第2話

 もう歩けないよと、幼い少女は唇を尖らせた。

 ナグサも唇を尖らせた。大の大人もうんざりする山道は、レースと何枚も重ねられた布で作られたワンピース姿の少女が軽い気持ちで歩くのに最適な散歩道だとは、到底思えなかった。

 船長は手にしていた紅玉付きの杖で肩を叩きながら、だからさっき言っただろうと、咎める声を上げた。

「なんで宿屋で待ってなかったんだ」

 五歳だというその少女は、頬を膨らませて無言の抗議を続ける。傍らの岩に腰を降ろそうとし、すぐにその尖った岩肌に座っていられなくなったのか立ち上がった。少女は大きな瞳と手を伸ばしたくなる愛らしさで、ピカピカに磨かれた赤い革靴を硬い岩盤で出来た山道を踏み鳴らす。

「だっていやだったんだもん! 私も一緒に行くの! 絶対行く! おんぶしてよ、おんぶ!」

 うんざりした様子の船長は、何も言わずに少女を背負う。数歩先で待っていたナグサにすいませんと頭を下げた。

「知人から預かってる子供なんですがね、どうもワガママに育ってしまって」

「船長ほどじゃないけどね」

「カノン、子供は余計な事を言わなくていいんだ。……本当にすみません、私たちの仕事の邪魔はさせませんから」

「子供あつかいしないでって言ってるでしょ!」

「子供に子供と言って何が悪い。大人なら文句言わずに歩きなさい!」

「やだ」

「だったら黙ってなさい。本当に連れて行かないぞ」

 大人の男二人は品物を確認する為、一度ナグサの家に向かう事になっていた。ナグサは、宿でエールのジョッキを交わすうちに、船長が商工会の仕事だけではなく、自身の取引相手としてナグサと会いたいと願っていた事を知ったのだ。

 船長は、ナグサがケリィ候たちに献上した数々の品を知っていた。数々の剥製や食用肉に留まらず、ナグサは細工師に頼んでいくつもの小物を献上した事があった。ガルミオオツノヘラジカの角から削りだされた貴婦人用のステッキ、ムラサキツユリスの皮で出来た財布と襟巻き、ナツオイスイギュウの革と角で作られた火薬入れ、クルマセンドウドリの嘴で出来た靴べら……ナグサすら忘れていた加工品を並べ立て、船長は熱っぽくナグサに語りかけた。曰く、これだけ様々な獣を上手くしとめられる猟師は、ムルベのナグサ以外に考えられないと。

 大陸商人として何度も東方へ向かった事のある船長は、西方の獣を東方風の小物に加工して売り出すことを考えていたそうだ。だが、東方風の繊細な染料や色使い、生地の使い方に対して、昨今の強力な銃や魔術弾丸、毒を使用する狩りによって獲られた材料は、使用するに耐えないのだという。ナグサの、古くとも手堅い狩りの腕が必要らしい。

 商談の話も含めて、船長はナグサの家を見たいと言い出していた。

「家と道具を見れば、相手がどれだけ信用できるかわかるってもんです。気質が滲み出るとでもいいますかね? これは大陸共通のもんです」

 鑑定師の仕事もそうですと、船長は笑った。品物の保存の問題ではなく、製作者の心配りや性格が、出来上がった品の性質を決めるのだと。

「申し訳ないですが、ナグサさんの選んだ細工師さんは少し細かすぎるきらいがありますね。神経質すぎて細工の峰が狭すぎる。それに刃の種類も少なく使う傾向があるようです。あれでは、所によってはとても残念な肌触りになってしまう。適材適所とはよくいったものでしてね、専用の道具にはそれなりの利便性があって存在しているんですから、意地を張らずに別の道具も使っていただきたい。荒っぽい仕上げのそこが良いという方もいらっしゃるでしょうが、なんせ細工が細かいわけですから、物によっては長期の使用には問題が残るかと思いますよ。裏地に関しての心配りは完璧でした! 特に財布の内ベリに張られた滑り布のアイディアは絶品でしたね! ですから、金物細工の時のクセさえなければ、もっと良い値の品を作れるんじゃないでしょうか」

 ナグサは内心舌をまいた。細工師のシームは完璧主義者で、与えられた革を細工するのにあたっては工程の全てを自分でやらなければ気がすまない、神経質な男だった。道具も自身が使いこなせていると確信できている数本の品しか使わず、熟練度が自分の想定したレベルに達していない道具はすっぱりと諦めて、依頼された仕事に対しては絶対に使用してはいなかった。更に、魔術紋や東方文字を参考にした複雑な幾何学模様という微細な装飾にこだわる姿勢は、繊細ゆえに時に品物の寿命を縮めてしまっている事もあったし、その事に関してシーム自身が悩んでいる事もあった。とはいえ、その性分から出来上がる品は概ね好評をはくすものとなり、船長も褒めちぎっていたような独自のアイディアで使い勝手を考えられた実用的な品も多々あった。その姿勢が気に入って、ナグサは自分の獲った毛皮の全ての加工をシームにまかせていたのだ。

 それらを踏まえてやってきた船長に、ナグサも先とは違った興味を持った。この男は、自分の家を見て何を言いだすのだろうと思ったのだ。

 もちろん、商談にもケリィ候の問題にも興味がある。だが、五枚の金貨がナグサに商談を持ちかける事と家に案内しろという意味だとしたら、このぽんと大金を支払える大陸商人の胆の太さを存分にみてやろうじゃないかという気持ちにもなっていた。

 行動や身振り、都会訛りにはどうしても慣れなかったが、互いの無害な好奇心には譲歩することぐらいできる。

 こうして、ナグサの家へ向かってムルベの山道を歩き始めた二人だったのだが……船長が預かった少女とやらは、山道を行く二人の後ろから勝手についてきたらしい。宿で待っている約束だったらしいが、知らない場所で一人で待っているのは心細かったのだろう。

 見つけた時にすぐ帰しておけばよかったのだが、船長が何度なだめすかしても無視しても、少女はこりずに泣きながら後を追いかけてきたので仕方なく連れてきたのだ。

 案の定、合流して五分もたたないうちに動けないときたのだが。

 とはいえ、子供なんてそんなものだろう。

 かつてナグサの家にいた子供も、幼い頃はそうだった。ナグサにまとわりつき、半べそかきながら仕掛け罠の様子を見回るナグサの後をついてきた。時には罠を直しているナグサを待っている間に、木にもたれてウトウト眠りこんでいた事もある。そんな時は起こす事も忍びなく、仕方なく背負って帰ったナグサだ。こんな獣だらけの山の中で、しかも秋の最中に置き去りにしておけるほど、ナグサも鬼ではない。

「アンタが責任もっておぶって行くなら、俺は構わねぇけど」

 内心ではこの男に出来そうもないと思いつつ許可を出す。この先二時間は歩き通しだ。急な山道を、大陸商人とはいえひ弱な都会育ちが子供のような大荷物を抱えて歩けるはずがない。

 何も知らない船長は「わかりました、じゃあ行きましょう!」と晴れやかに答えた。




 再び歩き始めてすぐに、遠雷の唸りが耳に飛び込んできた。空を見上げたナグサに、船長が心配そうに「大丈夫ですかね」と声をかけてくる。

 他の山と同様、ムルベの山も天候の移り変わりは激しい。こういう事態に備えて探し出してある横穴で雨宿りしようと向かっている間に、パラパラと落ちてきた雨粒は肌を叩く大きさと勢いに変わった。ナグサと少女を抱えた船長は山道を駆けて横穴にたどり着く。湿った上着を絞りながら空を眺めると、刻一刻と姿を変える雲の渦が彼方に向かって流れ出したところだった。思わず舌打ちするナグサ。上着が乾くよりも早く、雨雲は去って晴れ間に戻るだろう。降られ損だ。

 ナグサが空から背後の船長に目線を戻すと、いつの間にやら船長は小さな小箱から突き出ている白い芯に火を灯していた。見かけない形だが、携帯用のランプなのだろう。慣れた手つきでナグサが横穴の奥に積み上げておいた枯葉や薪を入り口付近にまで運んでくると、慎重に火をつけた。

「すぐ出れそうだぞ」

「そうですか?」

 船長はなぜか嬉しそうに、燃え出した枯葉を細い薪で引っ掻き回した。的確なその動きに、小さな光はすぐに立ち昇る炎と変化する。赤々と照らされる横穴の隅で、濡れた長い髪を気にしていた赤毛の少女がぱっと笑みを浮かべた。

「あと一回ぐらいは降るような気がするんで、しばらくここにいるかもしれないと思いまして。上着を乾かしておこうかと考えたんですが」

「……どうやら相当、野宿には慣れてるようだな。雨宿りと聞いてすぐに火を用意する魔術師なんてのには初めて会った」

「やだな、ナグサさん。私は魔術師じゃなくて大陸商人ですってば。そして、大陸商人なんてやってるとこういう場面によく出くわすんですよ」

 なるほど。契約日時に間に合わせる為、時には速度を上げる事を優先して道なき道の人外魔境を行くといわれる大陸商人らしい話だ。

「こんな雨降りじゃ、羊飼いの女の子たちも大変でしょうね」

「雨なんざ珍しくもなんともない。この時期なら日に一度は降ると思っててもおかしくは無いさ。この辺りの人間ならどこに雨宿りの小屋があるか、目を瞑っててもわかるもんだ」

「へぇ~、それを聞いて安心しました。ついでに、カノンも連れてきたかいがあるってもんです。ヘタに迷子になられた上にこの雨に降られちゃ、流石に可愛そうだ」

 少女は当然といった風に鼻を鳴らしてみせた。

 船長は薪の追加を火の中に放り込みながら、不謹慎ですがと続けた。

「この雨に降られているのかと思って、宿で聞いた話を思い出しました。聞きましたか、山賊の話?」

「何のことだ」

「グリッグレーという山賊が半年ほど前から街道を荒らしていましてね、先日お縄になったと聞いていたんですが、どうやら護送中に脱走したらしいと噂がありまして」

 船長は背を丸めてナグサの耳元に唇を寄せる。極端な小声で「どうやらこの辺りに逃げ込んだらしい」と囁いた。

 そんな彼の言葉を後押しするかのように再び雨足が強くなる。ナグサの眺めた空模様より死角の位置にあった雲が、より多くの雨を湛えてやってきたらしい。船長のいうとおり、もうしばらくはここに留まる事になりそうだ。

 諦めて腰を降ろしたナグサに、船長は話題を振る人間特有のニヤつきと親近感を見せてにじり寄った。

「そのグリッグレーという男は、とても乱暴で残虐な性格だそうですよ。野獣のように毛だらけ髭だらけ、髪も肌も泥だらけで真っ黒け、暗闇に潜んでいる姿なんざ立木の影法師そのものだとか。耳をすませても息遣いすら聞こえず、獲物に忍び寄る技は大きな猫のよう、背後から口を塞いで鋭いナイフで首をスッパリだそうです。それも加減していて、噴出した血を啜るとか、苦しんでる様をみて笑うんだとか、耳を削ぎ落としては殺した人間の記念に持ち帰るとか、コレクションの耳たぶが大甕三つに一杯だとか……まあ、ロクな噂を聞かない奴ですね。あんまりお近づきになりたくない人種でもありますが」

 嬉々として噂を垂れ流し、船長はナグサの反応を待つ。ナグサはその期待に満ちた船長の気配を頬骨に感じながら、努めて無愛想に応えた。

「あんたら大陸商人には大問題なんだろうが、俺には全く関係ねぇ。第一、この辺りに逃げてきたって、一晩ともたんさ」

「ほほぅ、何か含みのある言葉ですね」

「ここは魔物の山だ。人間様は居られねぇ場所さ」

「魔物の、と言いますと?」

「昔、偉い学者さんが動物の種類を決めたんだってな。人間と動物と魔物と、いろいろ区切って本にしたって聞いた。俺はわからんが」

「うーん……西方暦427年にクリーグロー伯が発表した『朽ちてく者どもの博物記』の事かな? 赤牛革の装丁にマダラすきの斑紋紙と黒鉛刷り、現在の動物学者の古典的バイブルとして多大な影響を及ぼしてるものですが……今でもあの分類定義は生きてるのかな?」

「あんたの言ってる事はわからんが、その本に載ってるいろんな魔物のほとんどが、この山には沢山住んでるんだとさ」

「ほぉ、それは興味深い。どうしてまた、この山になんでしょうね?」

 船長の声がほんの少しだが気色ばんだ。この男、本当にどうでもいいゴシップや無駄話にばかり興味が行くらしい。ナグサはふと、宿の女将がこの男を気に入っている理由がわかったような気がした。

「俺は学がねぇから知らねぇよ。でも、おかげでこの辺りの猟師は狩るものに事欠かねぇ。何を獲っても狩っても、都会の誰かが欲しがってるもんだったりする。だからムルベの裾の村の猟師は、大抵貴族の誰かと仲が良かったりするんだ。まずはその貴族様が買い上げてくれるからな」

「その貴族が、貴方にとってはケリィ候だと?」

「そういう事だ。俺に鳥撃ちを仕込んでくれた猟師がケリィ候に献上してたんでな」

 それでは、と船長は呟く。にこやかな問いかけに合わせるかのように、焚き火の中で枯れ木がバチバチッと踊った。

「大変でしょう? そんなに沢山の魔物がいては、どこから魔術や幻覚を仕掛けられるかわかりゃしない。力も理性も獣としては桁外れだ。そんな山にどうやって一人で住んで、どうやって狩りをするんです?」

「簡単だ。ソイツは――」

 ナグサは腰に下げている掌ほどの革袋に手を伸ばす。瞬間、脳裏に走った声。それは先代ケリィ候の人柄を表す生真面目すぎる声だ。


『ナグサ、フラミンゴを狩る事はできないだろうか?』


 ナグサ自身が心臓を鷲掴みにされたようなショックに驚きながら、伸ばしていた手の動きを止める。そう、全てはあの言葉からはじまったのだ。

「どうかしましたか? 企業秘密って奴ですか? いいですよ、無理には聞きませんから。」

 船長が無邪気に話しかけてくる。

 ナグサは額の汗を拭った。いつもは三度四度と往復しても、息は切らせど汗などかかないというのに。初老の猟師は、自分のショックを拭い去ろうとして、無理にでも正確に言葉を紡ごうとする。

「――ここに、フラミンゴの骨がある」

「え?」

「魔物除けのお守りだ。この辺りの猟師はみんな、フラミンゴの骨を身につけている。フラミンゴは山の生き物の親方だ。骨でも親方の気配がすると魔物も人間様を襲うのをためらうんだ。実際、よっぽどの事がねぇと、魔物もてめぇの方から寄って来たりはしねぇ。山賊だか人殺しだかしらねぇが、この山に来た以上、コイツを持ってなきゃ夜にはてめぇの骨も残ってねぇだろうさ」

「へぇ! なるほど、私が魔術師の格好をしてるのと同じような意味ですね? 声を上げずに威嚇しているわけだ!」

 酷く感心した様子で、船長が何度も頷く。

「フラミンゴですか。なるほど、合点が行きました。確かにそう言った気配やら感覚は、個体の一部においても発揮されると言われていましたね。魔術紋というのは、個体の意思が何よりも重要だといいますが、その構成要素に――」

「ねぇ、船長、雨があがったよ!」

 大人たちの会話に飽きたのか、突然少女が横穴の入り口から飛び出した。

「さっさと行って、お仕事終わらせてよ」

 肩をすくめる船長の傍らで、ナグサは息をついた。


 だが、船長の方はそれでは物足りなかったらしい。


「そういえば、この辺りには昔、沢山のフラミンゴが住んでいたそうですね」

 再び歩き出した船長は、しばらくしてぐずりだした幼子の足が痛いという恨み言から話題を変えようと、キョロキョロと視線を四方に投げかけながら呟いた。

 とは言っても、獣道同然の山道の両脇はゴロゴロと転がる巨石と天を貫きそびえる木々の鬱蒼とした枝々に阻まれ、この異国からやってきた商人の目を楽しませるような光景は欠片も見あたらない。むしろ追い返そうとするかのような自然の威嚇に、それでも、身奇麗な燕尾服に身を包んだ男は嬉しそうに声を上げる。

「『ダブの山には色がないが、常に火は灯る。見よ、それは信仰を試す二つの火である。空の滲みを落とした死の炎と、落日の滴りたる戒めの炎である。悔い残る生を改めよ、常なる双子の火は女神の双眸であり剣である』――大陸教会聖書の三聖人伝の一節です。まあ、罰当たりな私には関係ない言葉ですがね。そんな事より、フラミンゴの羽はシラトスで高く売れるんですよ。私にとってはそちらの方が大変気になる出来事でして」

 先に立って歩くナグサが、表情から色を無くした事に気づいていないのだろう。

 折角、嫌な話題から話がそれたと思ったのにと、ナグサは内心不愉快に、そして恐怖を抱えて船長に応じた。

「『フラミンゴ』ってぇ言うのは鳥、だよな?」

 ナグサは能天気な商人に向かって、何気ない風を装って声をかけた。商人はええ、鳥ですと返答し、かぶっていた円筒帽を脱ぐとパタパタと胸元を仰いだ。

「もちろん、水辺に佇む姿が炎のようであった事から名付けられた、変わった鳥の事ですよ。その舌は珍味としてとある皇帝に愛され、故に乱獲の憂き目に会ったとか。この辺りのフラミンゴもその時に少なくなったのかな? 全く見当たりませんね」

「らしいな」

「三年ほど前に、獲れたばかりだというフラミンゴの足を見ましたよ」

 ナグサの脳裏に、真っ白な肢体が蘇る。すらりと伸びた魅惑的な足は、それを眺めるナグサを何度も慰めてくれたものだ。

「私が見た時には、もう骨にちょっぴり肉がこびりついてるぐらいでしたけど」

 おしかったなぁと、船長は笑った。

「やっぱり肉は鳥肉の味がするのかなって聞いたんですけど、誰も知らないみたいでした」

「鳥だろ――」

 ナグサは軽口を叩こうとして、自分の唇がガサガサに乾いている事、喉がカラカラになって張り詰めている事に気づく。

「フラミンゴは鳥なんだから、鳥肉の味だろ。当たり前の話だ」

「そうなんでしょうかね?」

「本当に鳥なの?」

 少女の甲高い声が発した的外れの声が、ナグサの息を途端に荒くさせる。まるで自分の疑問を取り出されたような気分で。

 そんなナグサに反論するかのように、船長が嘲る。

「鳥だよ。少なくともフラミンゴと呼ばれる鳥は、鳥のはずだ。当たり前じゃないか」

「ふーん」

 カノンという名の少女は、腑に落ちない様子で呟く。

「変なの。鳥だって言われても、本当は鳥じゃないかもしれないじゃない。誰が鳥だって決めたの?」

 鳥じゃないかもしれない鳥、つまり鳥ではない鳥――ナグサはそれを知っている。

 フラミンゴと呼ばれた鳥だ。ナグサが鳥だと名付けた鳥だ。

 だってあいつらは――空を飛ぶのだから。人ではないのだから。

 突然、船長はヒュッという口笛を吹きそこなったような甲高い声を上げた。悲鳴にも似たその声が青空へ溶けてゆくのを追うかのように、真っ直ぐに腕を上げて指差す。

「コイツは凄い! 私も一つ二つなら何度も見ましたけど、ここまでの規模は初めてです!」

 ナグサは船長が何の話しているのかぼんやりと理解しながら顔をあげた。視界の端で、幼子が同じように顎を上げるのが見えた。

 船長の指し示しているのは、彼方に見える絶壁の岩肌だった。自然の作り出した人を寄せ付けぬ壁には、尖った岩の欠片が天を指し示す突起物となって思い思いに伸びていた。大小合わせて百を下るまい。それは悪魔の爪先のように禍々しく、雲を掴もうとする亡者の断末魔を想起させる奇景だ。

 その爪先に、蒼白い炎が灯っている。

 風に踊る無邪気な蝋燭の炎とは違い、無機質な瞬きで揺れる炎だ。蒼白い光は辺りの光景をも蒼みがかった白に浮かび上がらせ、絶壁はさながら不気味な祭壇の様相を呈していた。

「オムレオ・タント、蒼い翼の光だ!」

 船長が興奮に擦れた呟きをもらす。取り澄ましていた横顔は紅潮し、はしゃぎたい気分を押し殺しているのが、その荒い鼻息と同調して振るえる広い肩から察する事が出来た。シラトス訛りを交えて早口でまくし立てる。

「この辺りの方言ではオーレオテンツとも呼ばれていますね。聖オムレオが中東白獅子戦争時、南方連合の計略によって孤立した都市国家シラトスを救う為、己の命と引き換えとしてティルマ・アギエに祈り呼び出した女神の軍勢だと。シラトスを囲む軍勢を、更に丘の上から取り囲んだ蒼い羽根を持つ軍勢ですが、実際はこのような自然現象が軍勢に見えたとか。嵐の中で、尖塔やマストのてっぺんによく灯って――」

「船長うるさいよ、黙ってて! 息があっちにまで届いたらびっくりして消えちゃうかもしれないでしょ!」

 息など届くわけの無い谷の向こうの光へ、子供らしい感想を張り上げる少女もまた、食い入るようにこの珍しい現象に目をこらす。

 三人が観ている間にも、神秘的なオムレオ・タントは数を増してゆく。絶壁中を光に染めるのみならず、気づけばムルベから見える尾根の所々に、船長の語った故事のごとく軍勢の篝火を思わせるほど一面に蒼の光が灯り、天を照らしだしていた。

「あれが消えるまでここで待つか? 俺はさっさと家に行きたいんだがな、どっちか選んでくれ」

 ナグサは足を止め、見とれてる都会の男と少女に声をかける。黒い雲は見えども雨は降りつくしたのか、水の気配は全くしない。

「アレが出るとロクな事が無いんだ。あっちに行くわけじゃねぇが、こっから見える絶壁の辺りなんか特にそうだ。アレが出る前にあそこに行くと、晴れてるのに雷が落ちるんだ。嘘じゃねぇ。オーレオテンツが出ると、この辺りの村から必ず死人が出るんだ。それもこれも、あの鬼火が出てるのに山ん中ウロウロしてるからさ」

「雷……あれは雷なんですか?」

「さあ? 俺はあんたと違って学があるわけじゃねぇんでなぁ。でもあの光の一個一個は大したことねぇ。妙だけど、俺の髪の毛のてっぺんに点いたこともあらぁな。指の先っぽについた事もあんだが、この通りピンピンしてる。髪の毛が逆立っちまったがな」

 目を丸くさせている船長の面持ちを眺めながら、ナグサはその姿に思い出される真っ白な姿を脳裏に描く。

 『あれは私のお友達よ』――いたずらっ子のようにあの〈鳥〉が囁いたのは、どれぐらい前だっただろう?

 『だから、私のお友達の貴方には何もしないわ』

 〈鳥〉のクセに、俺を友達だなんて言いやがる……あの〈鳥〉が。

「では、歩きましょうか。進みながらでも見ている事はできますし」

 船長は自分から先頭に立って歩き出しながら、熱に浮かされたように、感慨深げに呟く。

「女神の軍勢は――」

 船長が、熱中の余り背中から身を乗り出しすぎて落ちそうになった少女を抱えなおした。案内をしようとナグサが先を行く船長の前にでようと速度を上げた。

 彼らを追い越そうと並んだ時だ。船長はまるでナグサに向かって咎めるかのように先を続けた。

「――彼女の軍勢は人ならざる人、人に擬態した魔物、でした」

 人に擬態した、魔物?

 そう、魔物、だ。

 知っている。ナグサはそれを知っている。この山の中にも魔物は沢山居る。

「『朽ちてく者どもの博物記』の十種分類法で言えば十番目。最大危険レベルの魔物です。『自動書記官による99番目の奇跡』事件によって大陸教会聖書が完成した頃、つまり七百年前の段階で既にその数は、確認されただけで三十家族しかありませんでした。今は……どうでしょうかね」

 家族だと? 獣の一種である魔物に『家族』?

 随分人間のような扱いを受けてる言い草じゃないか。獣のクセに。ナグサとL&Mの猟銃にかかれば、一発で急所をぶち抜かれてお終いだ。恐怖で逃げ回る先にはナグサの仕掛けた鋼色の罠が待ち構えている。

 いや、待て。

 あのマチスンオオヒグマを退治した時の事を思い出せ。


 一人でアバレグマを追って行き、突き止めた寝ぐらにいた二頭の生まれたての小熊たち。時節的には少々早いが、全くありえない現象でもないと、猟師仲間から聞いた事があった。ヨチヨチと歩くその姿を見、ナグサは気づいていた。おそらく、この子供たちを守る為、この子供たちに冬篭りの準備をさせる為、母熊は無茶をして里村に出没したり小動物のかかった罠を荒らしたりしたのだ。

 獣達にも家族がいるのだ。

 だからナグサは思いついた。

 船長は、マチスンオオヒグマが頭が良く毒餌が効かないと言った。実際、ナグサも老猟師たちにそう聞かされていたし、念の為と仕掛けたものはことごとく避けられた。

 だが、ナグサは毒餌を仕掛けた。

 母熊が出て行くのを見計らい、小熊達に忍び寄った。寝床の穴に向かって、地元の猟師たちがヒャクニチハシラと呼ぶ木々を燃やした煙を流し、苦しさに飛び出してくるのを待った。ヒャクニチハシラとは「百日走らん」の意味で、その枝を燃やした煙を吸うと百日走った後のように呼吸困難に陥り、泡を吹いて倒れ痙攣するのだ。煙を吸った後の獣の肉は食べられなくなる為、猟師たちが好んで使う事のない類の毒草であった。ダブの猟師たちは慎みを知っている。獣は食べる為にそこにいるのだ。遊ぶ為に、自らの生活を守る為に撃つのではない。

 だがナグサはそれを使った。これは守るための狩りだからだ。生活を守る為だけではなく、既に仲間が殺された以上、自分自身の命もかけた闘いの時だからだ。稀有なことではあり、避けるべき事ではあるが、してはいけない事でもないのだ。

 案の定、小熊達は悶絶しながらゴロゴロと寝床から転がり出し、息の出来ない息で新鮮な空気を探そうとした。その動きも苦しさと痙攣に取って代わられ、すぐに動きは緩慢になっていった。

 ナグサは毒の煙を吸わないよう、厚い布で口と鼻を覆いながら小熊に近づいた。ちょっとでも吸い込んだらと思うと今ではぞっとする行動だが、若かったナグサは猟師の意地と退治した後に贈られるだろう名誉に目がくらんでいた。

 ナグサは尖った石を石で叩き割って作った原始的なナイフを、鹿の生皮で掴んで小熊の肌につきたてた。お粗末な武器だったが、幼い小熊の柔らかい肌には十分なだけの傷をつける事が出来た。あくまで人の手によるものではないと賢い母熊に悟らせぬよう、傷は深く長く、だが一筋だけに留めておいた。そして傷口に、体のいたるところにヒャクニチハシラの樹液をたっぷりなすりつけた。

 戻ってきた母熊は小熊の様子に気づくとすぐに、痙攣している体と傷口を労るように嘗め始めた。慎重に事を進めたつもりだったが、わずかには人の臭いが残っていただろう。だが母熊は舐め続けた。

 毒餌の塊となった我が子を舐め続け、そして半日後には動けなくなった。

 小熊一頭だけだったなら、あの巨体を倒す事はできなかったかもしれない。だが、虫の息のもう一頭をも、アバレグマとして恐れられたヒグマは見捨てられなかったのだ。

 獣のクセに、家族を守ろうとしたのだ。


 か弱き人間に、その家族を破壊する権利があるか?


「だけどフラミンゴはどこに行ったのやら。彼らはこの辺りでしか生きられないのに」

 ナグサは一瞬引いた血の気と襲いかかる悪寒、そしてその後からやってきた動揺と自覚の波に、全身から汗が吹き出るのを感じた。

 そして気づく。

 船長が、カノンを背負ったまま汗一つかいてないことに。山道を歩き慣れた自分と、ほぼ同じ速度で歩く彼に。

 おかしい。何かがおかしい。それだけははっきりとわかる。

 この燕尾服の男は変だ。中身がじゃない、何もかもがなのだ。

 この男は、本当にただの大陸商人なのか? ただの魔術師なのか? 魔術師って奴は、こんなに楽々と山を行き来できるほど頑丈で精力的な肉体を手に入れる事ができるのか?

 ナグサがシラトスで過ごしていた時に知った限り、そんな事はありえない。

「ここでしか生きてられないなら、どこにも行かないわよ」

 カノンが船長の言葉を受けて、子供特有の良く通る甲高い声で言った。

「居ないなら、死んじゃったんじゃない?」

 子供は残酷だ。いつだって大人の言えない事を、隠していることを、簡単に口にしてしまう。

 あの子供も言ったのだ。『おとうちゃんは人殺し』だと。


 あ、あそこに見える屋根がナグサさんの家ですねと、船長が弾んだ声をあげた。

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