第20話 風邪
「お邪魔しまーす」
そっと小さな声をかけながら中にはいる。しん、と音が通路にとけていくようだ。那由他ちゃんとの交友を深めている私だけど、那由他ちゃんの家に来る頻度は多くない。送ったついでにちょっとだけお邪魔するくらいだ。
なので何となく、まだ見慣れないマンションの通路は那由他ちゃんがいないだけで随分寂しく感じられた。
中に入って荷物を置いて、手洗いをしてから持ってきた食料をいったん冷蔵庫にいれる。那由他ちゃんが起きていないと意味がない。おじさんに聞いた話では、食欲がないからゼリー飲料だけちょっと飲んで薬を飲んだらしい。
それから一時間くらいたっているけど、今寝ているのかな?
そーっとそーっと、那由他ちゃんの部屋を開ける。ベッドの上は膨らんでいる。
「なーゆーたーちゃーん? はいるよー?」
「……」
玄関よりさらに小声の囁き声で室内に声をかけるも返事はない。足音を殺しながら中に入る。
那由他ちゃんは赤らんだ顔で眠っていた。冷却シートが家になかったと聞いてはいたので、ちゃんと我が家からもってきている。そう、氷枕を。我が家ではこの氷ゴロゴロ枕をしっかりタオルで巻いてつかうのが伝統なのだ。
全体が冷たくて気持ちいいんだよね。あんまり冷やしすぎてもよくないって聞くけど、電話できたくらいだしすごく重い症状と言うことじゃないみたいだから気持ちよく寝ることを優先してもいいだろう。
氷はこの家の冷蔵庫からそっと拝借したのでいい具合だ。持参したタオルでしっかり巻いているので、今使っている那由他ちゃんの枕と同じくらいの高さだろう。ちょっと小さいのだけど、そこはさすがに我慢してもらおう。
那由他ちゃんの枕元に近寄り、枕の隣に氷枕を置いてから膝立ちのまま那由他ちゃんの頭を脇で包むかのように左腕を回し、そっと持ち上げる。そして手早く右手で枕を交換する。
「うぅん」
そして枕に寝かせると、那由他ちゃんはちょっとむずがったけど、横向きになるよう寝返りをうつと氷枕に顔をすりつけながら眉間の皺を取り、そのまま静かになった。
無事に任務完了のようだ。よかったよかった。しっかり熟睡しているようなので、他のことをしよう。
まずおかゆをすぐ食べられるようにしよう。器にうつしてチンしてもいいのだけど、寝ているなら小鍋で温めなおした方がいいだろう。最初は私がおかゆを作るつもりだったので、キッチンを使う許可もとっているし。せっかくなので。
キッチンはどこもぴかぴかだ。勝手にするのはちょっと抵抗があるけど、那由他ちゃんの為だし家主の許可もとっているのだ。
流しの下の戸棚をあけていくと、コンロ下のところがフライパンや小鍋の収納場所だった。フライパンの数が多いので、結構な料理上手なのだろう。確かお父さんも料理上手ってことだけど、お母さんも得意なのかな。
大きな鍋類はシンク下でそちらもそこそこ種類があったし、ストックされている調味料類も結構あった。なおさら心情的につかいにくい。と思いつつも適当な大きさの小鍋を取り出す。
IHで、我が家はガスなので一瞬戸惑ったけど特に問題はない。くつくつ、と温まっていい匂いがしてきたところで火を切って蓋をする。これで起きて食べたくなってもすぐ温められる。
じゃあ次だ。那由他ちゃんの額に汗もあったし、いつでも拭けるようタオルの用意をしておく。もし気持ち悪くてはきそうってなっても大丈夫なよう桶も持ってきているのでそこに水を少しだけ入れて部屋に運ぶ。
すっかり寝ているので、もう普通に歩いて普通に出入りする。そしてせっせと部屋を病人仕様にする。ちょっと大げさにしてしまったかもしれないけど、那由他ちゃんが起きた状態であって確認したわけじゃないから、念を入れるに越したことはないだろう。
さて、これであとは那由他ちゃんが目を覚ましたら対応するだけだ。ベッドわきに腰をおろす。
「……」
那由他ちゃんはほんのり汗ばんだ感じで眠っている。そっとタオルをぬらして固く絞る。そして那由他ちゃんの前髪をよける。汗で肌に張り付いているので丁寧によけて、そっとおでこを拭く。
「ん……」
少しだけ声をもらした那由他ちゃんは、ゆっくりと目を開けた。焦点のあわない瞳が私に向けられる。
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
「え……? ちずる、さん?」
「うん。おじさんの許可の下お邪魔しております。私のことは気にせず、まずは風邪を治すことを考えてね」
「うん……これ、枕、気持ちいい、ですね」
おや? どうやら熱でぼんやりしているようだ。驚くこともなく受け入れている。その方がいいけど、そんなにつらいのかと心配になる。
「うんそう。気持ちいいでしょ。もしお腹へったらお粥あるけど、食べる?」
「……うん。食べる」
しんどい那由他ちゃんには悪いけど、ぼーっとしてる感じもお人形さんみたいで可愛い。
「ちょっと待っててねー」
台所に戻って火をつける。ちょっと強めで焦げ付かないようぐるぐるかき混ぜ、湯気が出てぷつぷついったら火を止める。蓋をして保温していたのもあってすぐだ。
器によそって、おまけの塩昆布を上からかけて、と。そのまま部屋に戻る。那由他ちゃんは寝ている姿のままじっと待っていた。もしかしてまた寝ちゃってる可能性も考えてたけど、思ったよりはっきり目は覚めているみたいだ。それか、それだけお腹が減っているのか。
「お待たせー。那由他ちゃん、起きれる?」
声をかけながらお盆をいったん机に置いて、那由他ちゃんの肩に触れる。那由他ちゃんはぼんやり私と目を合わせ、小さく微笑んで声に出さずに体を動かしだしたので、背中に手を差し込んで補助して起こした。背中をまるめながらも自立はしてくれているので、お盆をもって私もベッドの端に那由他ちゃんと向き合えるように斜めに座った。
「はい、卵粥。母が作ってくれたやつだから、安心だからね」
「……」
「つらい? たべさせよっか?」
「ん……あーん」
「あ、うん」
積極的に口を開けてくれたので、やや慌てて器を手に取る。本気だったけど、まさかこんなに素直にスムーズにいくとは。
匙で一口すくい、息をふきかけ冷ます。このくらいかな? ずっと開けたままの那由他ちゃんのお口にシュート。
「ん。あふ……ん」
那由他ちゃんはまたお口を開けた。ちょうどいいくらいだったみたいだ。ほっとしながらせっせと那由他ちゃんのお口に運ぶ。もぐもぐとお口が動くのが段々元気になっていくようでよかったよかった。
「あつ……はぁ」
三分の一程食べたところで那由他ちゃんは体が熱くなってきたのか、胸元まで抱き寄せていた掛け布団をめくって太ももまでおろし、パジャマの襟元をひっぱってぱたぱたしだした。
ピンクの水玉パジャマは薄手で、ちょっと汗ばんでいるのがどことなく透けて見えて思わずドキッとしてしまう。
「ちょっと窓開けて換気するね」
声をかけていったんお盆ごとおかゆを置いて、窓を少し開けた。今日は曇り空でそれほど気温は高くない。この時期は太陽の具合で簡単に気温が変動するから、那由他ちゃんも体調を崩してしまったのだろう。閉めきっていて高めだった室温が、風が入ってきたことで少し涼しく感じられた。
「どう?」
「ん……千鶴さん、あーん」
那由他ちゃんはにこ、と微笑んでまだそう促した。元々一つ空いていたパジャマの胸元は引っ張られて白い肌がちらついていて、何だかとても気まずくなってしまう。
気付いていないふりをして、那由他ちゃんに給仕を続ける。もう三分の一ほど食べていくと、段々那由他ちゃんの動きは遅くなっていく。お腹いっぱいになってきたのかな?
「ん……ご馳走様、です」
「もういいの?」
「うん……」
「眠くなっちゃったね、ねよっか」
「うん……」
おねむな様子の那由他ちゃんはさっきまでのおかしな気持ちはなく、純粋に可愛らしく慈しんであげたくなる。
そっと背中に手を当てながら促してベッドに寝かしつける。食べてすぐだけど、今だけは緊急事態なのだからいいだろう。寝転がった那由他ちゃんは半目で一度私を見る。
「千鶴さん」
「なぁに? 喉乾いてる?」
「うぅん……」
「眠いなら寝てよ? それとも、子守歌でも歌おうか?」
「うん……」
「え、あ、うん」
ちょっと眉を寄せながらも目を開けている那由他ちゃんに冗談で言ったのに了承されてしまった。もう半分寝ているくらいの感じだけど、これは待ってる、よね?
私はベッドの横に座って左手をのばす形で那由他ちゃんの上に置き、ぽんぽん叩きながら小さく歌うことにする。
「ねーんねーん」
子守歌、昔歌ってもらったことはあるけど、歌ったことはない。こんな歌詞だっけ? と思いながら、まあ那由他ちゃんも寝かけだし、そこは適当にアレンジすることにした。可愛い感じにしておけばいいよね。
そうして一番が歌い終わり、二番まで間奏をふんふん言っていると、ふいに那由他ちゃんのぽんぽんをぽんぽんしていた手をつかまれた。
なんとなく歌詞を考えるのに視線を天井付近に泳がせていたのをおろすと、那由他ちゃんが私の手をつかんでいた。まあそれ以外誰もいないし当たり前だけど、一瞬びっくりしてしまった。
那由他ちゃんは無意識で私の手をつかんだみたいで、歌をやめても目をあけることなく、私の手をそのまま顔の前まで持ってきてむにゃむにゃ言い出した。普通に寝入っているみたいだ。
そっと右手で那由他ちゃんの頭を撫でる。おかゆを食べる前の朝一よりずっとリラックスした表情をしている。この調子なら、すぐによくなるだろう。
私もほっとして、そして那由他ちゃんに手をつかまれたままなので仕方ない。動けないのでそのまま、那由他ちゃんのベッドに頭を置いた。体を斜めにして足を崩し楽な姿勢になる。
那由他ちゃんの手がゆるむまで、このままぼんやり那由他ちゃんを見守っていよう。それにしても掛布団をちゃんとして私はベッドに頭を置いているのに、胸部が盛り上がっているのがちゃんとわかるってすごいなぁ。
とぼんやり思いながら、私も気がついたら眠ってしまっていた。
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