3-11

 歌い終わった直後、私は五臓六腑のすべてを吐き出したような思いだった。はらわたの中で煮えくりかえっていた何かを吐き出して、もう何もかもがどこかに消えてしまったような気がした。

 といっても、それはこの間の二日酔いで溜まった気持ち悪さみたいなもので。あの人に向けてたまりに溜まっていた思いすべてが解消されたかと言えば、イエスとは答えられないけれど。だけど、すこしだけ喉の奥につかえていたが落ちたような気がした。

 私はすべてが研ぎ澄まされて、すっきりした気分だった。さっきまで雨粒がついて結露していた窓ガラスが、ワイパーですっと拭き抜かれたような気分だった。

 でも、それは私だけだった。

 雨宮さん――純は違った。

 彼女は椅子に腰掛けたまま、ギターをつかむ手は震え、オレンジ色のピックは六弦あたりを触れるか触れないかを続けていた。

 彼女は腰を抜かしたみたいな、というか「鳩が豆鉄砲を喰らったような」顔をしてた。こんなにも「鳩が豆鉄砲」が似合う顔を見たのは、生まれてこの方これが初めてだった。

「ごめん、私なにか――」

 私がそう言いかけようとすると、純はギターを大きくかき鳴らし、私の言葉を遮った。そのフレーズはこの曲、『デストルドー』のワンフレーズめに出てくる音だった。

「ねえ、もう一回歌ってくれない? いまの、録音すれば良かった。レコーダーまわすから、もう一回歌って。ギターは適当に合わせるから、スリーカウントでイントロの部分から――」

 その焦りよう、畳みかけるような早口、怒濤のキータイプ。純はすっかり何かに取り憑かれた様子。私の代わりに何かを肩代わりしたみたいになっていた。

「まだあと五分あるから、ギリギリ間に合う。歌える?」

「え、もう一回歌うの?」

「そう、お願い」

「でも時間だって……」

 私はギプソフィラの花束を手に取り、防音扉の向こうに目をやった。格子の入ったガラスの向こうに、四人組の男子が並んでいる。金髪の細身の男が一人、背中にギグバッグを背負ってこっちを覗き込んでいた。

「次のバンド来てる。さっさと退散した方がいいと思うんだけど」

 金髪と目が合った。彼の目が「さっさと出てけ」とまでは言わないにしても、「まだかな」ぐらいには思ってそうだった。

「あと五分で出てくなら、片付けした方が良いと思う。私も手伝うから。邪魔したのは私だし」

「まあ、うん……わかった」

 純は生返事だけ返すと、やっと機材を片付け始めた。エフェクターとギターをケースにしまって、パソコンも電源を落としてブリーフケースの中へ。片付けには五分ちょいかかって、待っていたバンドには少し申し訳なかった。でも彼ら、「ごめんね、遅れちゃって」と一言言ったら「ぜんぜんいいっす」って爽やかに返してくれたので、私も安心したけど。

 でも、気が気じゃないのは彼女の方だった。

 

 精算は階段を上がって一階のカウンター。例のイガグリ頭のエプロン店員がレジ係だった。彼は純と私のことを繰り返し交互に見続けては、なんだか難しそうに眉間にしわを寄せたりしていた。

「あの、私も払うけど。邪魔しちゃったし」

 そう言って財布を開くと、純はぶっきらぼうに

「五百円でいい」

 とだけ言って右手を出して寄越した。

 私はその右手にワンコイン渡して、彼女はそれでスタジオ代を精算した。個人練習扱いで、しめて千円弱だった。

 私たちはそれから言葉を交わさず、楽器店を出た。イガグリ頭の店員は、私たちが店の軒先に出てからもこっちを見ているような気がした。

 その間も彼女の――雨宮純の表情は晴れやかではなく、その名の通り六月のくぐもった雨の日みたいだった。唇をつんと尖らせて、黒い大きな瞳は遠い空を見透かそうとして、でも何も見えていないみたいだった。

 私は――うん、なぜだろう。たぶん彼女にすこし同情したのかもしれない。破門だの、何だのとひどい扱いをされた彼女に。それには彼女にも原因はあるだろうし、そりゃあ人間なんて誰しも完璧なわけじゃないし。私だって他人を傷つけたことは腐るほどあるし。逆に傷つけられたことなんてちゃんと回数まで覚えていて、それをどうしたら乗り越えられるかなんていっつも考えているわけだけど。

 ――たぶん雨宮純という彼女に、彼女の歌に少しだけ自分を重ねていたのだ。

「もし良かったら、また歌わせて」

 それは、半ば告白みたいな言葉だったと思う。

 初めてのデートの帰り。まだ付き合ってもなくて、友達の延長線上だった男子と、ふたりきりで映画を見に行った帰り。お互いに楽しかったのに、なんだかそれをきちんと言葉にして言うのが気恥ずかしくって。本当なら手をつないだり、一緒にご飯を食べたり、もっと遅くまで二人でいたいのに。それを表現するのが惜しくて、恥ずかしくて。せめて精一杯の思いを言葉にしたときの、「もし良かったら、また一緒に映画を見に行こう」と同じ。そんな言葉。

 私にとっては、兄さんに初めて連れて行ってもらった『ブリングリング』のときと同じぐらいの緊張感があったけど。もちろん彼女がそんなこと知るはずもない。

 純はしばらくのあいだ黙ってた。でも、それは無視してるというよりは、私の言葉を咀嚼して、理解するのに時間がかかっている感じ。やがて彼女の脳内コンピュータが処理を完了すると、黒目がかっと見開かれた。

「それ、ほんと?」

「いいよ。私、サークル入るのやめたし。バイトもそろそろ辞める予定だし。何か別のことやらなきゃと思っててさ。それで、もし良かったら二人でやらない?」

 花束を差し出す。それは告白であり、脅迫。少なくとも私にとってはそう。じゃあ彼女にとっては何だろう? 告白であり、罪への誘いかもしれない。

 すると純はギプソフィラのうちの一本をつまみあげ、それを夜空に晒した。

「サリーの連絡先教えて。LINE交換しよう。それから、腹は減ってる?」

「減ってるけど……」

「食べたいものは? 神保町と御茶ノ水はわたしの庭だから、案内するよ」

「うーん。じゃあ、肉。肉が食いたい。牛肉。お酒とかマジ要らないから、肉」

「任せて。いいとこ知ってるから」

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