第3話 料理のスペシャリスト
『うん、良い。相変わらず、この学食の料理は素晴らしいな』
ワンコインで、このクオリティの料理が食べれるとは、ここのシェフの仕事ぶりには、脱帽の思いである。
今日のBランチのメニューは、フランスはブルゴーニュ地方の郷土料理、
【ジャンボン・ペルシエ】と、
【ブッフ・ブルギニヨン】だ。
流石に、ワンコインでフルコースとまではいかないけれど、しかし、
オードブルの【ジャンボン・ペルシエ】はもちろん、
アントレの【ブッフ・ブルギニヨン】は秀逸だ。
よく煮込まれた肉は、口に入れた瞬間に溶けて無くなり、次に、ブルゴーニュ地方の豊かな香りが鼻腔に抜ける。
これがワンコイン?
一体どうなっているんだ?
シェフにはちゃんと、この料理に値するだけの対価が支払われているのか?
おそらく、世界トップレベルのクオリティであろう学食に
『うんめぇ〜、ファミレスのビーフシチューみたい。これでワンコインなんて、ここの学食、本当お得だよな』
と
猫に小判。
豚に真珠。
水谷にブッフ・ブルギニヨン。
シェフの世界トップレベルの超絶技巧を、この学校で理解している者は、おそらく僕ただ一人であろう。
『おいおい、全く、君はマナーというものを知らないのかい?』
箸で肉を突き刺して、それを豪快に口へ放り込むと、水谷は僕を見た。
『マナー?食べ方なんて関係ないだろ?美味しく食べる。それが俺のマナーだ』
ほう、彼にしてはなかなかどうして、この世界の真理を捉えた言葉を吐くではないか。
もしあなたが超人ならば、凡人の作ったマナーになど従う必要はないのだ。
ルールやマナーは自分で作る。
それが超人なのだから。
しかし、なぜ水谷はこと恋愛において、その柔軟な発想を適用出来ないのであろうか?
それさえ出来れば、彼の望む【青春】は、驚く程簡単に手に入るというのに。
僕は食後のエスプレッソを
『おいっ、何だよ?どうした?事件か?』
水谷は、
『ちょっと、シェフに挨拶してくるよ』
『またかよ?っていうか叫ぶのやめてくれないか?分かってても、毎回心臓が飛び出しそうになる。それと、シェフじゃなくて、学食のおばちゃんだろ?』
やれやれと、お手上げのポーズを取る水谷を一人残して、僕はシェフの待つ厨房へと向かった。
パチパチパチパチ。
シェフを称える拍手をしながら、僕は、彼女のサンクチュアリへと足を踏み入れる。
『シェフッ!!今日のアントレは見事だったよ!!僕の鼻腔には、確かにブルゴーニュの香りがした。間違いなくね。残念なのはただ一つ、ピノ・ノワールが無かった事だよ。【ブッフ・ブルギニヨン】とマリアージュするワインは、やはりピノ・ノワールだ』
記憶の中からピノ・ノワールの
『またあんたかい?いつも言ってるけど、ランチタイムは忙しいんだよ。まぁ、料理を美味しく食べて感想を伝えてくれるのは嬉しいんだけどね。ありがとう。あと、日本ではお酒は20歳から、あんたはまだマリアージュしちゃだめだよ』
30代前半に見えるけれど、実際は40代半ばといったところだろう。
六千年の記憶を有する僕の目は誤魔化せない。
だがしかし、いわゆる良い年の取り方をしているシェフは、今日も相変わらず美しい。
料理の感想を伝える為もあるが、僕が厨房へ足を運ぶ理由の一つには、人生百回目の僕よりも五千九百六十年も年下の
20歳になったら、彼女とマリアージュしてみたいものだ。
それはそれは芳醇なひとときを味わえる事であろう。
『忙しい所を邪魔してしまった様で悪かったね。だけど、今日は一つ、シェフと話したい事があるんだ。放課後、少しだけ僕に時間をくれないかな?』
『まぁ、少しなら構わないけど』
『よし、決まりだ。じゃあ、後でこの番号に電話をくれ』
僕はメモを置くと、その場を去った。
水谷は先程の席でエスプレッソをチビチビやりながらスマホを
どうやら僕には気が付いていない様子であるので、放って置いて食堂を後にしようとしたら、
『おいおい、
『だがしかし、僕は待っていてくれと頼んだ覚えはない』
『全く、なんでお前みたいな奴に人が集まるのか、俺には理解が出来ないね』
そう不満を垂れながらも、水谷は
なぜ僕に人が集まるのか?
また機会があれば話す時もあるだろう。
────
昼休みを終え、
全く面白くもない午後の授業を終えると、僕は、今まさに野球部の練習へ向かおうとしている水谷を引き留めた。
『何だよ?俺、部活あるんだけど』
『部活なんて少しくらい遅れても構わないだろう?僕は暇なんだ。とってもね。相手をしてくれないか?』
『お前なぁ、自分勝手にも程が…』
その時、僕のスマホからけたたましい音が鳴り響いた。
最大音量に設定してある僕のスマホの着信音は、フランツ・シューベルトの【魔王】。
あまりに美しい歌声に聞き惚れて、電話に出るのを放棄してしまう事必至なので、あまりお勧めはしない。
スマホの画面には見知らぬ番号が表示されている、おそらくシェフからの着信だろう。
『シッ!うるさい。コレから電話だから』
【コレ】の時に小指を立てた僕を見て、水谷がちょっとイラつく。
『それじゃあ、また明日な。こんな所でグズグズしていて良いのかい?急がないと部活に遅れちゃうぞ、水谷』
『お前は本当に…、まぁ、いいか。じゃあまた明日な』
エナメルバッグを背負った水谷は、教室を後にした。
水谷は稀に見る良い奴だ。
凡人だけど、良い奴だ。
人間を六千年もやっている僕が言うのだから、間違いない。
電話でシェフと待ち合わせの約束を取りつけると、僕は学校を後にした。
────
30分後、僕とシェフは東京の上空にいた。
何かの比喩表現ではなく、本当にヘリコプターで東京の上空をフライトしているのだ。
『どういうつもりだい?ヘリコプターなんかに連れ込んで』
シェフは明らかに困惑している。
『人に聞かれたくない話をするのならヘリコプター。常識だろう?』
パイロットも僕の手の者なので、完全にプライベートが確保された空間。
それがヘリコプターだ。
『わざわざ業務時間外に呼び出して大変申し訳ないが、一つ、どうしてもあなたに聞いておきたい事があったものでね』
『何だい、聞きたい事って?』
猫の様にくりっとした目のシェフが、僕に尋ねる。
『うん。シェフは独身なのかな?』
一瞬ポカンとした後で、
『何だい、あんた、おばさんを落とすつもりかい?』
シェフは彼女にとっても良く似合う、可愛らしい笑顔を
『それも悪くないんだがね、違うよ。シェフ、あなたは世界に羽ばたいてみる気はないかな?』
またポカンとした後で、
『はっ、世界?』
と、今度は困惑の色を顔に浮かべる。
表情のコロコロ変わる、感情豊かで素敵な女性である。
あの料理がこの女性から生み出されるのは必然。
素敵な料理は素敵な人間にしか作れない。
だからこそ…。
『僕は、シェフには世界に羽ばたいていって欲しいと思っている』
シェフは何も答えずに、ただ僕を見つめている。
『あなたの料理が学食で食べられなくなるのは残念だけれど、でも、あなたの料理には世界中の人を笑顔にするだけの力がある』
僕は、制服の内ポケットから小切手を取り出す。
『だから僕は、あなたに十億円の投資をする事に決めたんだ』
手渡された小切手に印字された金額を見て、シェフはますます困惑する。
『はっ?えっ?十億?えっ?なにコレ?えっどういう事?』
『これを本場フランスでの出店費用と生活費に充てると良い。この数ヶ月、僕はあなたの料理を食べてきた。あなたの料理は、現時点で充分世界に通用する。だから本場で、あなたの才能を思う存分発揮して欲しいんだ』
六千年の間に、あらゆる料理を味わってきた僕が言うのだから、間違い無い。
彼女の才能は本物だ。
『いやっ、でも、十億なんて。それもあんたみたいな子供に貰う訳には…』
『あなたはっ!!』
突然の大きな声に、シェフがビクリと体を震わせる。
『あなたは神様からギフトを与えられた人だ。それは、望んだって手に入るものじゃない。それが欲しくて、一生もがき続ける凡人が、この世界の大半を構成しているんだ。なればこそ、あなたには義務がある。あなたは、あなたの料理で世界中を笑顔にしなければならない』
この世界には、お金が無いばかりに埋もれてしまう才能があまりにも多過ぎる。
残念ながら、今、この時代のルールでは、お金が無ければ自由になれない。
お金を手に入れる為に自由を売り続けて一生を台無しにする人の、どんなに多い事か。
だから僕は、埋もれそうな才能を見つけたなら、十億円だって迷わず差し出す。
だって、その才能が光輝けば、お金なんかじゃ手に入れられない、唯一無二の、人類の宝になるのだから。
『でも、困るよ。十億円ももらって、あたしはあんたに何も返せない』
『何も返さなくていいさ。それで何か負い目を感じてしまうというのなら、僕が望むのはただ一つ。どんな絶望の底に沈んだ人でも一皿で笑顔に変えてしまう、そんな料理を作るシェフに、あなたがなる事だ』
一時間程のフライトを終えて、僕とシェフは別れた。
────
料理界の歴史を次々と塗り替える、
今日も僕の食卓は、素敵な料理で溢れている。
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