1-5

 翌朝、私はひどい二日酔いと共に目を覚ました。頭の中でハンマーを握った大男が、ドカンバキンを大暴れしてるような気分だった。冷蔵庫にあった1.5リットル入りのスポーツドリンクを半分くらい飲み干したら、まあ割とマシになった。それから熱いシャワーを浴びて髪を乾かしたら、とりあえず大学に行けるくらいの頭にはなった。

 不幸中の幸いは、今日二限からってことだろう。これで一限からなら、もうとっくに遅刻していた。一限の講義を履修しなかった私に拍手喝采だ。

 とどめにサプリメント――なんのサプリかは忘れた。たぶんビタミンか何かだ――をスポドリで流し込むと、支度は整った。

 プラケースの鞄にノートパソコンと参考書を二冊放り込んだら、私はロンTとジーパンにだけ着替えて外に出た。洗濯するの、すっかり忘れてたから。二日酔いの朝にオシャレに気を配れなんて言う方が酷だ。ちゃんとメイクをしただけでも褒めてほしいものだ。

 中央線に飛び乗って御茶ノ水で降りてから、だいたい一〇分くらい歩いたら大学だった。今日は酷く暑くて、二日酔いの頭には堪えた。あまりの暑さに道中コンビニで水のペットボトルを買うぐらいだった。

 やっとの思いで講義室の前に着いたころには、たぶんヘロヘロだったと思う。身体の中でアルコールが駆け巡って、腎機能が頑張って排出させようとしているのがよくわかった。こりゃ講義中にトイレ退出は逃れられないな、とぼんやり思った。


「おはよ、サリー。顔色悪いけど大丈夫?」 

 若干野太い焼けた女の声がした。

 私が顔だけそっちに向けると、友人の美樹が居た。彼女は私と違って、もうバッチリ化粧にパーマを決めた栗毛色の髪だった。服もヨレヨレのロンTじゃなくて、なんていうかヘソが見えるか見えないかの危うい丈のカットソーに、薄いカーディガンみたいなのを羽織っていた。東京生まれ東京育ちってこういう洒落っ気に見えてくるよね。

「だいじょばない」

 私はそれだけ言うと、倒れ込んでいたベンチに美樹が座れるだけのスペースを作った。

 すぐに美樹は座り込むと、スマホ片手に話を続けた。手元では私とは違うまた別の誰かと会話テキストチャットをしているみたいだった。

「なに、二日酔い? なんのサークルに首突っ込んだの? サリーってばサークルには入らないんじゃなかったの?」

「結婚式よ。地元の。幼馴染みが結婚してさ。呼ばれて行ってきた」

「へぇ。幼馴染みって女? 男?」

「男。私の初恋の人」

 ええー!、と美樹は食い気味に驚いた。彼女はこういうところがやけに芝居がかっている。

「しかもブーケトス私が受け取っちゃった」

「やるじゃん」

「やるじゃんじゃないよ。だって、初恋のずっと好きだった人の、その奥さんからもらったブーケだよ。屈辱以外の何者でもないじゃん」

「まあたしかに。それでヤケ酒したってこと?」

「二次会で飲み過ぎた」

「ふーん。それで、そのブーケは」

「わかんない」

「わかんないってどういうことよ。まさか酔っ払い過ぎでどっかに置いてきたとか?」

「いや、置いてきたっていうか……」

 見知らぬ誰かに押しつけてきたのだ。

 私はそれまでのコトの顛末を話してやった。美樹は最初こそウンウンと理解者面して聞いてくれたけど、だんだんほころんできて、ゲラゲラと下品に笑い出した。

「じゃあなに? ガン飛ばしてきた知らない女に渡して、そのまま新宿駅を放浪して帰ってきたってわけ?」

「そうだけど。わるい?」

「悪かないけどさ。でも、もったいなくない?」

「もったいないって、花が? そうかなぁ。私、たぶんあのまま手元にあったら、燃やしてた思うもん」

「怒りのあまり?」

 うん、とうなずくと、美樹はさらに大笑いした。

「サリーってホントおかしい。燃やすってヤバすぎ。どんだけその初恋の人に逆恨みしてんの」

「逆恨みって言うか、なんていうか」

 自分の不甲斐なさと、しょうもない淡い青臭い子供っぽい恋愛に辟易として、そんな中で突き立てられたブーケに怒りを覚えた。あれを受け取った私がどんな顔をすればいいかわからなかった。初恋の大好きな人に、「ありがとう、あなたとの恋は叶わないけど、なんとか頑張るわ」ってそう言うの? まあ、多くはそうなるんだろうけど。私にはそこまでの気持ちの整理はつかない。だから、燃やしそうになるし、誰かに押しつけて消えてしまいたくなるのだ。

「ていうかそろそろ藤本の講義始まるから入ろうよ。話はあとで学食で聞くわ」

「うん、そうしようか」

 もう少し気持ちの整理をつけないと、と私は酔いに任せた自分を少しだけ呪った。


     *


 藤本教授の教育学概論Bは、九〇分間をフルに使って終わった。最後の最後まで冗長で途切れ途切れの話を続けて、パワーポイントが使えないから汚い板書をたまに残して。大半の学生は参考書を目で追うので手一杯になったまま、終わった。私もその一人だった。

「学食空いてるかな」

 講義室を出るや、私はすぐにラインのトーク画面を開いた。樹兄さんから何かメッセージ来てないかな、と思った。一通だけ来ていた。「昨日は来てくれてありがとう」って。私はなんて返信すればいいかわからなくて、既読も点けずに画面を切った。

「ユカが先に行って席取ってるってさ」

「そう。美樹は今日何食べる?」

「どうしよ。あたしそんなおなか空いてないのよね」

「じゃあコンビニで済ませてもいいけど。私もそんなに食べたい気分じゃないし――」

 階段を上って、大講義室のある地下から二階へ。吹き抜けの廊下を抜けてから、学食がある南棟へ続く渡り廊下に向かった。意外とこの渡り廊下を使う人は少ないから、マンモス大学でも人気が無くて好きだった。

 ただ、今日は違った。

 一人、廊下のド真ん中に立っていた。

 ドーム状の窓ガラスから光を浴びる、黒いジャケパン姿の女が一人。長く青黒い髪と、その顔つき。背負ったギターケースと、そして右手に持った純白の花束。

 酔っ払っていても、あのときの記憶だけは鮮明によみがえった。

「なっ……!」

 思わず身じろぎする私。

 でも女は容赦なかった。

 右手に持ったブーケを、彼女はナイフか何かの如くに私に突き立てた。真っ白い花は若干しおれ始めて、もう生気を失い始めていた。

「これ、あなたのでしょ。佐藤紗理奈さん?」

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