3-4

 翌朝。

 いつものように起きた私は、シャワーを浴びて、アイロンがけしたシャツワンピに着換えた。昨日と違ってよかったのは、二日酔いの頭が全快したことだ。とはいえ、冷蔵庫にはまだ二リットル入りのポカリスウェットが残っていた。おかげで今朝の朝食はポケリスウェット一杯半だ。グラスになみなみ入ったポカリは、いま私の腹のなかでチャプチャプ言っていた。


 ところで私は中央線に乗り込み、二限からの図書館学概論に急いていた。司書になりたいかと言うとそうでもないけれど、まあ資格を持っていて損は無いかなと思い履修しているだけの講義だ。でも、逆に言えばこれを落としたら、資格取得のためにとっているほかの講義もパーってことになる。それはもうムダな行為に他ならないわけで。おかげで私はちゃんと朝から講義室に向かっていた。

 中央線に揺られつつ、課題になる参考書を斜め読みする。そのあいだ私はイヤフォンで音楽を聴いていた。サブスクのシャッフル再生で、最近聴いた曲をベースに作られたミックスリストだった。直近に聴いたのが例の結婚式で聴いた『サリー・シナモン』だったから、それっぽい曲がロックバラード曲がたくさん流れていた。

 でも、その脳裏で思い浮かんでいたのは、あの雨宮純が寄越した歌詞の曲だった。はたして私が昨日弾いたメロディが正しいかどうかはサッパリだけど。彼女が書いた(と思う。間違ってたら恥ずかしい)曲が、どうにも私の中で引っかかっているのだ。


 ――しがみつく何かと、しがみつきたい何かを貶したり、脅したり、ゆすいだり……。


 ゆすいだりって、どういうことなんだろうと思った。

 しがみつく何かが、愛する対象だったり、生きていく理由みたいなモノだとしたら。それを貶したり脅したりするのはどうして? そしてそれをゆすぐのはどうして?

 私の頭の中にいろんな人が思い浮かんだ。中学の時に私に花束を突き立てた彼、涙することを強制した高校のクラスメート、そして私に幸せを押しつけて去ってしまった樹兄さん……。

 私には、雨宮さんが書いた言葉が、まるで自分の心の隙間にあった何かを静かに書き表してくれたようにも思えた。いや、それは決して救済でも何でもないし。たぶん彼女はそんなこと思っても無いだろうし。それに誰かの書いた言葉が、まったく別の他人の体験とリンクすることなんて、よくあることだ。よく映画や小説でだってあるじゃないか。「共感度100%の」なんて触れ込みのラブストーリーやヒューマンドラマ。あんなのは、普遍的なよくある話を薄く伸ばしているだけだ。だから誰の体験にもつながるんだ。

 って、雨宮さんの歌がそんな薄っぺらいってわけじゃないけど。だけど、だけども言葉が頭から離れなかった。ずっと私の塗膜を、極薄のスクレーバーで引き剥がされるような気持ちだった。

〈えー、まもなく御茶ノ水、御茶ノ水です。〉

 車掌がアナウンスするのを聞いて、私はイヤフォンをスマホから抜いた。開いていたプレーヤーをオフにする。

 ブレーキが高い音を鳴らして、駅に停車した。


     *


 図書館学概論の教授の話は、そりゃあもう眠くなる。講師が六十過ぎのおじいちゃんだからだ。あのしわしわした声音で教科書を朗読され続けたら、みんな眠くなってしまう。そうに決まってる。

 でも、私はそのおじいちゃんの話、嫌いじゃなかった。べつにものすごい面白いってわけじゃないけど、聞いてしまうんだよね。特に彼が思い出話をするときが好きだった。だいたい彼がする昔話というと、大昔に海外旅行に行って、こんな国の図書館に行きましたっていう話が大半なんだけど。それが私は好きだ。

 今日はモンゴルの図書館の話だった。

「えーっと、そういえばわたしは昔モンゴルに出張に行ったことがありましてね。調査でいったんですけども」

 これがいつもお決まりの枕詞。モンゴルの部分をモスクワにしてしまえば、ロシア紀行が聞けるだろう。

 でも、あいにく今日の話はそんな面白くなかった。モンゴルでご飯を食べたら食あたりして、ウランバートルにある図書館でしばらくトイレに引きこもるハメになったという話だった。

 嫌いじゃ無いけど、でも昼前の二限の時間にシモの話はするなよと思った。まあ、最後に「汚い話で申し訳ないんですけど」と予防線を張っていたけれど。でも彼の話をまともに聞いていたのは私くらいだろう。隣にいた美樹は、開始五分で参考書を枕にして眠っていたし。


     *


「そう言えば結局昨日のあれは誰だったの?」

 昼休み、学食でカレーを食べることにした私たち。美樹は夕方の三限の講義の合間で忙しそうに食べ終えていた。

「あの渡り廊下で花束を渡してきた、ギター背負ってた女。サリーの知り合い?」

「いや……」

 知り合いっていうか、なんて説明したら良いかわからなくて。とにかく私はもう一度結婚式の日の夜のことを説明した。私が酔っ払って、雨宮さんに花束をなすりつけた夜のことだ。

「じゃあ、たまたま渡した相手がウチの大学の生徒で、しかも同じ学部の同級生で。わざわざ花束を返しに来たってこと?」

「まあ、そういうことになるね」

「律儀なんだか、なんだかわかんないけど。変な子ね」

「たしかにそうかも」

 変って言うか、まあ変か。

 私はカレー皿についたルゥの残りをスプーンでこそげ落とす。

「まあよくわかんないけど。あんまり関わらないほうがいいかもね、その子。サリー今日はバイト?」

「いや、非番だけど」

「じゃあ講義終わったあと飲みに行かない? 経営の友達に誘われててさ。なんか慶応の男子が来るらしいよ。行かない?」

「考えとく」

「おっけ。また連絡する。新宿になりそうだから、よろしくね」

 美樹はそう言うと、トレイに載ったカレーとバッグを手に、食堂を出て行った。

 私は一人、しばらくカレー皿をスプーンでなぞりながら、どうしようかと考えていた。気になっていたのは一つだけ。美樹に関わるなと言われた彼女、雨宮純のことだった。

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