第12話 名前を

「ごめんね、里田ちゃん。いきなり変な人に話しかけれらて怖かったよね?」


 部屋に戻ったので、さっきと同じ位置に隣り合って座りながら里田ちゃんにそう謝罪する。

 戻ってくる時に手をひいていたので、その勢いでまだ里田ちゃんの左手を握ったままだ。はっとそのことに気がついたけど、慌てて離すのもおかしいので軽く握ったまま里田ちゃんの膝においておく。


「え、えっと、いえ、その、山下さんの家族なのはわかってましたし、だ、大丈夫です。その、あんまり、大人の男の人と話すことって、ないので、緊張はしました、けど。あ、そ、それに、私が最初ちょっと、びっくりしちゃったんですけど、それで、距離はあけてくれてましたし」

「それは当たり前だけど、まあ、大丈夫ならよかった」

「は、はい。大丈夫、です」


 確かに飛び出した段階で兄は里田ちゃんと二メートルは離れていて、話をするには遠いくらいの感じだったけど。でもそもそもトイレの前だとわかってて話しかけるのがデリカシーがない。親しいわけでもないのにトイレの前で話しかけるとか普通にキモいでしょ。

 大体普段から、私がお風呂入っている時も平気で脱衣洗面所に来て話しかけたりするし。そう言うとこほんとキモイんだよね。私に気を遣わず、その辺はちゃんと嫌って言っていいからね。と里田ちゃんにNOと言う勇気を伝えたのだけど、え? いやでも、そもそもお兄さんのお家なわけですし、とかあんまり気にしてないみたいだった。お姉さんは里田ちゃんが純粋無垢すぎて心配だよ。


「まあ、ほんとに気にしてないならいいけど。……ところで、里田ちゃん」

「あ、はい」

「言いたくなかったら全然いいんだけど、その、里田ちゃんの下の名前って、聞いたことない、よね?」


 ずっと、気にはなっていた。初対面では警戒して名前言わないのわかるし、連絡先交換時も連絡アプリは初期設定のままみたいで全然なれていなくて、『里田』って名前だったし、教科書やノートにも名字しか書いてなかった。

 でもあえて聞くきっかけもなかった。だけど今日、はっきりした。お母さんにもお兄ちゃんにも、名前をあえて言わなかった。まあお兄ちゃんにはね、きもいし当たり前だけど。でもあの流れでお母さんに名乗らないのは少々不自然だ。そんなに信用がないなら家には来ないし、家のマンションだって教えないでしょ。


 仲良くなってきている、と言うか、私としては友達のつもりだし、いつまでも名字での呼び合いなことにじれったくは感じていたのだ。

 それでも、里田ちゃんは私の名前を知っているし、呼んでくれるようになってから聞ければいいかな。と思っていた。奥手な里田ちゃんにあわせようと。でもね、いくらなんでも雀ちゃんとか聞いたら黙っていられないでしょ!?

 なんで母親に先を越されなきゃいけないの!? 名字同じだから名前で呼ぶのセーフなら、むしろ私こそそう呼んでよ。って思うでしょ。山下さんの家族だから、って、がっくりくるわ……。


 でも意図的に名乗っていない里田ちゃんに、一方的に私だけ名前で呼んでよ、とも言いにくい。せめて名前について話を聞いてからじゃないと、何にも言えない。

 名前が言いたくないならそれでもいいけど、言いたくないのか、単にきっかけがないだけなのか、はっきり聞かないと話を進めることもできない。


「……は、はい。言ってない、です」


 里田ちゃんは気まずそうに視線を泳がせ、ぎゅっと私の手を握り返しながらそう俯き気味に言った。

 やっぱりわかっていて言っていないのだ。無自覚で名前を伏せる意味がないなら、そうでしたっけ、ですぐ名前を教えてくれただろう。でもそうじゃない。この流れでまだ口にしていないなら、それは口にしたくないと言うことだ。


「うん。だよね。言いたくないなら、いいんだ。世の中には、愛情が過ぎて特別な名前をつけようとして、その、聞き慣れない名前をつけることもあるからね。でも、できれば教えてほしいかな。呼んでほしくないなら呼ばないし、笑ったりなんかしないから、里田ちゃんの名前、知りたいな」


 自分の名前を言いたくない理由は、そのくらいしか思いつかない。少なくとも、名前を名乗れないほどの信頼関係ではないと自信を持っている。それでも教えてほしい。知らないまま他人行儀に名字呼びではなく、ちゃんと知ったうえで名字から愛称をつけるのでは全然違うと思うから。

 じっと目を覗き込みながらそうお願いする。里田ちゃんはきゅっと下唇をかんでから、ゆっくりと口を開く。


「……な、ゆた、です」

「なゆた? 里田なゆた、ちゃん?」

「は、はい。変な名前、ですよね」

「いや、そんなことないでしょ。那由他って言えばえっと、無限、じゃなくて、無量大数、の二つ前の大きな数を表す言葉であるし。漢字は?」


 やば。普段使わないので無限とか言ってしまった。恥ずかしい。無限大数とかないし、単位の無量大数と違って無限はそもそも全然意味が違う。だけど優しい里田ちゃんはそこには触れず、何だかびっくりしたような顔をしている。


「あ、えっと、すっごく大きい数の那由他なら、えと、那覇の那、自由の由、他人の他の那由他なら、合ってます」

「あ、じゃあそのままなんだ。変なんかじゃないよ。もちろんよく聞くってほどじゃあないけど、由緒もあるし。そうだね、きっと親御さんは多角的な視点や物の見方みたいな考え方から、たくさんのことに耐えられる丈夫な体、豊かな心のありかたとか、色んな意味で、大きな人になってほしくてつけたんだと思うな。たくさんの思いがこもった名前なんじゃないかな」


 具体的な数字ではなく意味をものすごくシンプルに言うと、とても大きな数ってなってしまうけど、そんな風にいろんな思いを込めてつけたんじゃないかなって思う。だって少なくとも、こんなにいい子の里田ちゃんが愛情を受けずに育ったとは思えないから。ちょっと引っ込み思案だけど、ちょっとしたことで育ちの良さを感じられることがよくある。きっと親御さんは素敵な人だろうって前から思っていた。

 だからその名前も、きっと深い意味や強い思いを込めているんだろうってすんなり思える。確かにありふれた名前ではないし、響きとして最後が「た」だから知らないとちょっと男性的に聞こえてしまうかもしれないけど。でも、言うのをためらうような、恥ずかしいものだとは思ってほしくない名前だ。


 正直に言って、もっと直球でおかしな、それこそ天使と書いてエンジェルちゃんとかを覚悟したので、それに比べて普通だろう。そのままだから漢字を見たら読めるし。


「っ……うっ」

「え、里田ちゃん?」

「う、うわぁぁん」


 里田ちゃんは泣き出してしまった。力が抜けたように前かがみになるから、とっさに左手で里田ちゃんの右肩をつかんで抱き込むように支える。


「……よしよし、大丈夫だよ」


 ぐすぐすと泣いて声にならない里田ちゃんに、複雑な思いで私はそっと握り合う右手に力を込めながら、そっと頭同士をくっつけて頬ずりのように慰めた。


「……すん、う、うぅ、す、すみません」


 ぽんぽん、と右肩をリズムを付けて叩いたりして里田ちゃんをあやしていると、すぐに里田ちゃんは鼻をすすって上体を戻した。


「いいんだよ、里田ちゃん。子供の体はちょっと感情が高ぶったら涙がでちゃうものだから。それに、言って私も漫画読んでもすぐ泣いちゃうしね」


 だから何も恥ずかしいことなんてない。私は里田ちゃんの肩から手を離して、そっと涙で濡れた前髪をはらった。涙で濡れた頬は紅潮し、キラキラ光る瞳はまるで宝石のようだ。なんて可愛らしく、愛しいのだろう。この子を守ってあげたい。そんな気持ちになる。


「でも、落ち着いたなら泣き止もうか。里田ちゃんは可愛い笑顔の方が似合ってるよ」

「っ……はい。ありがとう、ございます」


 里田ちゃんは恥ずかしそうに笑いながら、私がしゅしゅっとだしたティッシュを受け取り涙を拭く。


「あ、そんな乱暴にしたら、肌が傷ついちゃうよ。こう、押し当てる様にすれば十分だから」


 里田ちゃんの手ごとティッシュを持って、優しく里田ちゃんの頬、目元を優しく拭いていく。顎まで撫でるようにふいてから、里田ちゃんの手を離してから里田ちゃんの頬に触れる。うん。濡れてない。


「はい、可愛くなったよ」

「あっ……あ、あり、がとう、ございます」


 真っ赤になった里田ちゃんは可愛い。なんだか可愛すぎて胸がきゅんとしてしまって、たまらずずっと繋いでた里田ちゃんとの右手も離して膝立ちになって軽くハグする。里田ちゃんの頭を胸に抱えると、何だか満たされるような満足感を覚えてしまう。そのままそっと頭を撫でる。まー、まるくて可愛い。


「いい子いい子。可愛いね。よしよし」

「はゃっ!? あ、あ、は、恥ずかしい、です」

「うんうん、ごめんね。里田ちゃん、これからは私のこと、名前で呼んでくれない? 私、里田ちゃんと今までより仲良くなりたいな」


 嫌がられないうちにさっとやめて、ちゃんと腰を下ろしてから顔をあわせてお願いする。里田ちゃんが自分の名前をコンプレックスなのはわかった。全然そこまで言う名前ではないと思うけど、嫌なら無理に呼ぶことはない。なにか愛称をつければいい。だからまず、仲良くなりたいことを伝えよう。



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