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 話はおよそ五時間前に遡る。

 土曜の朝、私は久しく七時前に起きると、めったに使わないハンドバッグ――むかし母からプレゼントでもらったバーバリーのチェック柄――に荷物と化粧道具を積み込み、今年一番に身だしなみを整えてから新幹線に飛び乗った。このために昨日は教育学の講義を休んで、パーマをあてにいったぐらいだ。

 中央線から東京駅で新幹線に乗り継ぎ、北陸新幹線に飛び乗っても、私の胸騒ぎは鳴り止まなかった。あれだけ念入りにした化粧も、服も、髪型も、どれもが不安に思えてくる。おかげで何度もトイレに駆け込んで、化粧直しをしたぐらいだ。それぐらい焦っていた。

 そこまでしていた理由は一つ。

 ずっと好きだった人が結婚する。

 そして私は、これからその人の結婚式に行く。

 花嫁でも、何でも無いただの友人として。

 あの人にとっては何の些細もない、ただの友人として。


 一時間半かけて降り立った長野駅は、ずいぶんとひんやりしていた。もう六月だって言うのに。東京都心の暑苦しさとは大違いで、一枚くらい上着を羽織っても良いくらいだった。

 駅正面の停車場で母が待っていた。私がバッグを片手に会談を降りてくると、母がめいっぱいに手を振ってくれていた。

「せっかくなら昨日から来ればよかったのに」

 私が古ぼけた日産ノートに乗り込むと、開口一番に母は言った。

「授業があったの」

「真面目ね、紗理奈は」

 ――真面目じゃない。

 本当のところは怖かったのだ。あの人が、私の知らない誰かと一緒になるのが怖かったのだ。

「でもビックリよね。いつきくんがもう結婚だなんて。そりゃあ私も歳をとるわけよ」

 式場に向かう道すがら、母はラジオから流れる曲を右から左へと受け流しつつ、ケラケラと思い出話に花を咲かせていた。

 私があの人――樹兄さんと会ったのは、もう十年以上も前の話だ。当時の私は小学生で、兄さんは中学生だった。言ってしまえばあの人は、隣の家に住む近所のお兄さんだった。彼は片親でいつもひとりぼっちで留守番している私を見かねては、よく遊びに来てくれた。初めて声をかけてくれたのも、ちょうどアパートの隣にある公園だった。私が一人砂の城を作っているときだったと思う。いま考えるとあれは城っていうよりもピラミッドだと思うけど、まあ、そんな一人きりだった私に手を差し伸べてくれたのが樹兄さんだった。

「何作ってんの?」

「お城」

 初めて交わした言葉はそれだった。当時の私は、あまり喋る方ではなかったから。それだけ答えたら、また黙り込んで、黙々と砂をかき始めた。するとその隣に座り込んで、兄さんが言ったのだ。

「お城か。じゃあ、周りに堀を作ろう。それから橋を作るんだ。城に続く大きな橋をさ」

 スコップ片手にそう提案してくれた彼に、私は正直ときめいたんだと思う。小学生ながらに乙女な部分が疼いたわけ。この人は私に構ってくれるいい人だ、って。

 それから日が暮れるまで二人で城を作った。それはそれは傑作だった。

 次の日も私は砂場にいた。樹兄さんはまた来てくれて、私に付き合ってくれた。

 あとで知ったんだけど。あの人は隣に住んでいる私がずっとひとりぼっちで遊んでいるのを見かねて、声をかけてくれたんだという。それに気付いたとき――たしか中学二年生だったかな。兄さんはもう高校を卒業して大学生になろうとしていた――私は彼の優しさに惹かれてしまった。ただでさえ惚れていたのにね。

 ひとりぼっちの私にずっと手を差し伸べてくれた人。それがあの人。

 あの人は持ち前の面倒見の良さと頭の良さを生かして、大学は地元国立の教育学部に行った。そこで小学校の先生の資格を取ると、そのままストレートで地元の先生になった。ほんとに頭がよかったんだよ、兄さんって。

 そうしてあの人は一度も地元を出ずに、地元の子供たちに手を差し伸べるようになった。私と同じように。

 兄さんの人の良さは、そりゃあ社会人になっても変わらなかった。

 私が高校生になって、大学を目指すようになったとき、真っ先に応援してくれたのもあの人だった。

「もし俺が大学院にいて、サリーが同じ大学に来たら、二人で通えたのにな」

 なんて言ってくれたっけ。勉強も教えてくれた。仕事で忙しいし、高校生の勉強は専門じゃないっていうのに、問題集まで作ってきてくれた。

 でもお生憎さま、私は第一志望の地元の大学は落ちて、けっきょく滑り止めに受けた東京の私立に行くことになった。だけど、それでもあの人は私のことを責めたり、貶したり、浪人をすすめたりすることもなかった。

「サリーが行きたいなら東京に行けばいいさ。ま、サリーが東京に行ったら、すっかり垢抜けてモテちゃうな。俺の大事な妹だったのに」

 なんて言って、新幹線のホームまで送ってくれたっけ。

 そんな大好きな人。

 初恋の人。

 ずっとご近所さんで、ずっと憧れの人で、ずっと追いかけていた人、

 そんな彼が、

 どこの誰とも知らない女と結婚する。

 私は、いまからその結婚式に殴り込むのだ。


「じゃあ、あんまりハメはずすんじゃないよ、まだ法的には飲んじゃいけないんだから」

「わかってるってば」

 じゃあねバイバイって、母に手を振って、私は戦場に踏み入れた。そのときの心意気といえば、天下分け目の合戦に参じた武士のようで。かといって脳裏では、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』が鳴り響いていた。


 しかしいざ式場に踏み入れてしまえば、私の中のワーグナーと、それに従えられた騎兵隊カルヴァリーたちはすっかりなりを潜めてしまった。

 席は、ご近所のおばさまたちの隣で、私はすっかりお祝いムードの中に飲まれていた。髪の毛の青い塚田のおばさんのマシンガントークがさっきから止まらない。ずっと私のことばっかり聞いてきた。彼氏はどうとか、東京はどうとか、そんな話の相手してたら、もうすっかり戦意なんてそがれてどこかに行ってしまった。

 ただ私の視界に見えていたのは、三〇メートル先にいる兄さんとそのお嫁さんの小さな姿だけ。話半分に聞いていてわかったのは、二人は大学時代の先輩後輩で、「卒業して落ちついたら一緒になろう」って、ずっと前から話し合っていたっていうこと。私、そんなの知らなかった。聞いたこともなかった。じゃあ、私が高校生で、あなたが大学生で、数学を教えてもらっていたあの瞬間も、あの女と愛を囁きあっていたってわけ? それに気付かなかった私、どんだけ鈍感なわけ?

 時間が経てば経つほど、私は自分自身の不甲斐なさにイラついてきた。もっとはやく気がつけば、今日という日までに心の整理がついたはずなのに。

 一通りの挙式は滞りなく進んでいった。指輪の交換をして、キスをして、誰かが涙を流して……。結婚式に出たのは初めてだったけど、印象に残ったことは何もなかった。テレビで見るのと一緒だ。ただそれが私と関わりのある人かどうかっていう、それだけだった。

 それに隣にいた塚田のおばさんがうるさくて、私は何が何だか話の内容がぜんぜん入ってこなかったし。

 そして何より一番最悪だったのが、挙式が終わったあとだ。

「ほら、紗理奈ちゃん。ブーケトスよ。前に行ってきなさい」

「ええ? なんで?」

 おばさんが力強く押しこくる。恰幅のいい彼女は、年の割にやけに押しが強い。

「なんでって、そりゃあ紗理奈ちゃんみたいな若い娘が行かないでどうするのよ。あたしみたいなおばちゃんがいってもつまんないんだから。ほら、行った行った。幸せをつかんで来るのよ! ほら!」

 バチコーン! と、おばさんが私のお尻をひっぱたいたもんだから、思わずバランスを崩して転びそうになった。慣れないヒールの靴だからなおさら。おっとと……と崩れ落ちそうになりながら、なんとか姿勢を正そうとした。すると、声が聞こえた。

「いくよ、そーれ!」

 花嫁の声。

 宙を舞う純白の花束。

 教会の白い天井に絵筆を広げるようにして、それは放物線を描いて、

「あっ」

 思わず私が声を漏らしたとき、ブーケは頭にコツンとぶつかり、気付いたときには私の腕の中で眠っていた。

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