第4話 生き直す

 人知の及ばない現象に出会うと、たいていの人は脳が働かなくなる。

当然、体も動かない。

 恭介も例外ではなく、地面に尻をついたまま、ただじっとしていた。


 亀、だよな…

 亀って、人間を食べるの?


 突然、亀は首を上下運動させて口を開くと、恭介に向かってゴボリと唾液を吐いた。


 浴槽をひっくり返したような量が、恭介の全身にかかる。

 体が、溶かされるようなイメージで、思わず恭介は顔を覆う。


 だが

 唾液に刺激臭や生臭さはなく、ふんわりと甘い香りがした。

 口の端から舌の上に流れてきた液体も、果汁のような甘さがあった。


 驚き顔を上げた恭介に亀は言った。


「とりあえず、飲んでおけ」


 さらに恭介はびっくりした。

 爬虫類と思われる亀が喋った! 

 しかも日本語で!


 言われるがまま、雫を集めて飲んでみた。

 咽喉の渇きは癒えた。


 恐る恐る恭介は尋ねる。

「あの、あなたは一体…ここはどこですか?」


 亀はゆっくりと答えた。

「わしは見た通り亀じゃ」


 亀なんだ……やっぱり


「ここは、うーん、蓬莱山ほうらいさん、といってもわからんか……シャンバラ、ああ、もっとわからんよな。そうだな、ここは地球の底の底じゃ」


 恭介は、海の中にいたはずだ。


 なんで、今、地球の底、地底にいるのだろう。

 ひょっとして、ここは異世界なのか。


 恭介は、学校や塾のテキスト以外に読んで良い本が決められていた。

 漫画や、イラストの多い小説は家では禁止だった。

 悠斗の家は、漫画も含めて特に規制していなかった。

 好きな本を好きなだけ読んで、面白かった小説は、恭介にも貸してくれた。


 悠斗の最近のお気に入りは、主人公が不慮の事故で亡くなってから異世界に転生し、ドラゴン使いとなって活躍するといったものだった。


 でも、そこで異世界として描かれていた風景は、なんとなく中世のヨーロッパみたいで、竜は出てきても、亀はいなかった。


「だいぶ、くたびれているようだな、今日はもう休め」

 そう言うと、亀は笛みたいな音を出した。


 すると、羽ばたきとともに何かがやってきて、恭介の背後に降り立った。

「お呼びですか、レイ様」


 恭介が振り向くと、小柄な女性が控えていた。背中には、羽が生えていた。

 恭介の感覚は、麻痺し始めていて、羽の生えた女性にも、もはやびっくりしなかった。

「ああ、スズメ。この子を寝床まで連れていってくれ」

 かしこまりましたと言って、スズメと呼ばれた女性は、ひょいと恭介を抱きかかえた。間近で見ると、丸い瞳とちょっと尖った口元は、たしかに鳥類に似ていた。


 そのままスズメは助走もつけずに飛翔した。

 思ったよりも地底の空洞は広く、見下ろすと亀の甲羅が、東京ドームくらいの大きさに見えた。


「少しの間です、動かないで。死にますよ、ここから落ちたら」


 岩ばかりかと思った地底だが、空中を移動して行くうちに、たくさんの樹木が見えてきた。

 そのうちの一本の木に停まり、スズメは恭介を下した幾幾層にも重なる枝が、人ひとり横たわれるようなスペースを作っていた。


「明日、お呼びにきます。おやすみなさい」

 そう言うと、スズメはどこかへ飛んでいった。


 体を横たえ、恭介は瞼を閉じた。


 アデレードの港を出てからの出来事が、あまりに現実味がなさすぎて、頭がついていかない。


 今、ここでこうして息をしている自分が、本当に生きているのかも自信がない。

 助かったという安堵より、なんで自分だけこんな目に遭ったのか、これからどうすればいいのか見当もつかない。


「生きろ!」

 海の中で聞いた声が蘇る。

 ウエストポーチから、小さな光が揺れている。

 ポーチを開けたら、中からゴロンと石が出てきた。

 悠斗がくれた石だ。

 手に取ると、ほんのり温かかった。


 石の真ん中あたりにある、オレンジ色の部分から熾火のような光が出ていた。

 そして、ポーチの底に貼りついていた一枚の写真。

 出発前に母が渡してくれたものだ。


 その写真に映る父と母の笑顔を見た瞬間、恭介は涙がぼろぼろこぼれた。



 恭介は、夢を見ていた。


 乾いた道を歩く母と子。

 陽炎がゆらめく。


 白いパラソルと白い帽子。

 長い豊かな髪をなびかせる、母。


 その母と同じような、白い肌の男の子。

 歩き始めたばかりの恭介だ。


 二人を見つめる男性。背が高く鋭角的な顔つき。肌は少し浅黒い。

 若いころの父、創介だ。

 父に気が付き、手を振る恭介。


 それを見た瞬間、創介の表情が激変した。

 穏やかな海のような眼差しは、氷原のような色になる。


 ちくりとする痛みで目が覚めた。


 顔面を覗き込んだスズメが、恭介の額を爪で弾いていた。

「おお、良かった。生きてますね」

「あ、はい…」

 おずおずと答える恭介に、スズメはチッチッと鳴いた。


「そこは『何するんだ! 痛いじゃないか』と言うべきでしょう」

「え? そうですか。 ごめんなさい…」


 スズメは頭を小さく振って、恭介を抱えて羽を広げた。

「うーん、こりゃあレイ様の言う通り、訓練が必要ね」


 スズメの独り言は、恭介には届いていない。


 二人は、下草におおわれた平坦な場所に降り立った。


 朝食だと言って、果物を渡された。

 見たことのない色と形だったが、りんごのような味がした。


「食べたい? まだ食べたいですか?」


スズメの問いに、よくわからない、と恭介は伏し目がちになる。


 昨日は気付かなかったが、スズメの服装は露出度が高く、恭介は正面からその姿を見ることが躊躇われた。

 食事よりも何よりも、たくさんの疑問が脳内を行ったり来たりしていて、そちらを解消したい欲求の方が強かった。


「わかりました。では、これから食材集めの師匠を呼びますから、食べたいものを一緒に探してください」


 恭介の心情を察することを全くせず、スズメは一瞬で枝に飛び乗ると、ほろほろと、細く鋭く鳴いた。

 スズメの鳴き声に応えるように、木々の隙間に青い光が走った。

 まるで稲妻のようだった。


「呼んだか、スズメ」


 木の上の方から声がして、誰かが飛び降りてきた。

 少年のようだった。


「メイロン、あなたの技を教えてあげて」

 メイロンは、青い瞳をキラっとさせて、快活に答える。尖った八重歯が印象的だった。


「了解! よろしくな、俺メイロン。お前は?」

「藤影、恭介です」


「ふ、じ。か、げ…か、なげーな。んじゃ、かげっちにしよう。よろしくな、かげっち!」


 あっと、恭介は反応した。

 学校で、いつも悠斗から呼ばれていた愛称。


 思い出した瞬間、また涙があふれた。

 そして、泣いた。

 

それは、声を押し殺してではなく、腹の底から、全身を震わせての慟哭だった。



 体中の水分を絞り出したかのような、恭介の号泣が落ち着いたとき、誰かが恭介の背中を、とんとんと叩いた。


 泣き濡れた顔を向けると、恭介の半分くらいの大きさの、耳の長い生き物がいた。

丸い鼻の先を囲むように、ひげが横に伸びている。

 うさぎに似ていると恭介は思った。


「ようやく吐き出せたな」


 うさぎみたいなそいつは、嬉しそうに恭介に語りかける。

 男の声だった。


「よお、リンも来たのか」


 メイロンが恭介の隣に腰を下ろす。

 スズメは恭介の頭上の枝にとまっている。


「キヨスケよ」

「恭介です…」


 リンと呼ばれたうさぎの様な生き物は、構わずに続ける。


「お前はどういうわけか、本来、地上の人間が来ることのない、この地に来た。来ちゃったからにはしょうがない。この世界で生きるための術を学ばにゃならん」


 リンは偉そうに胸を張る。


「お前はまだ幼い。だからまず、体力、気力、知力を伸ばせ」

「…どうすれば、伸ばせますか?」


 メイロンが八重歯を見せて笑う。

「まずは体作りだな。俺が手本を見せるから、一緒にやろう」


 ストンと枝からおりたスズメがさえずる。

「気力は生命力。生命力の源は食べること。食べ物は自分で調達するのです」


 そして、リンが、やはり偉そうに言う。

「ここには、地球創生以来の叡智が集まっているからな。好きなだけ学問に励めよ」


「よし!」

メイロンが立ち上がる。


「食材調達! 釣りにいくぞ、かげっち!」

 つられて恭介も立ち上がる。涙は乾いていた。メイロンのあとを追って、恭介は走り始めた。



 恭介は、地底での生活を送り始めた。

 そうする以外に、なかったのだ。


 メイロンと一緒に駆け回り、木の実や果物を集めたり、地底を流れる小川で魚釣りをしたりするうちに、筋肉がつき身長も伸びてきた。

 不思議なことに、体を動かすと、不安や悲しみは日々薄れていく。


 持ち帰った食材を、スズメと共に切り分けたり、すり潰したりして日々の糧とした。


 スズメが枯れ枝に軽く息を吹きかけると、小さく燃えるので、その火で魚を焼くことも覚えた。


「ねえ、スズメ。どうやったら、火が点けられるようになるの?」


 ある日、恭介は聞いてみた。徐々に生活に慣れてくると、畏まった物言いも変化していた。


「火というものは、本来神聖なものです。天空から与えてもらうもの。その理がわかるようになれば、誰だってできます。恭介さんも」


「ははは! スズメがその気になれば、地上の三割くらい、簡単に焼き尽くせるぞ」


 いつの間にかリンがいた。恭介が切り分けた果実を、もぐもぐ食べている。

 やはり、二足歩行するうさぎにしか見えない。


「キヨスケよ」

「恭介です」


ことわりを知りたいか?」

「…はい」


リンに対してだけは、恭介はまだ敬語を使う。


「しからば教えてしんぜよう」


 ついてこい、とリンは勝手に歩き始める。

 あわてて恭介は後を追った。


 ひょいひょいと、身軽に跳んで行くリンに、ようやく恭介は追いついた。

 木々が生えているエリアの奥に、小さな泉があった。


「初めてだから、特別にレクチャーしちゃる」

リンはそう言って、泉に手をかざす。


 すると泉から水が垂直に吹き上がり、球体を成した。

 青い球体は、まるで地球のようだった。


「そう、これがお前さんたちの住んでいる星、地球だ。内部には地層があり、マグマが流れ、何かがぎっしり詰まっている、と言われているが…」


 リンが指先で青い球体をはじくと、球体は反転し、丸い籠のような形を作った。


「実際は、地球の内部は、大きな空洞になっとる。今、お前がいるこの場所は、空洞の一部だ」


 恭介が、こちらで最初に会った大亀は地の底と言ったが、ここは地球の内部、なのか。


 太陽は見えないが、明るさはある。

 どこからか水は流れ、小さな川を作っている。

 草木も生き物も存在している。

 単なる地下の奥底とは違うように感じてはいた。


「すべてはこの水が教えてくれるだろう。水に触れ、知りたいことを思うだけで、な」


 この日から恭介は、ほとんどの時間を泉のほとりで過ごすことになる。



 古くから、地球空洞説というものがある。


 アジアではシャンバラ、日本では黄泉の国などと呼ばれ、地下には、地上とは異なる次元の世界が、存在するというものだ。


 力学的に、地球には空洞など存在しないと言われていたのだが、二十一世紀になってもなお、その説は消えていない。


 近年、亡命した元大国のスパイが、地底には、高度な文明が存在するという文書の存在を発表したが、真偽は不明である。


 さて、恭介が、こんこんと湧く泉から、無限の知識を得ていた頃、地上では何が起こっていたのだろうか。







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