん例外なく、鉄板で弾けるニンニク醤油がまずいはずなかった。いや、おいしいに決まってた。

 私たちはしばらく言葉もなく肉を食べ続け、次に話したのはご飯まで平らげたあとのことだった。

 最初に口火を切ったのは彼女の方だった。

「ねえ。塔子に会ったってことは、サークル棟にでも行ってた?」

「まあ、じつは。純を探すためにいろんな軽音サークルを見て回った」

「あっそう。じゃあわたしの悪評はよく知ってるわけなんだ」

「まあ、多少は……」

「そう。彼らの言ってることは、半分は正しいよ」

「半分ってどこまで?」

「そうだね……」

 言って、純はコップ半分まで水を飲み干し、喉を潤した。

「高校生のとき、わたしは一回だけ友達と一緒に曲を作ってたことがあったの。写真部の幽霊部員の男の子でさ、わたしと同じで流行の音楽は嫌いで、昔のイギリスのロックが好きな子だった。彼にはバカみたいな夢があって、それはいつかグラミー賞級のアーティストのお抱えフォトグラファーになって、バンドと一緒に世界中を回って写真を撮る……っていう、まあ痛い奴だったんだけどさ。彼と二人で曲を作ってたの。でも、その途中でわたしは彼と喧嘩別れをしたの」

「喧嘩って、どうして?」

「うーん……」

 彼女はしばらく考え込んだ。十五秒くらい。

「たぶんサリーがそのに抱いている感覚とは真逆のもの。彼とはアーティスト同士対等な立場でいたかった。彼はね、『女子高生シンガーソングライター』ではなくて、『ただのシンガーソングライター』としてわたしに接してくれた初めての人だったのよ。だけどね、それも長くは続かなくってさ。たぶん男女の友情なんて初めから破綻するんだろうね。彼がわたしを女性として見始めたから、わたしも彼をフォトグラファーとしては見られなくなった。そしてけっきょくその関係がイヤになって、別れたの。それだけ。以来わたしは一人で音楽をすることにしていたの。大学に入るまではね」

「大学に入るまでは?」

「うん。サークルの先輩にさ、下北のライブハウスで演奏してるインディーバンドのギターボーカルの人がいてね。その人に色々と音楽のことを教えてもらってたの。わたし、たぶんちょっとだけあの人のことを好きだったんだと思う。だけどさ、いざ肉体の関係を持ったら、なんか違うなって思っちゃって」

 言って、純は残りの水を飲み干し、自分の指をそっともうひとつの手で撫でた。

「人間って、けっきょく肉体の快楽に帰結してしまうんだって、たぶんそれが汚らわしいと思った。もっとクリエイティブでプラトニックな関係でいたいって思った。さっきサリーが歌ったあのときみたいにね。ああいう瞬間がずっと続けば良いのにって。でもけっきょく人間の男女って動物の雄雌だからさ。なんか、そういうのすごくイヤで……。それで、その先輩と寝た日の朝、サークルを抜けた。それだけの話」

「なるほど……。軽音サークルの人たち、純が先輩のことを酷く罵ったとか言ってたけど」

「あとで尾ひれはひれ付けたんでしょ、きっと。一年生に手を出したヤリチン野郎が自分の悪行を消すためにさ。まあ確かに、置き手紙にちょっと汚い言葉を残して帰ったけど。でも、それだけよ。ほかには何にもしてない。それがコトの顛末。ザッツオール」

 純は両手を挙げ、これで話すことは終わり、と開き直った。余りにも赤裸々な話だったから、周りに客がいなくて本当に良かった。

「満腹になったし帰ろう。わたし、いますごく気分がいいから。良い曲が書けそうな気がする。すごくインスピレーションが湧いてる」

「それはよかったけど。じゃあ、また一緒にやる?」

「サリーが良ければ」

「純が良ければ」

 お互いにそんなこと言うから、私たちは思わず笑ってしまった。


 それからカロリ焼きの代金を少し多めに支払って(さっきのスタジオのぶんのお返し。友達に貸し借りは作りたくないから)、わたしたちは御茶ノ水駅で別れた。わたしはそのまま自宅のアパートへ、彼女は中央線から京浜東北線に乗り換えて、浦和の実家に帰っていった。

 アパートに帰る道すがら、私はイヤフォンを耳にさして彼女の曲を聴いていた。

 口のなかはとってもニンニク臭かったけど、でも幸せな気分で。これは今すぐにでも誰かに喋りたいな、でもニンニク臭いからまず歯磨きしなきゃって。帰り道はすこしスキップ気味に帰った。

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