Gt / June Amamiya
2-1
「黙ってそこに突っ立ってても、てめえにとってもモリッシーはどこにも現れやしねえよ」
彼はそう言った。
カウンター越し、エリクサーのコーティング弦を眺めるわたしを横目に。彼はドラムスティックをクルクルと回して暇そうにしていた。
ここは御茶ノ水の古びた楽器屋。地下のスタジオで誰かがバスドラを叩くたび、店が小さく震える。わたしはラックにかけられたライトゲージの弦を手に取って、それから隣にある掲示板に目をやった。デジタル全盛の二十一世紀だというのに、いまどきコルクボードに貼り出されているのは夥しい数の『メンバー募集』の文字。わたしはその中から自分の琴線に触れるような言葉を探した。いや、探そうとした。目玉を右へ左へギョロギョロ動かし、書き殴られた文章を斜め読みした。だが、それも三〇秒と経たずにやめてしまった。諦めたのだ。ここにわたしが求めるものはないと、そう直感したのだ。
掲示板の向こうでは、爽やかなリバーブが効いたギターの音がした。わたしは耳を閉じた。
「じゃあシンヤさんが紹介してくださいよ、誰かいい人」
「紹介したところで、おまえはまた一人でやりたがるんだろ」
「まあ、そうですけど」
吐き捨てるようにつぶやいて、結局わたしはエリクサーのライトゲージだけ手にレジスターの前に向かった。
彼――森真哉は、心底つまらなそうに弦を受け取り、バーコードを読み取った。液晶画面に金額が映ると、彼はその2500という文字を指で指し示した。客を思いやるような接客精神など彼にはなかった。特にわたしには。
「おまえのデモテープ聴いたけどさ、良い曲だよ」
「ありがとうございます。それはよかった」
財布から千円札を三枚抜き取って、彼に渡す。おつりはきっちりワンコインだ。くすんだ五百円玉がレジから吐き出されてきた。
「でも、おまえにはバンドサウンドがいるよ。だっておまえのルーツは、80‘sや90’sのUKなんだろ? なのにあの打ち込みようじゃ、薄っぺらく聞こえるって言うか。なんて言うか、生っぽさが足りない。精神に肉薄するような、リアリティが」
「でも、わたしバンドなんて組めませんよ。わたし、一人でやるほうが性にあってますから。最高のボーカルでも現れたら別ですけど」
「だろうな」
彼はレシートをちぎって渡し、重いため息をついた。
「それよりシンヤさんこそ、もうプロのドラマーになる夢は諦めたんですか?」
「元からなるつもりはなかった。っつーか、なれないってわかったし。今の俺には、楽器屋のアルバイトが性にあってんの」
「楽器屋のバイトしながら、知らない女子大生のデモテープにケチをつけるのが?」
「そうだよ。クソが。休憩入るからテメエもとっとと帰れ」
「言われなくたって帰りますよ。このあと講義だし」
言って、わたしは背中に背負ったギターケースにエリクサーの弦をしまい込むと、店を後にした。
でも最後に一瞬だけ、もう一回だけ掲示板をよく見つめて帰ろうと思った。もう一度だけコルクボードを見つめ直そうと思った。けれど何度見たって結論は同じだった。
わかってる。
わたしにはバンドが必要だ。
わたしの音楽を表現するための仲間が必要だ。
でも、わたしは自分の表現が他人に浸食されることほど怖いものはないと思っていた。
*
夕方の講義は、英文学と西洋近代史の二つだった。その日、わたしはTSエリオットを読んでから、アンジェイ・ワイダの『カティンの森』を見ることとなった。
ポーランド人虐殺の一部始終を見た頃には、すでにすっかり陽は落ちていた。地下の大講義室を出ると、地上階には街灯の光がポツポツと現れていた。そろそろ夏が近づいているからか、羽虫たちが光に吸い寄せられている。
わたしはギターケースとブリーフケースを持って、大学をあとにする。去年までなら帰り際にサークルの部室に寄っていたところだが、今週は違う。一年前、わたしはあの軽音サークルに別れを告げた。といっても、そんな格好いい別れ方ではなかったけれど。
わたしには、関係を持ってしまった先輩がいた。しまった、と形容するのは、泥酔したわたしが意思に反してそうなったからだ。彼の音楽の趣味は認めるが、しかし彼のやっていた音楽については微塵も興味が湧かなかった。
あの日、わたしは彼と新宿のラブホテルに入って、為されるがままにされた。
そしてそのあと、わたしは早朝に二日酔いのまま目を覚まし、途端に冷静になった。隣には大きないびきを立てて眠る先輩の姿。わたしはその姿を見ると急にイヤな気持ちになって、こんなサークルになんて居られないと思った。だからメモ帳から紙を一切れ千切ると、そこにありったけの別れの言葉と呪いの言葉を書き散らしてから、彼の煙草を拝借して帰った。彼のぶんの勘定も済ませてやったから、きっと清掃のアルバイトは驚いたことだろう。
帰り道、東口の喫煙所で吸ったマルボロメンソールの味は最悪だった。
そういうわけで、わたしにはもう立ち寄るサークルはない。まあ、元々サークルに馴染めていなかったこともあるし。わたしは一人でしか音楽をすることができない性分だった。高校の時、一回だけ誰かと一緒に共作したことがあったけれど、怖くて途中でやめてしまった。なんだろう、わたしは自分の創作の領域に誰かが土足で踏み込んでくる感じが許せないのだ。
無論、わたしに口出しする者のすべてが悪者で、排除すべき敵という訳でもない。行きつけの楽器屋の店員であるシンヤさんとかは、センスがいいから意見を聞くことにしている。彼は歯に衣着せずにモノを言うタチなので、わたしは好きだった。言うなればギャラガー兄弟みたいな男なのだ。みんながわかっているけど、言えないような汚い言葉や真実をさらっと言ってしまう。そんな人だった。
「……どっかで弁当でも買って帰るか」
スマホのバックライトをオンにして、時間を確認する。と、そのときだった。
LINEの通知が来て、左手が震えた。ポップアップでメッセージが表示される。緑色のアイコンの隣にポコンと一言。
塔子:新着一件〈吐いた〉
それから間髪を入れずにもう一言。
塔子:新着一件〈いま新宿のレッド・クラウン 助けにきて〉
わたしは深いため息をついてから、スマホをポケットに戻した。
いつもならマイバスケットにでも寄って歩いて帰るところだが、今夜ばかりは路線変更。中央線は御茶ノ水駅に足を向けると、わたしはイヤホンを耳に差した。
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