第7話 地上に戻る試練1

 悠斗をはじめ、同級生たちが高等部に入学する少し前。

 恭介は元の地上に戻るべく、試験を受けていた。


 試験というよりは、試練であった。


 恭介はリンに案内された、洞窟の前にいた。


 それは、泉のあった場所から、更に木々が鬱蒼と茂る処に隠されていた。


「キヨスケよ、ここからはお前ひとりで行くのだ。進んだ先に、出口はある」

「はい」


 心配そうなスズメが追いついた。

「これをお持ちください」


 スズメは、恭介に一本の枝と小さな鈴を渡す。


「この洞窟は、進む人の、些末な記憶のかけらを映します。もしも途中で……」

 耐え難い痛みや苦しみに襲われたら、鈴を鳴らせとスズメは言った。

「木の枝の方は、お守りです」


「ありがとう、スズメ。行ってくる」

 恭介は洞窟に足を踏み入れた。


 数歩進んだあたりで、恭介の周囲は真っ暗になった。

 振り返っても、何も見えない。

 前に進むしかなかった。


 距離感も平衡感も、徐々に失われていく。

 聞こえるのは己の呼吸音と心音だけだ。


 血液がすうっと下がる。立ち眩みのような感覚。

 暗闇の中、どんどん恭介は下降する。


 ふいに映像が浮かぶ。

 闇が映し出す幻覚か、恭介の脳裏が密かに把握しているものなのかは、判別できない。


 ノイズの多いテレビ画面のような映像は、次第にはっきり形を刻む。


 白い勾玉と黒い勾玉が、くるくる回転し、互い組み合わさり、太極のマークとなる。

 その白い勾玉の部分に恭介は吸い込まれる。


 見えてきたのは、昔の日本の兵隊たち。

 アジアのどこかの国か。

 泣いている、現地の子どもと、その母親。


 一人の兵士が子どもに食べ物を渡す。

 兵士のかすかな笑顔は祖父のそれに似ていた。


 祖父の父親、恭介の曽祖父だろうか。

 子どもを抱いた母親は、何度も頭を下げ、自分の首に下げていたものを曽祖父に差し出す。

 曽祖父は断るが、母親は強引に彼の手に押し付けた。

 サイコロくらいの大きさの、いくつかの白い箱。


 場面は飛ぶ。

 戦後間もない日本の風景。

 ある一軒の平屋。

 玄関には旧字体で薬屋と書いてある。


 父親が息子を抱いて、なにかを語っている。

 父親は、手に小さな白い箱を乗せていた。

 息子がその箱を欲しがる。父親は首を横に振る。

――お前が大きくなったら


 やがて、新幹線が開通し、オリンピックに沸き立つ日本が、高度経済成長を迎えた頃、薬屋は薬品会社になった。

 祖父は曽祖父から、白い箱を譲りうけた。


 次のシーンで、恭介の父、創介が現れた。


 あるパーティー会場。

 経営者として注目を浴びる創介。

 創介は、一人のコンパニオンの女性を注視する。

 気付いた女性が顔を上げる。

 母、亜由美だ。


 母方の親族の顔を、恭介は殆ど覚えていない。

 会う機会が、なかったためだ。


 母の実家は小規模な工場を経営していた。

 金融不況でその工場が立ち行かなくなっていた時、突然舞い込んだ娘の縁談。


 大手製薬会社の社長からの結納金は、工場の年間収益の一桁上の額。


 家族思いの亜由美に、断れるはずはなかった。

 例え彼女に、慈しみあう恋人がいたとしても…


 恭介の脳裏に浮かんでくる、父と母の結婚式。

 バブル期を彷彿とさせる豪華な挙式。


 純白のドレス姿の母は、すべてを受け入れたような、穏やかな笑顔。

 父は時折、眉間に皺を寄せていたが、亜由美を見つめる眼差しは柔らかなものだった。

 そんな父の右手首には、白い小さな箱が連なる、ブレスレットが揺れていた。


 一年後。


 夫婦に待望の赤ちゃんが誕生する。


 思いやりの心を持って欲しいという母の願いを取り入れて、父が付けた「恭介」という名前。


――ああ、俺も生まれた時は、父に愛されていたのか。


 だが、一歳の誕生日を過ぎた頃から、創介の視線は険しいものになる。


 恭介の容貌は、母の遺伝が濃く出たため、父に似ているところが見当たらなかった。

 小さな水疱のような創介の疑念は、彼の胸を侵食する。

 創介の右手首に付けてある白い箱に、点状の黒い滲みが浮かんだ。


 恭介に対する創介の態度は、年を追うごとに堅くなった。

 この辺になると、恭介の記憶とも重なってくる。


 亜由美は父の愛情の薄さを補うように、恭介を大切に育てていたが、その姿勢が更に、創介の心中を冷たくしていた。


――父は、俺が自分の息子でないと、ずっと思ってきたのか

やりきれない思いが、恭介の心を乱す。

闇が深まる。


「いいえ、創介さん。あなたの子どもです、恭介は!」


 母が叫んでいた。

 恭介は、母の声が聞こえて冷静になった。


 ただ、創介はそうならなかった。

 札束で頬を叩くように、彼は欲しい物や人を手に入れてきた。

 亜由美に恋人がいることは知っていた。

 それでも、彼女を手に入れたかった。

 手に入れなければと、思いこまされていた。


 創介の心の滲みは、創介自身の良心の咎め。

 それを認めたくない人間は、自分の欲しい答えを言ってくれる人を傍に置く。


 この頃、側近になった仙波は、創介の良心に蓋をする人物だった。

「遺伝子検査を行い、親子関係を鑑定しましょう」


 恭介には覚えがある。

 一度、口の中に綿棒のようなものを突っ込まれたことがあったのだ。


 誰かに、語学研修参加に必要だからとか言われたが、あれは仙波だったか。


 DNA鑑定で、藤影創介と藤影恭介の親子関係は、ゼロパーセントという結果が出た。


 創介の決意は固まる。

 恭介は実の息子ではない。

 偽の息子であるのなら、排除するべきだと。


 創介の手首の、ブレスレットの鎖が切れた。

 転げ落ちた箱型のものは、墨のような色だった。



 闇の中、恭介は力なく座り込んだ。


 父との関係が、決して望ましいものでなかった理由は、自分の出生によるものとは。

 母は恭介が創介の子どもだと叫んでいたのに、それは嘘だったのか。


 確かにこの洞窟は、試練の場所だ。


「オス猫は、気にいったメス猫が自分以外の雄の子を産むと、その子猫を食い殺す」


 ある時、公園に捨てられていた子猫がいた。


 恭介は飼いたかったが、創介が許すわけもなかったので、悠斗と一緒に時々餌を運んだ。

 その公園にいた、ホームレスみたいな老婆が言っていた。


 あの猫は、悠斗が引き取ったっけ。

 左右の瞳の色が違う、黒猫だった。


 そうか。

 俺は父に食い殺されたのか。

 今更、自分が地上に戻ったところで何になる。


 恭介の頬を、流れ落ちる一滴。


「恭介、お前は愛されて、望まれて生まれたよ」

 祖父の声が蘇る。


 愛してると、声にならない言葉を紡いだ母の顔。


「生きろ!」

 確かに聞こえた、友の声。


 そうだ、今こうして命ある以上、生きて再び地上に戻らなければならない。

 きっと、自分が生き延びた理由があるはずだ。


 恭介は拳を握る。

 自分を海中に落とした連中にも言いたいことがある。

 できれば同じ目にあわせてみたいとも思う。

 生きる理由を見つけるまで、今まで言いたかったことを全部叩きつけるまでは。


 俺は死なない。絶対に!


 恭介が顔を上げ、よろけながら立ち上がったその時。


 洞窟の奥から重量感のある足音が響きわたる。

 闇を上塗りするかのように、何かが存在していた。

 荒い息遣いだけが聞こえる。

 生臭い空気。


 人外の生き物だろう。

 魅入られたように、恭介はそれに近づく。


 数歩、足を繰り出すと、サーチライトのような光が辺り一面を照らす。


 恭介が見据えると、光はそいつの双眸だった。

 大型の肉食獣のような外形。

 でかい。象くらいはある。


「汝は、何者ぞ」


 ふいにそいつが喋った。女性のような声音。

 光と闇に目が慣れた恭介が、真っすぐにそれに答える。


「俺は、藤影恭介だ」


 そいつは、ライオンのようなたてがみを持ち、ギリシャ彫刻のような女性の顔。

 背中に羽がある。


「名を問うているのではない。答えよ、汝は何者ぞ」

 そうか、スフィンクスか、こいつは!


 オディプス神話に出てくるこの怪物は、通りがかる人たちに質問し、答えられない者を殺して食べていたという。


 ここで恭介が答えられなければ、喰われてしまうのか。

 それでもいいか。既に父親に喰われかけた身。

 今更だ。


 恭介は笑う。

 そして大声で答えた。


「俺は復讐と再生をする者だ!」


 スフィンクスは咆哮した。

 洞窟内が、びりびりと反響する。


「ならば、その決意、見せてみよ!」



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