第13話 諦めのスペシャリスト
『私、もう、どうしたらいいのか分からなくなっちゃったよ』
僕の一学年上の女子生徒、
天羽翼は頭脳明晰、スポーツ万能、その上神様からピアニストとしての天賦の才能を授けられた、この高校きっての才女である。
誰もが羨む美貌まで兼ね備えたまさに【完璧】を絵に描いた様な彼女が、なぜ、こんなにも悲しい顔をしているのか?
人が夢を失う場面というものは、何度立ち会っても気持ちの良いものではない。
3ヶ月前、降り
そこには、運の悪い事に、雨に耐えながら必死に前に進む、赤い長靴を
猛スピードで突っ込んでくる車に驚き、為す術なく立ち尽くす小さな女の子を救う為、天羽翼は少女の身代わりとなって車に跳ねられ、その結果、左腕を開放骨折した。
医師の診断では、元通りにピアノを弾ける様になるかは、現段階では分からないとの事らしい。
こればっかりは、六千年生きた僕でもどうしようもない。
天羽の回復力を信じ、そして、天に運を任せるしかないのである。
天羽は、今も、痛みに耐えながらリハビリに励んでいる。
必ず治るという保証などどこにもないけれど、彼女には、それしか出来ないから。
『こんなに長くピアノに触れないのは、いつ振りだろう?私はずっと、大好きな音楽と一緒に生きていくのだと、なんとなくそう思っていた。当たり前を失って、生きる意味を失って、それでも私は数%の可能性にしがみ付いて今も足掻いている。ねぇ、
どうして世界はこんなにも残酷なのであろうか?
心優しく、真面目で
なぜこの世界では、誰もが幸せであってはならないのだ?
なぜ、夢を諦めなければならない人間がいなければならないのだ?
久しく感じる事の無かった無力感に、僕の心は締め付けられる。
『絶対に諦めるな。たとえ数%だろうと、可能性があるのなら、自分を信じて前へ進め。そんな無責任な言葉を、僕は吐けない』
夢を失うという事は、心が死んでしまうという事と同義である。
命が助かったのだから、良かったではないか。
そんな言葉を吐く馬鹿もいるが、それは全く見当違いもいい所だ。
大空を自由に
それがどれ程の苦しみか。
いっそ、死んでしまっていたら良かったのにと願ってしまうのは悪い事なのか?
一度も人間を生きた事のない
天から翼を与えられ、命の全部を懸けて人間を生きる少女の想いが、
大空を翔る為の翼が折れてもなお、その魂は死なず、天に手を伸ばし続ける少女。
彼女は世界も運命も恨まない。
ただひたすらに、前に進み続ける。
彼女の魂が、前へ進めと叫ぶから。
なぜ奪う?
彼女が何をしたというのだ?
納得のいく道理があるのならば説明してみろ。
『でももし君が、君のその繊細で美しい心が、痛くて苦しくて堪らないというのなら、もう諦めても良いんだ』
生きるという事は、常に何かを失い続けるという事だ。
失い続けるという事は、諦め妥協し続けるという事なのだ。
『もう、戦わなくても良いんだよ。君は充分良くやった』
『でも、そんな事言われたって、諦められないよ。だって私には、諦め方が分からないもの』
彼女の微笑が僕の心を締め付ける。
翼を折られても、手足をもがれても、彼女は命の続く限り、空を見上げる事をやめないであろう。
そんな事は分かっている。
天羽翼とは、そういう人間なのだ。
でも、だからこそだ。
『諦めるのは悪い事じゃない。諦めるという事は、人の痛みを知る事だ。諦めるという事は、優しさを学ぶ事だ。諦めるという事は、新しい自分に生まれ変わるという事なんだ』
人間も
生まれた瞬間に死へのカウントダウンが始まり、若さを失い、親を失い、友を失い、最愛の人を失い、夢を失い、そして最後には自分という現象までも失う。
『だから、諦めるというのは前に進むという事だ。君には無限の可能性がある。ピアニストだけが人生の全てじゃない』
『でも私はっ!!私には…、他の生き方なんて分からないよ』
貼り付けた微笑で無理矢理に抑え付けていた彼女の心が、その大きな瞳から
『だから私は夢を諦めない。たとえこの両腕が千切れたって、私は必ずピアニストになる。だって、それが私の生き方だから』
あぁ、なんて美しいんだろう。
彼女の生き方はあまりにも美し過ぎる。
世界中の全ての人間が、彼女の様な心を持って生きられたなら、この世界はきっと…。
『わかったよ。ならやはり君は諦めるべきだ』
『だから私は夢を諦めないって……』
『あぁ、もう夢を諦める必要はない。君は一人で戦う事を諦めるんだ』
もういいんだよ。
一人きりで世界に立ち向かわなくてもいいんだよ。
『これからは、僕が君と一緒に戦う。こんなにも美しく生きる君から夢を奪うというのなら、そんな現実は僕がぶち壊す。今の時代の医学で間に合わないのなら、僕があっという間に治療法を見つけ出す。だからもう、一人で戦うのはやめにしろよ』
手を取り助け合う事が出来るから、人間は夢を見る事が出来るのだ。
人の見た夢は未来を作り、遥か遠くの先の時代で、その【夢】が【幸せ】に形を変えて世界を温かく包み込む。
こんなにも美しい命を生きる少女の夢を叶えてやれないのであれば、僕の生きた六千年の年月は、最初から無かったも同然だ。
また一つ、僕の人生に大きな夢が出来た。
それは独り善がりな夢じゃない。
夢が夢を繋いだのだ。
絶対に手に入れる事の出来ないと思っていた【幸せ】の片鱗が、ようやく少しだけ、僕の前に姿を現した。
『うん。それじゃあ、お言葉に甘えて、ありがたく甘えさせてもらう事にするよ』
『あぁ、思う存分甘えてくれ』
『じゃあ、おんぶしてよ』
『何でだよ?怪我したのは腕だろう?』
『いいじゃない。おんぶしてよ』
『全く、仕方ないな』
『ねぇ、
『うん?』
『ううん。やっぱり、なんでもないや』
『そうか』
こんなにも軽い女の子が背負うには、あまりにも重過ぎる運命。
それでも2人ならば、きっとどんな運命も乗り越えられる。
もう誰も悲しませない。
その為にこそ、僕は六千年の時を生きてきたのだから。
今日も僕の世界では、諦めない強い魂が、美しい光を放っている。
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