第2話 お兄ちゃん(仮)

朝起きると枕が濡れていた。


昨日は久しぶりに2階にある自室で眠った。

廊下に出て「ゆうお兄ちゃんの部屋」と私の筆跡で書かれたドアをそっと開ける。

お兄ちゃんの匂いがした。


わたしは兄と二人暮らしをしている(断じて『していた』ではない)。家族はそう遠くない場所に住んでいるけどもう何年も会っていない。

今住んでいるこの家は、わたしがバイト代で購入したものだ。

兄は、この家が学校への通学に便利なのと、妹の世話をしないといけないからという理由で一緒に住んでいた。もちろん後者の理由が重要だ。


(おなかへった……)


1階のキッチンに行くとおそらく兄の分であろう冷めたオムライスが置いてあった。私の昨日の夕食は兄と一緒に燃えてしまった。


「いただきます」

オムライスをスプーンで口に運んだ瞬間、目から熱いものが溢れてくる。


あ……ぅ……


いままで押さえ込んでいたものが押し寄せてくる。

飲み込んだ物をすぐに吐きそうになったがオムライスをスプーンで口に運び続ける。


「……お兄ちゃん」


昨日までの日常がもう戻らないなんてことには私は耐えられない。


オムライスを食べ終えたわたしは、地下に降りて作業にとりかかることにした。

目からはまだ熱いものが溢れているが、頭はすでに『冷静なわたし』に切り替わっている。


まずは、メールを確認する。

いままでバイトで関わった仲間からは期待した返事がもらえた。


わたしの研究テーマは人間だ。生理学、解剖学、遺伝子、脳、神経、精神、特にこだわりはない。私が注目を浴びたきっかけは、不死に関する研究だった。べつに自分が永遠に生きたいとは思わないが、病気や事故であれ寿命であれ望まない死を回避する選択肢はあるべきだと思う。


(絶対にお兄ちゃんを取り戻すんだ)


再び自分にそう言い聞かせて行動する。


実験室の惨状を回復するために業者に連絡を入れておく。

料金は割高だが、実験で出た少し特殊なゴミを面倒な手続き無しにいつも引き取ってくれる。何事もなく明日までに部屋を片付けてくれるだろう。

昨日まで兄だったものは手元においておきたかったけど、信頼できる場所に送って保管してもらうことにした。


もちろん死体遺棄は犯罪だ。社会のルールはできる限り尊重したいと思う。

でも、これからやらないといけない事の重大さに比べれば、法律上の罪なんてわたしにとって些細なことだ。


まず厳重に暗号化してクラウド上に保存してあるデータの最新のスナップショットをダウンロードする。


施された暗号をデコードしている間に、家にあるスペックの高いコンピュータを全部つなぎ合わせて、必要な計算リソースを確保する。とはいっても、ネットワーク上のソフトウェア的な接続なので、響くのはキーボードを叩く音だけだ。


ほとんどの処理はクラウド上で実行するが、最後のステップは物理的に自分の手の届く範囲でやりたい。


しばらく待つと必要な前処理が完了した。


失敗はできない。

理屈上は何度でもやり直せるが、わたしがそれに耐えられるとは思えない。

テストプログラムを実行し、すべてのチェックが通ったことを何度も確認する。


(大丈夫)


そう自分に言い聞かせながらプログラムを起動する。


(お願い……)


データのロードにかかる数秒の待ち時間が永遠にも感じられた。


全てのデータの読み込みが完了し、それを再構築する処理が開始される。

画面を流れる文字の羅列を必死に追いかけ、そこに自分が欲するものを見出そうとする。


ちゃんと動いている、と思う。


プログラムを一時停止し、自室から持ってきた水色の玉子型の機器をつなぐ。

音楽を聴くのに使っているお気に入りの端末だ。

以前お兄ちゃんにねだって買ってもらったものだ。


プログラム再開する。


「お兄ちゃん?聞こえる?」


(声を聞かせて……)


「……理抄?」


「うん、わたしの声、聞こえる?お兄ちゃん」


逸る気持ちを抑えて確認する。

端末にはビデオチャット用のマイクとカメラも内蔵されている。ビデオチャットに使ったことはないけど。


「ああ、声も聞こえるし、理抄の顔も見える。でも視界がなんだか変だし、身体が動かない」

兄の声を効いた途端、目から涙があふれる。


「ごめん……なさい。わたし……お兄ちゃん……殺しちゃった」


私が落ち着くのを待って、兄は疑問を言葉にした。

「何を言ってるんだ?今の状況も飲み込めないんだけど、俺は今どういう状態なんだ?」


目の前の球形のデバイスに向かって、これまでのことをかいつまんで説明する。

兄は事故で死んでしまったこと、兄が寝ている間にとっていた記憶情報のバックアップや兄に関する記録から人格を復元したことを。


「バックアップ?どういうこと?」

「前に説明したはずだけど覚えてない?」


たまたま、記憶情報に関する研究に協力したことがあって、そのとき家に必要な設備を整えた。それからずっと兄にはわたしの研究への協力ということで、データを提供してもらっていた。


「よくわからないけど、そんなこと出来るのか」

「うん」


脳の記憶情報を読み出すことが可能な時代にはなったが、まだ研究段階で誰でも出来るようなものではない。国の要人か大富豪でもないかぎり、定期的にバックアップを取るなんてことはしていないだろう。


人間の記憶情報は専門業者が管理するサーバ以外に保存してはいけないことになっているし、面倒な手続きを踏まなければデータにアクセスできない。利用にも様々な制約がある。

(とはいえ、実際にはクラウド上に置いている人は私以外にもいるだろう)


この社会はまだ人をコピーすることを受け入れる準備が整っていない。これから長い時間をかけて倫理的な問題を解決していくことになるはずだ。


「じゃあ、俺は本当に死んだのか」

「わたしのせい。……許してもらえないと思うけど、ごめんなさい」


「まあ、起きてしまったことは仕方ないし気にするな、理抄」

「でも……」


「あ。学校どうしよう。困ったな」

無断欠席は困ると言う兄。あからさま過ぎる話題の切り替え。


「心配されると困るから、明日お兄ちゃんが連絡して。メールの送り方は教えるから」

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