第3話



 船長がナグサの家を見つけてから、ゆうに30分もの間は歩き続けた。船長が声をあげたその地点は、ナグサの家の屋根が木々の間から覗いているのが見える数少ない場所だったのだ。実際は深い谷に阻まれ、何度も蛇行しながらゆるゆると進まざるをえない山道である。

 途中でその事に気づいたのだろう。一度は沸き立った青年と背負われた少女が、その正確な距離に気づいてとぼとぼと歩くうちに、雨で濡れた衣類はほとんど乾いてしまった。

 だが幼い少女の燃えるような長い髪の内側だけはまだ湿りきって、時折水滴を落としては服の肩口に黒いシミを作り続けている。船長は気にしていないようだったが、ナグサにはその冷たさを思って小さな憐憫の情を抱き続けて歩いた。自身の経験や、彼がかつて育てていた子供が見せた冷える体に泣きそうな顔を、うっすらと思い出したからだ。

 だからこそナグサは、雨雲の隙間から姿を現した太陽が真上に来た頃ようやくたどり着いた我が家で、真っ直ぐに箪笥の元へ歩み寄り、出来るだけ清潔そうな布をさがしたのだ。

 赤髪の少女は差し出された布を――ナグサの持っている品の中では新品同様のそれを、都会育ちだと思えば意外なことに嫌がりもせずに受け取り、ブツブツと雨を降らせた雲を呪いながら髪を磨き始めた。

「そんなに不思議?」

 眺めていたナグサに、不意にカノンは尋ねてきた。

「何が?」

「私が髪を拭いているのが」

「そんな事はねぇよ」

「じゃあ何で見てるの? そんなに珍しい? 女の子が髪を拭いているのが」

 もう一度そんな事はないと言いかけ、ナグサは口をつぐんだ。自分が不思議に思っている事が、この少女がある意味においてとても都会育ちらしくないという事なのだと気づいたからだ。それをこんな小さな子に話しても仕方のないことだ。おそらく少女にとっては、彼女自身の在り方がごく自然な生き方なのであり、大人の見え方など話しても理解できないだろうから。

 そもそもこの子は、奇妙な大陸商人の連れている子だ。外見と言葉遣いこそ都会育ちだが、実際は旅から旅の荒んだ生活のはずである。布キレに多少残った獣油のシミぐらいで自分の髪をぬぐう欲求を拒否することなどないのだろう。

 そういえば背の高い保護者はどこにいったのだと目を転じると、船長はニヤニヤと笑いながらナグサの家を通り過ぎ、離れの小屋の前で足を止めたところだった。物置小屋でもあり仕留めた獣の血抜きをする場でもある物騒な小屋に向かい、顎に手をやり値踏みをするように建物を見上げる。

「東方暦峡朝806年」

 船長は後ろから眺めていたナグサへか、それともただの興奮の為なのか、声を張り上げて告げた。

「峡の欄王曰く『汗の臭いを恐れる事なかれ、それは国を為す基であり身に流るる時である。血の臭いを蔑むことなかれ、それは国が為される前に得た人の性と知れ』」

 手にしていた紅玉付きの杖をくるりと回し、船長はその先端で地面を二度叩いた。

「なんて静かな場所だ。獣の気配がしない」

「船長――」

「死の臭いを甘美だと賞したジャヴェッチィ夫人は、西方暦387年のテリッサ革命で処刑されました」

 なぜか嬉しそうに振り返り、船長はナグサに笑顔と声を投げかけた。

「かつて私の魔術の師匠は言っていたものです。『世界の成り立ちを理解しない者ほど死と破壊に味を見出す』と。全くその通りです。ジャヴェッチ夫人は自ら銃を担ぎ虎を狩り血を抜いて皮をなめせばよかったのに。彼女が諸侯の首を切り落としすぎたから、南方からの改革流民が決起する隙が出来てしまった。血が欲しければ自ら手に入れて、その苦労と感触とありがたみを実感するべきだったんですよ。あの人は首の落ちた自分の体を見て、やっぱりおいしそうだと思ったんでしょうかねぇ?」

 ナグサには船長の言っている事の、少なくとも半分は理解できなかった。今ここでそんな話を始めた事も含めて。

「何か臭うかい? すまねぇな」

 元々血抜きをしていた場所だ。獣の臭いはともかく、ナグサには気づけなかったあの鉄分を含んだ生ぬるい臭いがこびりつき都会の男を不愉快にさせたのかと心配する。長身の男は笑顔のまま首の動きで否定を示した。

「臭わないわけではありません。でも、どんな職業でも染み付く臭いがあります。きっと貴方には私が胡散臭く見える、そして貴方からは血の臭みがする……言葉遊びと笑う人も居るでしょうが、間違いです。臭いというモノが動物的な感覚によって分類される属性の表現だとするならば、私の気配と貴方の体臭の違いを『臭い』と表現するのは的確なもんですよね。そしてどちらも一人前なら当たり前に身につける臭いです。それを不愉快だと言ってたら、大陸商人なんてやってられませんよ」

 ナグサには何をいわんとしているのかイマイチわからなかったが、船長が血の臭いを気にしないという事だけは理解できた。

 その船長は、手にしていた紅玉付きの杖を脇に抱え、両手で小さな仕草を繰り出した。指先が輪を作り、伸ばされ線を作り、その先端で宙に見えぬ紋を辿る。大陸教会や市で交わされる魔除けや挨拶の印を思い出されるが、もっと厳粛で複雑な動きを持っていた。

 最後に、彼は両の掌を合わせ、重ねられた指先を眉間に押し付けた。

「白き月の水面みなもに平穏を」



『白き月の水面に願いを』

 そりゃなんだと尋ねたナグサに、あの〈鳥〉はこう答えた。

『願い事をかなえるおまじない。今は、死んだウサギさんにお願いしたの』

 〈鳥〉なんかに、願い事などあったのだろうか?

『お空に浮かんでるお月さまがあるでしょ? 昼の月はいつも白いじゃない』

 ナグサは昼間の月が嫌いだった。ナグサがどんなに辛い思いをして藪に身を潜め、獣との静かな戦いを繰り広げていても、遠い天の高みから涼しげに自分を見下ろすあの存在が、自分を見透かす空の瞳のようなその姿が、嫌いだった。

『私たちはみんな、死んだらあの月にある国に行くのよ。神も人も動物も草も、みんなあの国で待っている』

 あの白い月に、死者が生きている。

 白い肢体に、首の無い――。



 ナグサは黒い燕尾服の背中に飛びかかった。

「おいッ!」

 見かけから想像していたより素早く振り返った船長の胸倉を掴み、ナグサは驚く船長の顔を自分に向かって引き摺り下ろした。

「今のはなんなんだ!? 変な魔術でもかけたんじゃねぇだろうなッ!」

 違う。魔術なんかじゃない。あの〈鳥〉が言ってたように、ただのマジナイか、祈りに過ぎないのだろう。だが気味が悪い。腹が立つ。

 祈り。この小屋で死んでいった動物達への祈り。

 だが、なぜ?

 なぜこの男が〈鳥〉と似た様な言葉を口にする?

 あの〈鳥〉と同じように、生き物へ祈る?

 猟師は生き物になど祈らない。獲物を与えてくれた山の神に、そしてその荒々しき山の神をなだめすかし、人へ肉を与えるよう説得してくれた大陸教会の主神ティルマ・アギエに祈る。人に狩られる生き物は、祈られるべき魂を有さない。

 だから祈りは、人が人の為に行うものだ。

 船長は脇に携えていた杖を慌てて持ち直し、ナグサの怒りから遠ざけるように両手で頭上に掲げた。ナグサ自身も思いのよらなかった行動に対して、大陸商人は目を何度も瞬かせると、苦笑に頬を緩める。

「ああ、ナグサさん、何か誤解させたなら申し訳ない、謝罪します。今のは私の一族に伝わる慣習みたいなもんでして」

「なんだと?」

「私は田舎も田舎、地図にも乗ってないような村の生まれなんです。今のはその田舎のやり方で、生き物が死んだ場所にやる印と文句なんです。お気に触ったのなら謝ります。申し訳ない」

 無作法者ですみませんと、船長は胸倉を掴まれた不自然な体勢で、首だけをペコリと下げた。長い二房の髪が大きく揺れて、見上げているナグサの頬を掠めた。

「……あんた、まさかこの辺りの生まれなのか?」

「いえいえ、ここからだとちょうどシラトスを挟んで向こう側です。北西のケーナイン山って知ってます?」

「教会で聞いたぞ。確か、ティルマ・アギエが最初に降臨した山だな」

 大陸教会の主神である知識の女神が降り立った聖なる山であり、その聖なる波動に並みの魔物では寄り付く事もできないと言われている山だ。意外な土地名が出てきたなと、ナグサは内心驚きながら、あらためて船長を眺める。この軽薄な男からは想像できなかった地名だ。生粋のシラトス人だとばかり思っていたのだが。

「その通り」

 胸を張って答えた船長は、胸倉を掴まれたまま、誇り高く襟元を正した。

「その山の生まれです。田舎者だと笑っても結構ですけど、その事に何か問題でもありますか?」

 〈鳥〉はこの山から他の地に行った事はないと言っていた。

 ならば……ただの偶然か?

「悪ぃな、ただの勘違いだったらしい」

 胸元から手を離すと、船長は「まあ、そんな事もあるでしょうね」と、安堵の息を吐く。危険は承知の旅を繰り返す怖いもの知らず大陸商人のはずだが、ナグサのような老猟師に掴まれてでも、それなりの恐怖は感じるという事か。

 視線と気配を感じて振り返ると、赤い髪の少女が真顔で二人を見上げていた。

「船長」

 擦れた声には、なんともいえない恐怖と――なぜか怒りの色があった。

「なんだい、カノン」

 掴み掛かられて出来た服の皺を気にしながら応じる船長は、カノンがチョンチョンと指し示す天を仰いでため息を一つ。ナグサもつられて空に目を転じる。渦巻く雨雲は漆黒にも似ていて、ナグサは嵐を予感して頭を抱えた。仕掛けておいたシマウサギの罠が、豪雨と強風に壊されはしないだろうか。壊れても構わないが、頼まれていた秋祭り用のシマウサギが調達できなくなるようでは困る。

「怖い」

 少女はまたもや、不思議な擦れ声で船長に告げた。

「間違いない。貴方の探し物の全てはここにあるって、私にはわかったのよ、船長」

 漆黒の瞳がナグサを一瞥。その眼差しにナグサは眩暈を覚える。強烈な違和感。先に見ていた、髪を拭く少女の姿に見出したものではない。山道を歩きながら船長に感じた感覚にも似た、当然のように理解できない言動をとる違和感だ。彼女の言葉を当然のように聞いている船長に対するナグサの不信だ。

「探し物、だって?」

 何を探すというのか? 二人の探していたのは、例のナイフだったはずだ。だがカノンは言った。『探し物の全て』だと。

 船長の目的は、ナイフだけではない。少なくとももう一品、ここにある。

 それはきっと――いや、間違いない。〈鳥〉だ。

 この男は、〈鳥〉を探しに来たのだ。そしてこの少女は、〈鳥〉がどんな生き物なのか知っているのだ。おかしいと思った。大陸商人がこんないたいけな少女を連れまわしているには理由があたのだ。つまり、〈鳥〉の居場所を探る為の道具として、少女を利用しているのだ。

 〈鳥〉でなければ、他に一体何があるというのだろう?

 人生のほぼ全てを狩りに費やしてきたナグサの財産など、高が知れている。船長はナグサの猟の腕を評価していると言ったが、それはおそらく、〈鳥〉を探しに来たからなのだ。

 ナグサに、〈鳥〉を撃てと言う為に。ケリィ候のように、優しい声で……『撃ち殺せ』と。

「大丈夫ですか、ナグサさん」

 気がつくと、船長がナグサの両肩に手を添え、眩んだ視界によろめいていた体を支えていた。

「一体、どうしたんですか? 急に」

 そして『食べる』というのだ。あの〈鳥〉を。

 いや、獣は食べる為に撃つのだ。ダブの猟師はその慎みを知っている。食べられる物しか撃たない。そう厳しく戒められて成長してきた。

 だが〈鳥〉は食べられないはずだ。あの美しい肢体を持つはかなげな落日の生き物は、あまりにも『食べ難い』。

 ならどうして? どうしてあの時の自分は、鳥を撃つように〈鳥〉を撃った? 食べるつもりでもないのになぜ狩ってしまった?

「船長、嵐が来る! 早く家の中に入って。その人も抱えてよ、早く!」

 少女が先に立って走り出す背中が、霞がかった視界と意識の中で記憶を呼び覚ます。

 あの走っていく姿は、自分から逃げようともがくあの子供だ。可愛そうに、泣きべそをかきながら、かなう訳も無いナグサの健脚から逃れようと、何度も足を滑らせて泥だらけになって。

 でも仕方が無いのだ。あの子は『食べて』しまったのだから。

 なら撃つしか道はないだろう?

 だが、撃てば『食べなければならない』……。



 嫌だ。食べたくない。自分は違う。

 ケリィ候のように必要なわけでもなく、ましてや〈鳥〉なんかとは比べようもない。

 自分は、人間だ。だから食べない。



 気がつくと、耳を叩く雨音に囲まれていた。確かに自分の家だというのにそんな気が全くしない。

 暖炉の中で赤々と燃える火を前に、大小の二人連れが、勝手に朝のヤギのミルク粥の残りを温め、啜り、くつろいでいた。濡れていた少女の髪もすっかり乾いているところを見るに、結構長い間気を失っていたらしい。

 この辺りでは珍しくガラスのはまった窓の外は、すっかり闇色に落ちてしまっていた。雨雲の事もあるだろうが、日時的にも夕暮れ時が迫っているのだろう。ナグサの猟師としての、そしてこの山で暮らしているが故に感じられる時間感覚がそう教えてくれた。

 お目覚めのようよと、体の大きさに似合わぬ言葉で少女が告げ、大陸商人はマントルピースに置かれていた報奨のナイフ――船長の本来の目的である担保品のク・クジェンワのナイフから名残惜しそうに視線を外した。

「失礼とは思ったのですが、勝手に使わせていただきました。あ、お粥もいただきました、すいません。寒くて何か口にしないと内側から凍っちゃいそうだったもんで」

 ナグサがボロ草を詰めたベッドから起き上がろうとすると、船長が手で制した。

「そのままで結構ですよ。どうやら貴方は、私たちが思っていた以上に情の深い正直な猟師さんだったようだし、また倒れた時に引き摺ってくるのは、さすがに何度もやりたい作業ではありませんのでね。何もしませんから、まずは私の話を聞いてはくれませんかね?」

 ナグサは何も答えなかった。それを承諾と取ったのだろう。船長は手にしていた紅玉付きのステッキをクルリと回すと、カノンとナグサに対し、おどけた動きで懐から小さな紙片を取り出した。

「大陸教会聖書の一部です」

 ナグサの無言の問いかけに答えた船長は、コホンと一つ咳払いをすると、祝詞を唱える司祭のような良く響く声で、何度も耳にした物語を読み上げ始めた。



「女神はおっしゃられた。『ならば獣より弱き人は全てを手に入れるが良い。ただし、それは自らが見つけ出したやり方で行うのだ』かくして人々は女神の御技の一部を与えられた。『それでは地上には人が溢れてしまいます』と空を行く者たちが口々に叫んだ。『我々と人はほとんど変わりません。貴女に仕える生き物は人間だけではないというのに、貴女は我々の行いを反故になさる。我々にも食べるべき物を与えたまえ』『静まれ、雛鳥たちよ』女神は命じられた。『お前たちは人を喰らうのだ。私の世の理に反する人間を食し地上から消し去るが良い。それがお前たちの務めであり、その為にお前たちは生まれたのだ』翼ある者たちはその言葉にひれ伏した。『では我々は貴女に仕える印に人を屠りましょう。悪しき人を地に還す為に、四方から人々を貪りましょう』翼人種達はそう言って四方に散らばった。蒼の神官達は聖なる北の尾根に、紅い信者達は嘆きの深い東の谷に、色無き長老達は喧騒に満ちた西の湖に、そして漆黒の賢者達はせわしき南の森へ、それぞれ飛び去った」



 大陸聖書創伝第132節ですと、船長は告げた。

「これでわかりますか、ナグサさん?」

「何、が?」

「私の探しものが、ですよ」

 わかっている。この話は、シンリュウ大陸西部の人間なら誰でも知っているのだから。

「五年前、クジュセのケリィ候の屋敷で、楽器を見せてもらいました。まだ新しかった。細工されたばかりで、防腐剤と艶出し液の臭いが混じってたぐらいです。染色にも曇り一つなくて、すぐに新品だとわかりましたよ」

 ナグサは息を飲む。

 五年前、ケリィ候の寝室に通された時、サイドテーブルに静かに立ち尽くしたその楽器を思い出したからだ。竪琴にも似たその楽器は、フラミンゴが片足で立つように、細くともしっかりした下部は緩やかな弧を描いて翼を象りながらナグサに全身を見せ付けていた。細工師シームが取り付けた金の縁飾りは異国の鳥を象り、右の上部には祈りに目を伏せた乙女の仮面が取り付けられ、それはさながら御伽噺と絵巻物でしか見た事の無い海を渡る大型船を思い出させ、その楽器の華やかな様相とは反している禍々しい工程を、見知らぬ遠い昔話の奥に隠してしまっていた。

『見て、見て見てナグサ!』

 あの時、楽器が囁いたようにも聞こえた幻の声が、言葉が、ナグサの耳に再び囁く。

『私は、貴方から見ても綺麗に見える?』

 その幻聴は、あの時あの屋敷の寝室で、か細く荒い息を吐き続けていたケリィ候の第一婦人の姿とは真逆の健康さでナグサを打ちのめしたはずだ。すでに〈鳥〉の姿は失われてしまったというのに、あの楽器が見せた表情の豊かさはなんだったのか。自分と同じでありながら全く違う輝きを持っていた緑の虹彩の、その美しさを思い出し――吐き気をもよおしたあの瞬間が蘇る。

 そして、今この瞬間も。

「楽器なんて――」

 しらを切り通そうとし無理矢理発した言葉は、船長がピンと背を伸ばして杖を持ち上げ、トントンと床を叩く音にちぎり飛ばされた。

「どうかこれからする私の質問に答えてくれませんかね……いえいえ、無理にとはいいませんけど、今の貴方が拒否できない事はわかってますよ、ナグサさん。貴方は今、私にそれを語りたくて仕方がないはずだ。今、あなたの頭の中では思い出してはいけない事が渦巻いている。その記憶で、さっきみたいに意識が混濁してしまうほどの、強烈な衝動があるはずです」

「……あんたが何をいってるのか、わからねぇ」

「本当にそうですか?」

 船長は袖口の中から何かを引っ張り出した。それは小さな紙の包みで、ナグサの目はそれが火薬調合の際に用いられる台紙と同じものだと確認する。その小さな紙片から、磨り潰された橙色の粉が粉塵となって舞い上がる。

「東国六十州の一つ、カムゲの薬剤師が作った自白剤です。これの特徴は、無色の煙で相手に作用する事なんですよ。ムルベの周りにもヒャクニチハシラっていう、煙が危険な毒草がありますよね? あのハシラ科の一種から精製されるそうです。カムゲって国は劇薬の取り扱いにかけては天下一品の暗殺大国なだけありましてね、こんな風に便利な小道具が沢山あって私は大好きなんですよ、あの州の湿気の高さだけが気に入りませんが。特にこれは、ハシラ科の一種だけあって煙だけに自白効果があるんで、扱いが非常に簡単だし。私のような情報収集が商売になる人間には、大変嬉しい効果を持つ一品ですよ」

 今日、そして煙といえば、それは一度だけ。

「あの、雨宿りをしてる時に!」

 手際よく火を熾しはじめた船長の姿を思い出す。あれはただ暖をとる為だけに用意された物ではなかったのか。

「でも、だったらあんた達だって――」

「その通り。でも言いましたよね? 私は魔術師だと。子供だましの術でもね、自分の周りに煙が来ないよう風を起こす事ぐらいはできるんですよ。人間一人分、子供一人分の呼吸を確保するぐらい十分です」

 それまで黙っていたカノンが呆れ顔で呟く。

「本当は風を起こす魔術を発生させる魔術工芸品を持ってたからなんだけどね。船長がそんな細かい魔術を使えるわけないじゃない」

 少女の指先には、細い鎖でぶら下げられた紫色の小さな石が揺れていた。少女の指先にちょうど合うぐらいの大きさだ、見落としていても誰も責められないだろう。

 肩をすくめた船長は、自分の右手中指にはめられた指輪の紫石をナグサに見せながら、そんなわけですと苦笑した。

「シラトスの下風切羽ギルドご用達の工芸作家クルセンの作品ですよ。人造風霊を組み上げて、一定時間なら簡単な作業を行う事ができる。小さいだけにちょっとした手品に使えて気に入ってるんですよね。ま、そんなんでタネなんて明かしてしまうと簡単なもんです。要はどれだけ知識を有しているか、どれだけ適切な道具を有しているか、それを適切な場面で使用できるかって事だけなんでしょうね」

 タネをばらされた悔しさであろう感情を唇の端に滲ませ、船長は何度も少女を横目で睨んだ。対する少女は、雨足を強くする外の光景に負けず劣らずのどこ吹く風といった具合だ。唇を尖らせて、今にもさえずり出しそうな顔であらぬ方を見る。

 その視線の先には、山小屋には珍しい窓ガラスだ。〈鳥〉が外を見たいというから、わざわざシラトスで割れ憎いよう強化の魔術を帯びている品を買ってきた。その時ケリィ候から与えられた報奨金のほとんどが、二ヶ月は食べて行けるだけの金貨がこのガラスに消えてしまったが、〈鳥〉は随分喜んで、それだけでナグサも嬉しかったものだ。〈鳥〉は日に何度も何度も、日が暮れる寸前まで窓を磨いていた。少しでも空が見えやすいようにと。

 〈鳥〉がいなくなってからは、今夜のように嵐の晩、雨と風が心もち表面の埃を押し流していくばかりだ。汚れて白く濁ったその表面は、ナグサの濁ってしまった瞳同様、彼の独り身の期間がどれほどの長さだったのかを教えてくれている。

 船長はナグサの物思いを断ち切るかのように、手にしたままの杖を、ナグサにとってもすっかり見慣れた動作でクルリと回して見せた。

「いいですか、ナグサさん。私はね、フラミンゴの骨を探してるんです。『嘆きの深き東の谷』、つまりこのムルベ周辺にやってきた『紅い信者達』の、です。渡り鳥であるフラミンゴと翼人種の『紅い信者達』は、共に水辺でたたずんでいる姿が炎のようであった事から、共にフレイムになぞらえた名で呼ばれる事になった。遠目から見えた姿が何度も間違えられた事、そして昔から、天然の蓄力器として高価に取引されてきた紅い翼人種の羽根が、フラミンゴの羽根の偽物に摩り替えられるトラブルが多発した為、このムルベの山の辺りではジョーク交じりにどちらもフラミンゴと呼ぶようになったって説もあります……そうですよね、ナグサさん?」

 そう、なのか?

 フラミンゴとは鳥だ。

 〈鳥〉は鳥なのだ。間違えるわけが無い。

「そしてケリィ候の屋敷で見たあの楽器は――ムルベの魔除け楽器フラヴィットです。魔物の長たるフラミンゴの肋骨と肩甲骨の一部を利用して作るハープ。絃は同じフラミンゴの手足の腱を特殊な膠で強化して使用しています。そして材料はフラミンゴ――つまり紅い羽を持つ翼人種です」

 〈鳥〉は鳥だ。船長には何と言えばわかるのだろう?

 この地に、もうフラミンゴなど一羽も残っていないのだと教えるには、どうすればいいのだろう? だから〈鳥〉がフラミンゴではなく〈鳥〉であって、ナグサの〈鳥〉があの楽器に関係などないと――そう思い込ませるにはどうすればいいのだろう?

「ほとんど人間と変わらない外見と知能を持つ翼人種ですが、肋骨と肩甲骨の内部だけは違っています。目には見えない細かい穴が無数にあけられ、さらにその穴には魔術紋のような溝が刻まれ、天然の魔力生成器と化しているんです。そこでは地場や食物などから取り込む外部エネルギーを自らの魔紋と同調させて精製、増幅、放出する作業が行われている。そんな作業をする肋骨と肩甲骨を使って作られたこの楽器が、どのような性質をもつかわかりますか? 簡単です。この楽器を使って奏でられた音は、原料のフラミンゴと同じ魔紋を帯びていて、その場にそのフラミンゴがいると錯覚させるのです。少なくとも魔物と呼ばれる生き物にはそう感じられるはずです」

 それはシームから聞いた事がある。だからこそ、骨の加工には慎重に慎重を重ねるのだと。

 〈鳥〉は自分の体の仕組みも知らなかった。あれは本当に、この山から外へ出た事はないのだ。この山の中だけを渡り歩く、巡礼の民だから。女神を慰めるのに知識など要らないと教えられたから。

「フラミンゴの骨を持ち歩くと魔物が来ないというのも、半ば迷信、半ば本当の話なんです。肋骨か肩甲骨の骨を持っていれば、それは風にかざした虫笛と同じように、周囲の地場のエネルギーを精製し、魔物にはフラミンゴの存在を教える魔力を勝手に発する事になる。でもそれが件の部位でなければ、ただの骨でしかありません。魔物除けの効果はないでしょう」

 〈鳥〉は骨の山から細長い一本を取り上げて言ったのだ。『この骨なら、ナグサを守ってくれる』と。

 きっとそれは、船長のいう魔力を発する骨だったのだろう。〈鳥〉にはそれが感じられたのだ。そしてそれは、船長の話が本当ならそれは、肋骨か肩甲骨なのだ。

 ナグサは腰の骨に手を伸ばす。乾いて、指先にザラリと尖った感触が引っかかる。これは一体誰の、肋骨と肩甲骨のどちらの骨なのか?

「さて、雑学披露はこんなとこで止めて……ナグサさん、私はその翼人種の事を知りたい。もっと知りたくてここに来たんです。ナイフのことも、商談のこともあります。でも何よりも私は、そのフラミンゴの為に、貴方のところに来たんです。だから貴方にワラムズ金貨を五枚も払ったんです。貴方に、ここに案内してもらう為に」

 貴方の腰にぶら下がっている物の全てを尋ねにですよと、船長は変わらぬ笑顔でサラリと言ってのけた。

「安心してください、貴方の事は誰にも話さない。フラミンゴの事も、多分交わされたケリィ候との密約の事も。金額が少ないというのなら払います。大抵の条件は呑むつもりです。だから教えてください。大丈夫、私は貴方の秘密も話さないし、貴方を責めようってつもりもありませんから。……大体、今の貴方は薬でフラフラじゃないですか? 貴方の話した事は全て、私の仕込んだ薬のせいでいいじゃないですか? だから安心して、下手に隠そうとしないでください。貴方は知っているはずだ、私の知りたい事の全てを。そして、貴方しか知らないはずなんだ」

 頭が痛い。喉が渇く。吐き気にも似た拒絶と絶叫の誘惑がナグサの神経をささくれ立たせる。

 言いたいのだ、本当は。

 本当の事を。抱え込んでいて誰にも言い出せない己の事を。時折ナグサを苛む悪夢の正体を。

 だが言えない。

 なぜ?

 ナグサにもわからない。いや、わかってはいるのだ。だから隠したいのだ。他人からも自分自身からも。

 口にしてしまえばそれは、その時点で認めた事になってしまう。ナグサにしかわからない過去の時間の現実が、夢だったのだと思いこみたい思い出が、事実として真実としてナグサの中に、そしてそれを聞く船長とカノンの中に残ってしまう。

 だから言えない。

「フラミンゴだなんて……どうしてそんな、言いがかりをッ! どこに証拠があるっていうんだッ!」

「証拠なんてどこにでもありますよ。このカノンだって気づいた。この子はね、ナグサさん、翼人種の男に育てられたんですよ」

 ナグサの息が詰まった。

 カノンはすまし顔で、思わず振り返り見たナグサの顔を真正面から受け止めた。全てを跳ね除けそうな、そんな強い自己主張をする少女の美しい顔が、一瞬すうっと、吸い込まれそうにその気配を消した。山の獣がナグサの様子を見、無害だと知った途端緊張を緩めて立ち去っていく姿を連想する。

 そしてナグサは、彼の後を一生懸命追いかけてきた幼い男の子の、今にも泣き出しそうな瞳を思い出す。あの子は七歳だった。七歳まで人間だった。

「だからカノンは、翼人種が普段どんなものを使うかよく知ってるんです。例えば、北向きにある魔除けの丸い鏡、龍翼の象徴である二重菱の取っ手がついた小物入れ、七色の紐を編んで作られたかんざしの飾り、物置小屋の奥の柱に刻まれた追悼の絵文字、家の裏に置かれた桶の紫のシミはポスガンツユクサで染色した名残……全て、家の至るところに残された影は、翼人種の中でもフラミンゴだけが持っていた平和な家庭の文化なんですよ」

 船長はおおげさな身振りで両腕を一杯に広げて見せた。芝居小屋の三文役者が甘ったるいセリフを、声を張り上げて囁くように、勢い込んで語りかけてくる。

「何よりも、この小屋の静けさがおかしい。こんな山の真ん中にあって、小屋の周りに獣一匹の足跡、小鳥の囀り一つ聞こえないのは不自然だと思いませんか、猟師さん? 答えは簡単です。ここに住んでいたフラミンゴの気配を感じ取った獣達が近寄らないが為に起こった現象だからです」

 なぜだ?

 なぜこの男はこうまでしてあの〈鳥〉どもに執着する?

 なぜここまでして、忌まわしい出来事を知ろうとする?

 これ以上、一体何を知りたいというのか?

 船長は一体、何者なんだ?

 外の様子が、窓を叩く雨音がうるさい。遠雷まで聞こえ始めた。昼に見たオーレオテンツの青い光は、この先触れだったのかもしれない。このどうしようもなく追い詰められている感覚は、古のシラトス包囲戦を思い出すからなのか。なんだかうまく考える事ができない。

 当の船長はあくまで落ち着いていた。連れている少女も子供らしさを取り戻したらしく、つまらなそうに、大木を切り出しただけのテーブルに頬杖をついて大人二人のやり取りを眺めている。

 宿屋で最初の会話を交わした時と同じ調子で、背の高い大陸商人は促した。


「さあ、話してください。貴方の見たおそらくこの世で最後のフラミンゴの、その最期を」




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