フラミンゴの話
suzu3ne
第1話
ダブ地方の秋は短い。
シンリュウ大陸の内陸に位置するこの場所は、大陸教会巡礼地の一つムルベ山を筆頭に高い山々によって構成される陸の孤島である。その山肌に張り付くようにして日々を過ごす人々の生活は素朴で、女子供は放牧、男は猟に精を出すのが最大の美徳とされている。収入は大街道を行き来する東西の商人を相手に水や食料、衣類の供給が大半だ。これらの一部は、大街道の西側最初の大都市としても有名な魔術都市シラトスで売買される事も珍しくない。
ダブ地方の秋は色が無い。
紅葉する類の木々が生えないことで有名なこの地方は、夏が過ぎ去った直後より、白と黒に覆われた味気ない場所に様変わりする。これはダブの山々の地質に特色がある為だろうと言われていて、紅葉する木々に含まれる成分が破壊される為だとか日照時間の問題だとか、はてまた魔術的な龍脈紋が紅葉の樹脈紋を打ち消してしまうんだとか、はっきりとした理由はわからない。大陸教会の縁起録によれば、知識の女神ティルマ・アギエが弟の戦神ティル・ガルエンの乱暴ぶりをなじって引きこもった場所であるから、血の色を見せぬよう木々が葉を落として慰めたのだという。
ダブ地方の秋は慎みの時期である。
この地には魔物が多い。魔物というのは魔術的な性質を多く有する生き物の総称であり、シラトスの魔術学院による簡易判定基準に沿って言えば人外生物レベル5以上の生物を言う。つまり、魔術との相性が極めて良好であり、個体差はあれども単純な魔術は実行できるだけの知性を持つものをさすのだ。ダブにはこの魔物が数多く住み、特にこの短い秋の間には冬眠に備えて熾烈な縄張り争いが勃発する。ダブの人々は秋を感じれば一日を短く区切り、なるべく山には入らないようにする。
何よりも、ダブの山々には秋ともなれば蒼い炎が所狭しと立ち昇る。
蒼い炎は不吉だ。なぜならそれは、知識の女神が人を滅ぼす為に使わした生き物の光なのだから。
大陸教会の聖書にはこう記されている。その炎はオムレオ・タントと呼ばれる光であると。聖オムレオが魔術都市シラトスを囲んだ軍勢に向かってけしかけようとした光であると。女神の軍勢であり、人を殺す為に生まれた存在だと。
だからダブの人間は秋を恐れる。
その短さ故、その淡白さ故、その荒々しさ故、その炎故に。
仕方が無いのだ。彼らはか弱き人間なのだから。
ダブ地方の中心となるムルベ山には一人、偏屈な猟師が住んでいる。
名前をナグサといい、ムルベの麓にある五つの村では有名な腕利きとして知られている。既に五十を数えた歳に相応しく、いかつくエラの張った顔に皺を刻んでいた。だがその反面、体つきは若々しく、血管の浮き出た筋肉質な腕はウサギなど一殴りで仕留めそうなほど太く、分厚い胸板は猟師服に覆われて更に分厚く立ちはだかり、頑強な太ももは危なげなく山々を駆ける脚力をたたえて彼を支えていた。
物静かな男で、村人は一人としてその男が笑ったところを見たものはいなかった。元々は狩場を荒らすアバレグマ退治に他所からかき集めた猟師の一人だったが、この刺激も色もない場所のどこが気に入ったのか、一人だけ居残り、住み着く事を選んだのだ。
老いが彼の体を蝕みはじめていたが、ムルベ山にある五つの村の人々は、病で凶暴化した家畜やエサを求めて里へ降りてくる魔物の類が現れると、すぐに彼を呼びに山を登った。腕が良い事もあるが、面倒な事柄でも一度引き受けたからには解決して見せる一徹な性格も手伝って、いかめしい顔立ちに反して慕われている人物でもあった。そして何よりも、身寄りのない猟師に頼めば、万が一の時にも里から葬式を出す家が出なくなる事がありがたかったのだ。
ナグサへの依頼に走る山にはもちろん沢山の魔物が住み着いていたが、その魔物たちも、ナグサが常日頃利用する山道だけは避けて徘徊するようになっていた。ナグサが山道付近に罠を張り巡らせ、片っ端から退治していったおかげである。それによって麓の人々はナグサの住処に頼みに走る事が容易になり、ナグサ自身も戦果を麓の村へ売りに行くのが楽になっていたのだ。
彼の狩った魔物や動物の一部は、ダブの領主やシラトスの高名な学者に献上されたともいわれている。報奨金を取らせようと、領主の館に呼び出された事もあるようだ。三年程の間、村に顔を出さなかった時期があったから、その間は侯爵の側に仕えていたのだと言い出す者もいる。だがその時期を過ぎて以来、ナグサはずっとムルベの山を離れておらず、ここに留まり続けている。少なくとも五年もの間、毎日、五つの村のどこかへは顔を出し続けていた。
毎朝罠にかかったウサギを獲り、日を見て麓の村へ毛皮と肉を売りに行くのが常だった。
その日、ナグサは獲れたばかりのウサギを絞めて、麓の村にたった一つしかない宿の扉を叩いた。
宿の女将は料理上手と評判で、村に祭りがある時には決まって主菜を担当していた。この日は三日後に行われる祭事料理の試食会の為に、新鮮なウサギを丸ごと欲しいと頼まれていたのだ。ナグサは特に肉付きの良い三匹を腰にぶら下げながら、祭りに備えてもっと多く罠を仕掛けなければ足りなくなるなと考えていた。ダブ地方の他の山に劣らず、ムルベ山の秋も魔物が跳梁跋扈する危険地帯となる。だからこそ祭りは大きく執り行い、魔物を怯えさせる必要があるのだと聞かされていた。問題は、たくさん仕掛けた罠を、目的とするシマウサギ以外の生き物に破壊されないよう工夫しなければならないという事だ。
一人悩みながら宿の扉を開けたナグサは、よもやいるとは思っていなかった客の存在に虚をつかれて立ち尽くした。
その背の高い男の姿は、ナグサにとって懐かしくも嫌な思い出を引きずり出させた。
この里で生活する一般的な田舎者にはわかるまい。彼らの目にはただの都会人が、酔狂にも山だらけの辺境へやってきたという、それだけの騒ぎに過ぎないのだから。
その男は、仕立ての良い黒い燕尾服を身に着けていた。縫い目は魔術師が好んで行う複雑な呪術縫製によって飾られ、手に持つ杖の握りには魔術工芸品の一種であろう紅玉がはめられていた。
このシンリュウ大陸で揃い《スーツ》や
雑貨屋の長いカウンターにもたれた燕尾服の男は、ナグサと腰にぶら下げていたウサギを目にした途端、これはこれはと両腕を歓迎の形に広げて見せた。
「おやおやおや、随分大きなシマウサギが三匹だ! これで宿の夕食は決まりですかね。ダブのシマウサギのシチューは、大陸商人の間でも有名なんですよ。私はまだ一度もお目にかかった事がありませんでね、仲間から散々聞かされたし自慢させられたもんです。なんせ私、普段は東峰の辺りで商売しているもんで、北峰やこちらの方にはなかなかやってくる機会がないものですから。そうだなぁ、ウサギ、ダブから出る前に一度は食べておきたいなぁ。確かこの地方だけで取れるスパイスのおかげで、他の地方じゃ食べられないシマウサギの類が食べられるんでしたっけ?」
シラトスの訛りでまくしたてるその男は、ナグサが口を挟む間も無く語り続ける。
「その件のスパイスとやらは、イタチの神様がシマウサギを食べられるようにイタチ達に教えたもので、それをこの地方で役立たずと有名だったティーズ・マルターズが間抜けなイタチを騙して奪い取ったとか。私、あの吟遊詩人ルカブの民話詩の、鍋の前で踊るイタチの歌が好きなんですよね。『一皮向けば縞模様なんて関係な~い、毒も痺れも関係な~い、おいらにゃ神様がついてるのさ~』ってなもんで。あ、これは後期翻訳派の意訳詩ですがね。何はともあれ、いやはや、何はともあれ、クリルヴ・スパイスが取れるこの地方の人達がうらやましい! 私もついでにスパイスの買い付けをしていくつもりなんですが、まあその前にちょいと野暮用がありますんでねぇ……で、この方が例の猟師さんなんですね、おかみさん?」
都会の男は屈託の無い笑みと響きで宿の女主人に確認をとり、その返事も待たずにかぶっていた円筒帽を脱いで会釈をした。
「こんにちは、ナグサさん。私、貴方と商談したくてやってきた根無し草の大陸商人です。どうかお気軽に『船長』とお呼びください」
大陸商人というのは、三十三巡礼地を結ぶシンリュウ大陸横断街道を利用して東西の物品を取り扱う、放浪商人のことである。大陸をまたにかけ街道沿いの町々でのみ商売する彼らは、拠点となる商店を持つ他の商人たちと区別してそう呼ばれるのだ。
そして、そういう人間に限って後ろめたい事があるのか、偽名や二つ名を多用する。犯罪者の隠れ蓑にされやすいという事で、大陸街道を管理する教会管理部も頭を悩ませているというが、この長身の男もご多分に漏れず、脛に傷持つ身なのだろう。
ナグサは顔を上気させた女主人に目をやる。なにもかもが胡散臭いというのに、こんなに愛想の良い女将を見たのは昨年の祭りの時以来だ。頬に手を当て、皺の刻まれ始めた自分の容姿も忘れて彼女は笑う。
「変わってるでしょ、この人。船乗りでもないのに船長だなんて。街道を旅するのに船なんて必要ないでしょって言ったら、お空を飛ぶ船なんだっていうのよ? そんな事したら、この辺の教会の人たちがみんな怒って追っかけてくるって。日に五回はお祈りしてるバッツ婆さんなんか、ぶっ倒れてお迎えが来ちまうよ」
ナグサは大陸商人に目をやった。猟師は信心深いタチではなかったが、指先は習慣的に魔除けの印を描く。罰当たりな存在に降りかかるべき厄災が、自らにまで降りかからぬように。
この大陸では、宗教的な理由で空を飛ぶ術を禁止されている。
東国の方では比較的緩やかな規制だと聞いた事があるが、魔術都市シラトスを中心とした西国の国家では、教会の圧力が特に厳しい。故に魔術工学を専門にする機関でさえ用意に手を出せない分野だ。もし研究していた事が明るみになれば、悪くすれば死刑、軽くすんでも重労働形に処せられるのは必至だ。たとえ冗談であってもあまり口にできる類の話ではない。
空飛ぶ船の話が嘘か真かは別として、確かにこの都会の男は変わっているのだろう。自分と取引をしたくてやってきたという事も含めて。
あえて警戒を全面に押し出しつつ、ナグサは男の側に歩を進める。
「あんた、魔術師か?」
「いえいえ、先ほど紹介させていただいたようにただの大陸商人、根無し草の放蕩商人ですよ」
「大陸商人がどうしてそんな格好をしている」
乱暴に燕尾服の裾をつまんでみせる。あくまでも威嚇だ。誰がこんな都会の男と取引してやるものか。誰がこんな、魔術紋が刺繍された礼服野郎と取引してやるもんか。
だがナグサの表現を意に介せず、船長とやらは含み笑い。
「お恥ずかしい事ですが、一応初歩的な魔術は使えますんで。まあ、ほとんど威嚇ですよ。魔術師だと思わせて置けば、街道沿いに旅をしていても喧嘩を吹っかけられる事も少なくなりますから」
「魔術を使えるなら魔術師なんだろ」
「指先から子供のションベンみたいな水をだせるぐらいで魔術師を名乗ったら、きちんと修行した立派な魔術師さんに悪いでしょう? せめて大人ぐらいの量はだせないと、ねぇ?」
おぉやだやだと雑貨屋の女主人が笑い、船長もナグサに向かってニヤリとした。
「試しにやってみせましょうか?」
「いや、いい」
ヤケに自信たっぷりな言い様は、ナグサを更に不愉快な気分へ導いて行く。
腰にぶら下げたままだったウサギをはずして女主人に手渡すと、代金の計算は彼女に任せ、この船長という男を観察することにした。
カウンターに肘をつく相手の隣りに立ってみると、一目でわかる長身が更に大きく感じられた。反面、その細く感じられる体つきが、荒っぽい事とは無縁である素性を感じさせた。油断のならない骨ばった顔立ちから察するに、年のころは三十といったところか。栗色の髪は前髪の二房を残してきれいに後ろになでつけられ、その髪油につけられた香りなのか、微かにだが南方ハーブの尖った香りがした。瞳はスミレの色で、ものめずらしそうにキョロキョロと雑貨屋の中を見渡している。体格に反してどこか小鳥を思わせるその仕草に、ナグサは苛立ちを覚えた。
嫌な男だ。嫌なことばかり思い出させる男だ。
女主人からの心づけとして出されたエールのジョッキを手に、ナグサは己の身をかえりみる。
山道を歩いてきた身にはところどころに小さな草の葉がしがみつき、身を覆う毛皮は獣の臭いが染み付いている。日に焼けた顔は木の幹のように黒と茶の中間色に染まって落ちなくなってしまい、それに反して髪の毛は所々に白いものが混じり始めていた。白い眼球の中に浮かんでいた翡翠の虹彩も、今や白濁の中に浮かぶ惨めな緑の小石だ。手垢と泥に汚れた山刀と繕いが目立ち始めた罠袋同様、自らも年月を体現するような歳になってしまったのだろう。顎と口を覆っている剛毛の髭を堅くなった指先で捻りながら、ナグサはまだ若々しさを失いきってはいない燕尾服の男を眺めた。
嫌な男だ。ナグサの嫌いなもの――おしゃべりで物知りで金持ちで洒落者で魔術師で……そして鳥みたいな人間――それらの全てを誇りとして身につけている、嫌な男だ。
その視線に気づいたのか、不意に船長はナグサに向き直る。
「今年の春、懇意にしていただいている先代ケリィ候のところで素晴らしい剥製を見せていただきましてね。ダブのマチスンオオヒグマの剥製です。ニ十五年前に献上された品だとか。覚えていらっしゃるでしょうか、あなたが仕留めたらしいのですが」
よく覚えていた。クジュセのケリィ侯爵家はナグサの腕をかってくれた一人であり、特に先代からは報奨として様々な品を与えられていた。今も肩に担いでいた、使い込まれて黒光りしているルーディ工房製の猟銃も、そんなケリィ候からの報奨品の一つだ。
後にシンリュウ大陸に名を轟かせる事になる工房によって作られたこの品は、マルズズ工房の提唱する弾丸規格に沿って作られた初めての外部シリーズでもある。弾丸規格の定着によって従来のように猟師が自ら弾丸を作る必要が無くなり、ルーディとマルズズの合併以降、田舎の猟師も都市部から弾丸を購入するという新しい流通スタイルが確立した。
また、それによって面倒な構造を持つ魔術弾丸なども比較的容易かつ安価で手に入れる事ができるようになり、従来の狩りを変えたとも言われている。猛獣に対抗するだけの力を魔術という形で手に入れた猟師たちは、以前のように控えめで我慢強く獲物を追う形より、追い立てては魔術による力任せの仕留め方を好むようになったというのだ。
しかし、ナグサはそのような遊びじみた狩猟が嫌いだ。
当代のケリィ候の狩猟遊びは有名だが、ナグサは彼をよく知らない。ナグサが良く知っているのは、先代ケリィ候の猟銃の腕前ぐらいだ。
先代のケリィ候にとって、狩猟は各地の視察と情報収集を兼ねた大事な場であった。だからだろう、ナグサのような田舎の猟師たちに雑じって泥に身を潜めることも、卑猥な民謡を歌いながら杯を交わすことも、猟の成果を役割ごとの分配する事にも、自分の分け前が少なくなることにも喜んで応じてくれた。政策の不当さを涙ながらに訴えれば改善してくれたり、自らの立場の苦しさを語ってくれたりもした。政治家としては不適切な人物だったのかもしれないが、ナグサのような田舎者にとって、貴族が腹を割って話してくれているという状況そのものが好感を持たせた一因なのだろう。
当代ケリィ候のように、宮中の延臣どもと半日馬に乗ったままの狩りゴッコとは違う。
そんな事もあってナグサは、先代が狩りに出られなくなって以来ケリィ候の屋敷へは足を運んでいない。たまの献上品は他の猟師に頼んで届けてもらっている。
今のケリィ候みたいな若者が、L&M(ルーディアンドマルズズ)工房の銃と弾丸で肉も食べず毛皮も捕らず、ただ闇雲に獣を木っ端微塵にしているのだろうと思っているから、頭を下げる事はおろか顔をあわせるのも嫌なのだ。
気がつくと、船長が困ったように頬を歪めて笑っていた。
「すいませんねぇ、どうも失礼な事をお聞きした様で」
ナグサは顎髭に伸ばしていた指先を頬に移した。ひきつっている肌の堅さと深い皺の感触が、先まで自分の浮かべていた表情を予感させた。
「なんでもねぇさ……クマの剥製の話だったか?」
船長と名乗るこの男も気に食わない人物の一人だが、当代ケリィ候との間の話はまた別の問題である。必要以上の不機嫌を見せまいと、ナグサはジョッキをあおった。
「ええ、マチスンオオヒグマの剥製。あれほど見事な品ははじめてみました。あの種はなかなか鼻がきくし頭が良いから、毒餌は通用しないと聞きました。厚い脂肪で銃もきかない。かといって下手な魔術や剣では毛皮に傷がつくだけですし。不思議だったんですよ、よく無傷で獲れたなあって」
「違うな」
ナグサが都会者を嫌うのは、こんな風にまわりくどいからだ。まわりくどい分、ベラベラとよく喋る。スッパリと核心に触れてもらった方が、人が相手になると気短なナグサにはありがたい。
「あんたら大陸商人になろうなんて商売人は、もっと一気に金持ちになるような品モンに目が行くもんだ。クマの獲り方なんざ、そのオマケだろ」
「あははは、まぁお察しの通り、本題は別ですけどね。わかってるなら話は早い」
あっさりと肯定する船長は、女将に身振りでナグサのエールの追加と、自分の分のジョッキを頼んだ。
「ただじゃ聞きませんから安心してください」
「くだらねぇ」
「私にはくだらなくないんですよ。貴方が銃の手入れをするように、私は商売に繋がる話を仕入れなきゃならないんですからね」
なみなみと注がれたジョッキを前に動かないナグサを見て、船長は更に数枚の金貨を差し出した。ダブの粗悪な金貨とは違い、純度の高いワムラズ協定国家共通通貨である。ダブのガズ金貨の約三倍の価値があり、ワムラズ金貨一枚あれば、辺境のムルベでなら二年は遊んで暮らせるだろう。湾岸都市国家間で使われるこれらの硬貨は、文化圏の違う東方の国々からも厚い信頼を勝ち得ており、大陸商人なら欠かさず財布に納めておく貨幣である。
流石にナグサの気持ちも揺らいだ。大きな金額よりも、それだけの金額を出して何を知りたいのかが気になったのだ。
ナグサは指先で金貨を集めながら数える。五枚あった。十年分。承諾の印に握り締め、懐の小物入れの中へ突っ込んだ。
「何が聞きてぇんだい?」
「先代ケリィ候は貴方に、例のオオヒグマの剥製の褒美に、ク・クジェンワのナイフを与えたと聞きました」
なるほど。舌をかみそうな名前だったから覚えていなかったが、確かにあのナイフにはそんな名前が付いていたような気がする。
そのナイフは確か、東方の小国で使われる儀式用のナイフだったはずだ。禍々しい化け物が火を吐いている様をあしらった派手な装飾がされており、柄頭には琥珀色の珠を握る尖った爪が荒々しく張り付いていた。尖ったうろこ状の柄は強く握れば痛みを生じ、長時間使用するようにはできていない。
全くもって、ナグサには不要な品であった。神殿の奥で鎮座しているか貴族の屋敷の棚にひっそりと飾られているのがお似合いの品なのだ。
しかしあの品が唯一、ナグサが凶暴なオオヒグマを仕留めたという証でもある。
船長が見たというオオヒグマの剥製は、ナグサの長い猟師人生の中でも輝かしい戦果として記憶に留まり続けているものでもあった。アバレグマ退治に集められた三十人の猟師のうち八人が爪と牙の餌食になり、三人が追われて崖上から突き落とされた。誰もが退治を諦めたが、若かったナグサは一人でも戦う事を選んだ。ダブの短い秋が終わり冬の印の雪が腰丈ほどにも積もった頃、ナグサの仕掛けた罠はオオヒグマの息の根を止めたのだ。
その興奮と充実感。自分より巨大な存在を討ち果たした満足感。その感慨が全て、報奨のナイフに込められているのだ。
長年自分の粗末な山小屋の片隅にひっそりとたたずんではナグサの帰りを待っていた派手なナイフを、手違いだったからといって簡単に手放すには、少々愛着が湧き過ぎていた。
「アレが欲しいんだったら、帰ってくれ」
「まだ欲しいとは言ってませんよ。まずは貴方が持っているのだと確認したかったんです」
船長は愛想良く笑いながら、顔を強張らせるナグサを見下ろした。見下ろされる事には何の抵抗も感じずにいられたが、普段目にすることなどない、都会男の媚びた表情には苛立ちばかりがつのっていく。
船長はそれに気づいているのかいないのか、一転して真剣な面持ちでナグサに囁いた。
「実はですね……先代ケリィ候の財産について、少しばかり騒ぎが持ち上がってるのですよ」
「騒ぎ?」
「当代ケリィ候が作られた負債がいくつかありましてね。クジュセの商工会のお偉いさん方が証文かき集めて少しばかり計算したところ、今のケリィ候に返せる額とは思えない、とても信用できないという結論に達しちゃったわけなんですよ。商工会としては政略結婚で押し付けた第三妃の息子に後を継いでもらいたかったところでしょうが、残念なことに酒注ぎ女あがりの息子が当代ですからねぇ。私も今回の一件について面会してきましたけど、これまた清々しいほどに馬鹿貴族でして。貴族の義務を理解しない貴族なんか、家名を蝕む害虫以外の何者でもないですね。いやぁ、世の中に一人ぐらいはこんな奴がいた方が希望が持てていいんじゃないかと思いました」
なんてまわりくどい。ナグサはそんな世間話が聞きたいわけじゃないのに。
「それで、先代の財産がどうしたって?」
「そこででしてね、当代が財産として担保にしていた品々を確認する事になったんですが、いくつかが所定の場所に納められていないとわかりまして。要するに、先代が褒美としてあげちゃった品が、まだ蔵の中にあると思われていたんですね。これはケリィ候の執事が代替わりした時の混乱が原因だったらしいのですが。驚いたのはケリィ候側ですよ。まさか『本当は持ってませんでした』なんて言えませんし、そんな単純な落ち度が首都側の耳に入って家が没落したなんて知れたら、西国中のいい笑い者です。商工会側も今まで確認していなかったのは大きな痛手ですしね。どうしようかと両者額をくっつけて話しあった結果、まあ、当座はケリィ候側で元金分だけでも用意できればいいという事で落ち着きまして。利息はまた後ほど話し合いましょうと。そうと決まったら急いで回収しようとしたらしいんですが、貴方のように品物を渡したくないという方も出てきた。そこで鑑定のできる者が呼ばれて、報奨品と同じだけの価値を持った品に取り替えるか、お金をお支払いしましょうとなった。そうして、貴方の元へはめぐり巡って、この私の出番と相成ったわけですよ」
ナグサは早口の説明を頭の中で並び替える。
要するに、当代のケリィ候が借金をしたわけだが、契約書に記載されている担保が意図せずして外にばら撒かれていた品だったと。それを回収する為に、商工会は契約書に記載されている物品をケリィ候に代わって買い戻している。
しかし、例えばナグサに与えられたナイフを、ナグサが日常的に好んで使っていた場合には、売り払うのを渋るかもしれない。その時の為に大陸商人が雇われた。物品担当の大陸商人が、同価値となる代用品のナイフを用意する、と。
「……担保っていうのは、どうしてもその品じゃなきゃならねぇのかね? 俺のもらった奴と同じだけの金を出しゃいいんじゃねぇのかい?」
「クジュセの商工会規則じゃダメなんですよ。今回の件で懲りたみたいなんで、そのうち変わるんでしょうが」
「面倒だな。その担保を回収する為にあんたら雇ったら、損するだけじゃねぇのかい」
「信用の問題なんでしょうかね? 商工会としては長く付き合っていく相手ですから、相手の財産をなるべく正確に把握する口実なのかもしれません。ま、損得だけなら私も貴方と同じ意見ですけどね。バカバカしい」
「そのバカバカしい仕事を引き受けたのはあんただ」
「違いない。バカ貴族の為にここまできた私はバカもバカ、相当の大バカなんでしょうねぇ」
船長は嬉しそうにナグサに笑顔を向け、運ばれてきたばかりの自分のエールジョッキを乾杯の形に掲げて見せた。
だがナグサは、ポケットの中で指先に触れる五枚の金貨を確認する。
高価な儀式用の品とはいえ、たかが一本のナイフに、これだけの価値があるだろうか?
船長は笑ってる。喜色満面の笑みで。
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