第9話 生きるためのリハビリ
恭介は瞬時に後方に向かう。
あれっ?
足元が軽い。
「地上とここでは、重力が違うのだ。ついでに空気の濃さも」
そういえば、リンが言っていた。
地底空間は、人間が普通に呼吸できる場所であったが、その酸素濃度は薄く、重力の負荷は地上より重いということを。
ともかくも、悲鳴のあがった場所に恭介が駆けつけると、路上に座り込んだ女性と、女性を取り囲む男が二人。
「どうしました?」
恭介が軽く声をかけると、二人の男はぎょっとして振り向いた。
「#$%&☆!!!」
一人の男が怒鳴ったが、意味は分からなかった。
ただ、友好的でない表現であることは、恭介も理解した。
怒鳴った男が、恭介に向かって殴りかかってくる。
半袖のアロハシャツから伸びた腕には、何かの入れ墨が見て取れた。
男の繰り出すパンチが、スローモーションのように恭介には感じられた。
顔面を横にずらして男の拳をよけ、同時に恭介は男の鳩尾に正拳を入れた。
あくまで軽く突いたつもりであった。
だが、男は数メートル吹っ飛び、蹲った。
もう一人の男が、怒鳴りながら走ってくる。
手には何かの武器持っており、恭介の体躯へ突き立てようとする。
刃の太いナイフだな、と恭介は冷静に観察しながら、左足で男の顎を蹴り上げた。
蹴られた男は仰向けのまま倒れ、持っていたナイフは地面に刺さった。
恭介は女性のもとに歩み寄った。
「大丈夫ですか!」
女性は小さく頷きながら、乱れた衣服を整えた。
浅黒い肌に、のびやかな四肢。
「お宅まで送りましょうか。…それとも交番へ行きますか?」
女性は顔を横に振る。
「ここには交番ありません」
普通に日本語だったので、恭介も少し安心した。
良かった、やはり、ここは日本だった。
「というか、ここに住んでいるのは、私と祖父だけだから」
そう言ってから、女性ははっとした表情になる。
そして、しげしげと恭介の姿をみつめ、尋ねてきた。
「あなた、誰? 泳いできたの? この島に、何しに来たの?」
大きな瞳が訝しんでいた。
恭介も質問したかった。
ここは、どこ?
結局、恭介は女性を自宅まで送ることになった。
「ここは、大隅諸島の一つ。セッコク島と呼ばれている島」
道すがら女性は言った。女性は
大隅諸島ならば、鹿児島のあたりか。
畑野瑠香から名を聞かれ、恭介はちょっと口ごもり
「岩崎……です」と答えた。
本名はあまり言いたくなかった。岩崎は母の旧姓だ。
「岩崎君、何歳? 私より、だいぶ若いよね」
瑠香は大学生らしかった。
何歳かと問われ、恭介は返答に困る。
地底で過ごしたのは、感覚的には数か月だったのだ。
そ れでも、いつの間にか、恭介は変声期を迎え、今の身長は瑠香より多分、二十センチくらい高い。
「ええと、今って西暦何年ですか?」
ちらっと、恭介を見上げながら、瑠香は答えた。
地上では、恭介が水中に没してから、三年が過ぎていた。
「俺は、十四、あ、十五歳です」
「わっかいなあ。その年で、あんなに喧嘩慣れしてるなんて」
瑠香はため息をつく。
喧嘩と言われても、恭介にはピンとこなかった。
だいたい、人間を殴ったのも初めてだったし。
道の向こうから、ぼんやりとした灯りと、それを携えた人影が来る。
「あ、おじいちゃーん!」
瑠香が人影に手を振った。
瑠香がおじいちゃんと呼んだ男性は、恭介の父とさほど変わらない年齢に見えた。
二人に案内され、瑠香と祖父が住むという家に着いた。簡素な造りの家だった。
「泊まっていきなさい」
畑野の祖父は、有無を言わさず指示を出す。
断ることは難しい。
何より、夜の孤島で野宿するよりも有難かったので、恭介は素直に従った。
通された居間には、食事が用意されていた。
白いご飯とみそ汁。焼き魚に漬物。
夢にまでみた、日本のありふれた食事だった。
恭介は、涙が出そうになる。
屋根がついている場所で、畳に座ってご飯を食べる、当たり前と思っていた生活は、なんと有難いものなのだろう。
瑠香の祖父は何も聞かず、その姿を見つめていた。
食後のお茶を飲みながら、祖父は改まって頭を下げた。
「この度は、孫の瑠香を助けてくれて、ありがとう。私は畑野健次郎だ」
世捨て人だと言って、健次郎はニカっと笑った。
「俺は、岩崎ひろしです。ここは島…ですか」
「そうだな、無人島と思われている、小さな島だよ」
最近、近くの島々や、どこか他の国の連中が、探検者気どりでやってくるそうだ。
先ほど、畑野瑠香を襲った男たちも、そんな類であろう。
「それで、君はなぜこの島に?」
一瞬、どう答えていいか、恭介は迷った。
ただ、目の前の男性に嘘は言いたくない気分だった。
「よくわからないですが、気がついたら、ある場所からいきなり、たどり着いたみたいです」
確かに嘘ではなかったが、正確でもなかった。
「ふむ…この島には言い伝えがあってな。それの逆パターンなのか…」
健次郎の話によれば、島のある池の水面に、月が写っている時に、その池に投げ込んだものは、尽く消えてしまうそうだ。
例えば
飛び込んだ人間でも。
「まあ、今夜はやすみなさい。君の顔には疲労が見える」
健次郎は隣の部屋を指さした。
「それと、明日になったら、教えて欲しい。君の本名を」
健次郎はニカっと笑った。
翌日、恭介はセッコク島のあちこちを、健次郎に案内してもらった。
畑野瑠香は、朝晩一便ずつ巡回する船で、早くに出かけていた。
案内といっても、島全体は十キロ四方という小さいもので、観光名所となるようなものは特にない。
「今は、俺個人の島だ」
健次郎は言った。
その昔、セッコク島は、平家の落人たちが隠れ住んだ場所の一つだったという。
太平洋戦争の頃まで、セッコクは「石斛」と表記されていたそうだ。
島のあちこちに蘭が自生していて、石斛という漢方薬の原料となっていた。
「戦後は、ある薬品会社が島ごと買い取って、島に工場を建てたのさ」
健次郎が指さした辺りには、廃工場の建物が何棟か残っていた。
一部は黒く焦げた痕がある。
「今から二十年くらい前だったかな。不審火によって工場が焼け落ち、何人か死者も出た。薬品会社は工場を廃棄し、島も手放した。島の権利が巡り巡って、俺のとこにきた」
工場の壁面に、恭介にも見覚えのある、会社のロゴマーク。
「ひょっとして、その薬品会社って…」
「そう、有名な藤影さんだ」
足元の下草を、風が横に掃っていく。
「島って、いくらくらいで買えるのですか」
会話のつなぎ程度に、恭介は聞いてみた。
「ここは藤影がインフラ整備をしてくれた島だったから、当時一億だったよ」
ただし、現金一括払いだったと、健次郎は付け加えた。
一億の現金を簡単に用意できる健次郎とは、一体何者なのだろうか。
そんな恭介の表情を見てとったのか、健次郎は煙草に火を点けて言う。
「俺は、あぶく銭稼ぎしてた、ろくでもない奴さ。…金が必要か、少年」
恭介は頷く。
「いくら欲しい?」
恭介は、工場跡を見つめながら答える。
「藤影グループを、潰すくらい」
「そりゃ、また、でかい額だな」
健次郎は大きな声でひとしきり笑った後で、理由を聞いてきた。
恭介は、ぽつりぽつりと水難事故のことから、話をした。
父、創介との会話は、いつも緊張を強いられるものだったので、基本的に恭介は、年上の男性は苦手である。
しかし不思議と健次郎には、苦手感を持たないで話せる。
瑠香が「おじいちゃん」と呼んでいるせいかもしれないし、健次郎の持つ、しなやかな物腰のせいかもしれなかった。
何よりも、荒唐無稽な地底での出来事に、茶化すこともなく最後まで付き合ってくれたのが嬉しかった。
「それで、親父に復讐したい、ってとこか? 無事に生きてるぞ、だけじゃだめなのか。警察に行くとか」
健次郎の問いに、恭介は少し考えて答えた。
「理由は二つあります。生きていることが分かったら、また狙われるかもしれない。それに…」
恭介の脳裏には、父だけでなく、同級生たちの卑劣な笑顔も刻まれていた。
「俺自身の力で、彼らと堂々と戦ってみたいという気持ちが強いから」
わかったと、健次郎は言った。
家に戻ってから、彼はごそごそと、紙の束やら何やらを持ってきた。
「まず、今、君は戸籍上死んでいる」
死亡取り消しの申請もできるが、時間はかかる。待っている間に、再度命を狙われる可能性も否定できない。
されど、生きていくには、戸籍と住民票が必要だ。
「そこでだ。俺のところに、こんなものを売りに来る人間が結構いる」
健次郎が持ってきた紙の束は、外国へ高飛びする人たちが、その資金と引き換えに、健次郎に預けた戸籍や身分証だった。
「君と同じくらいの年齢のもあるから、まず、その名前を使え」
そして、と健次郎は一冊の預金通帳を渡した。
「何よりも、日本は資本主義の国だ。この国での正義は何だ?」
法律ですか、という恭介の答えに、健次郎はきっぱりと言う。
「金だ」
通帳には一万円ほどの残金があった。
「この残高を、年内に百万円にしてみろ」
それができたら、藤影の倒し方を教えるとも。
今は九月の初旬。
期日まで、三ヶ月。
それから一週間ほど、恭介は情報収集に努めた。
健次郎は、細かいアドバイスは一切しなかったが、もめ事が起こったら、自分の名前を出しても良いと言った。
「九州なら、どこでも通用するはず」とも言っていた。
生産手段を持たない、資格も特技もない若者が、百万を稼ぐのは容易ではない。
されど恭介は、三ヶ月よりも短い期間で、必ず成し遂げようと決意した。
そのくらい出来なければ、父を乗り越えるなど、単なる夢物語だろう。
父の経営論を直接聞いたことはなかったが、幼い頃、祖父膝で、彼の商売に関する哲学のようなものは、何度か聞いていた。
曰く
安く買って、それより少し高く売る。
お国のルールは守る。
人を不幸にしない。
これを拠りどころに、恭介は島から九州へ向かった。
「三ヶ月で百万、またその課題出したの?」
恭介から、しばらく島には帰らないというメールを見た瑠香が、健次郎に聞いた。
いつの間にか恭介は、格安スマホを手に入れて、緊急連絡用のアドレスを瑠香と交換していた。
「まあ、ふつうに考えたら、無理だな」
健次郎は淡々と答える。
今まで、何人もの大人に同じ課題を出した。
借金で食い詰めて、泣きながら健次郎を頼ってきた連中。
どうしても三ヶ月では、百万は無理だと怒鳴った奴。
タネ銭の一万で、一獲千金を夢見てギャンブルにつぎ込み、もう一度チャンスをと土下座した輩。
日払いの土木作業や、事故物件の特殊清掃などを三ヶ月、飲まず食わずに取り組めば、百万近くになるはずだが、それが出来ない連中だった。
「十五で男の子だと、風俗もできないよ」
スマホをいじりながら、瑠香は呟いた。
出来ないというわけでもないだろうが、そんな選択自体、あいつにはないだろうと、健次郎は踏んでいた。
一ヶ月半ほどたった夜。
陽に焼けた顔で、恭介は島に戻った。
通帳には、百万をちょっと越えた額が記されていた。
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