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 楽器屋に向かう前に、私はいったん下宿先のアパートに戻った。あの花束が必要かなと、そう思ったのだ。萎れかけの花束は瓶にささったものの、萎れかけのままだった。水も減っている様子もなく、太陽の光も何の意味をなしていない。

 私はその花を再び水の中から引き上げると、あらためて包装紙を巻き付けた。

 そして花束と鞄を手に、再び御茶ノ水の街に向かった。


 御茶ノ水の裏路地にあるミシマ楽器店。それが江守塔子の教えてくれた場所だった。

 大学から神保町へ抜けていく大通りには、だいたいクロサワ楽器やイシバシ楽器、下倉楽器がたくさん並んでいる。

 普段からこの通りを歩くことは多いから、楽器屋が並んでいることぐらいはわかっていた。道を行けばギターケースを背負った学生に十人に一人くらいのペースで遭遇する。でも、どの店も一度として入ったことが無かった。

 楽器屋に入ったことなんで、それこそ高校生のとき以来かもしれない。もっと言えば、小学生のころ以来かもしれない。まだ母の言いつけでピアノを学んでいたころだ。地元のヤマハ音楽教室に三、四年くらい通ってた。でも、もう記憶の遙か彼方にほんの少しだけ残っている程度だ。先生がコロッとした丸いおばちゃんで、いつもミシミシ言わせながら椅子に座ってた。でも身体とは正反対に指はびっくりするくらい細く長くて、ひとたび鍵盤を叩くと人が変わったみたいだった。ゴシップ好きの近所のおばちゃんが、一転してどこかの国の貴婦人みたいに見えた。

 なんかそういうどうでもいいことばかり覚えている。そのとき練習した曲が何で、どうやって弾くのかなんて、もう一ミリも覚えていないのに。


 道中、私はスマホで塔子さんが言っていた『モリッシー』と『スミス』について検索した。出てきたのはイギリスのバンドだった。それもずいぶん古い。一九八〇年代とある。私たちが生まれるよりずっと前の音楽だ。でも、不思議とどこかで聞いたことがある気がした。

 Youtubeで動画を見てみると、私はなんとなく塔子さんが言っていた意味がわかった気がした。そのザ・スミスというバンドのボーカルがモリッシーと言うのだけれど、彼がステージ上でマイクと一緒に花束を振り回していたのだ。そこには白くて可憐な花がいっぱいで、とてもじゃないが男臭いロックのイメージはどこにも無かった。むしろ華奢で繊細で、手荒く触れようものならすぐにでも壊れてしまいそうな、そんな曲だった。


 ――私が花束振り回してたのがこのバンドに見えて、それで一目惚れしてボーカルに誘おうと思ったとか?


 ふと思いついて、でもまさかと思った。

 それに彼女がこのバンドを好きだって言うなら、私より彼女のほうが花束が似合うじゃないか。私が彼女に押しつけた花束だけど、やっぱり彼女が持っているべきだって思った。

 押しつけがましい私の意見だけど。 


 お目当てのミシマ楽器店は、表の大通りから裏道に入り、五分少々歩いたところにあった。御茶ノ水から徐々に神保町へと変貌していく分岐点の中で、もう少し歩くと古本屋が見えてくる。向かいの雑居ビルには怪しげなレンタルビデオ屋と、二十四時間営業の個室ビデオ店があった。きっと神田で終電を逃したサラリーマンがこの辺に迷いこんでくるんだろう。

「あの、ごめんください」

 ドアを開けて店内へ入る。

 店内がギターロックが流れていた。何の曲かはわからない。きっと私みたいなミーハーはお断りの店なんだろう。日本語の曲なんだけど、まったく聞いた覚えが無かった。叫ぶような男のボーカルと、張り裂けるようなギターの爆音、それからか細い女性のコーラスが聞こえてくる。スピーカーの向こうでは「デストロイヤー」と歌っていた。たぶんそういうタイトルの曲なんだと思う。

 壁には無数のギターが掲げられていて、壁のようだった。おかげで店内がどうなってるのかよくわからなくて、何度も行き止まりにぶち当たった。

「なにかお探しっすか?」

 と、不意に背中側から声をかけられた。

 びっくりして振り返ると、そこにはエプロン姿の男性が一人立っていた。店員みたいで、両手に大きなダンボール箱を持っていた。イガグリみたいにツンツンした髪に、シャツからほのかに煙草の匂いがした。

「あの、人を探してて。地下のスタジオにいるって聞いたんですけど。行き方がわからなくって」

「スタジオなら入り口右手の階段を降りて、左側っすけど……」

 と、彼はそこまで言いかけたところで、何か思い出したような顔をした。そしてどうやら”それ”を思い出した途端、急に顔をしかめたのだ。

「おいおいおい、って待てよ、オイ。いまスタジオに入ってるのって……まさか雨宮ァ……?」

「知ってるんですか、彼女のこと?」

「知ってるつーか、この店の常連つーか……。あ、ていうか、あんたこそ雨宮の知り合い?」

「知り合いというか、なんて言うか。私、これを返しに来たんですけど」

 そう言って、私は背中に隠していたブーケを取り出した。ギプソフィラは、すっかり東京の生ぬるく湿気った空気にほだされて、ぐったり頭を垂れていた。

「花束? なんでそんなもの」

「いろいろありまして」

「ふぅーん。まあ、雨宮ならBスタだよ」

 店員は興味なさげな返事をした。それから手に持っていたダンボールを運びにバックヤードに向かった。

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