第20話 ウイスキーフロート

 夜闇でおぼつかない足下をライトで照らして進む。忍び足で事務所へと向かい、昼のうちに開けていた窓から侵入し、中に誰もいないことを確認し机横の鍵束を掴む。これで行きたい場所への鍵は入手した。ドラゴンパークは不審者が侵入する想定をしていないのか、防犯面は驚くほどゆるゆるだ。一体大丈夫なのかと心配になるが今日ばかりはよかった。向かうはワイバーン舎だ。道中明かりをつけて行きたいところだが、さすがに夜警さんに見つかったらまずいため、月明かりを頼りに歩くしかない。電灯がない夜道を這っていく覚悟できたが、存外、道は光に照らされくっきりと見えている。月明かりだけでここまで夜が明るいとは思わなかった。満月の日は、ホタルにとって明るすぎるため光らなくなってしまうため観察には向かないと友人が言っていたのをふいに思い出した。

 しかし、怖さだけはどうしようもない。静寂の闇の中、ホオオオオオオオとドラゴンの唸り声が聞こえるたびに心臓がびくつく。目の端の草むらに見える影がぐにゃりと動いたように見える。動物園や学校のような、日中は人で溢れている施設ほど誰もいなくなった時とのギャップが激しく、誰かの念のようなものが残っているからなのか、時折、気配を感じてしまうのも始末が悪い。踵を返して家に帰りたくなる心を説得し、どうにかこうにかワイバーン舎に到着した。昼間はキラキラひかるガラス面は、月明かりに照らされぼんやりと輝き、青白く見える建物は何人も拒絶しているような印象を受けた。あたりに誰もいないことを念を入れて確認してスマホを取り出し、ライトで鍵穴を探しだして扉を開ける。そして休憩室を足早にかけ、寝室への扉の前で大きく深呼吸をして意を決して中へと入った。

 俺の入ってきた気配を感じてか、廊下の向こうでざわっと気配が動いた。電気を最小限につけ廊下を進む。初めに挨拶するのはもちろん幸子だ。

「寝ているところ明るくしてごめんよ。でもちょっとの間だけ我慢してくれないか?」

 幸子はうつ伏せのまま目を閉じたままだった。ドラゴンの耳がどこにあるのか分からないが、頭の角がぴくぴく動いているのを見る限り、話を聞いてくれているようだ。節子も太郎も同じだ。みな、見て見ぬふりをしてくれるらしい。そして、お目当ての花子と向き合った。花子は入った瞬間から、俺の姿をずっと目で追っており、シューッシューッと終始、威嚇していた。けれど他のワイバーンを起こさないように遠慮してか、いつもの尻尾攻撃はない。下手に騒いだら、うるさいと怒られるのだろう。それにつけ込む形で、俺は花子の前の、鉤爪の届かない場所にどかっとあぐらをかいて座った。ぎろりと睨みつけられ、心臓がすくみ上がりそうになるが心を落ち着かせ口を開いた。

「数日ぶりだな、花子」

 声をかけると目の前のドラゴンから、殺気がわき上がった。殺意を正面からまともにくらった体はすっかり縮み上がり、ドクドクドクドクドクと心音が跳ね上がる。それでも俺は続けた。

「牛の骨、だいぶ痛かったぞ。あんなことすれば俺が辞めると思っていたなら残念だったな。河合家で育った人間は、どれだけ落ち込もうと立ち直りだけは早いんだ」

 花子の怒気はますます膨れ上がる。尾上さんが説教したと言っていたが、まるで反省した様子がない。かろうじて物理攻撃をしないで踏みとどまっているのは、寝ている幸子を起こしてしまわないようにという気持ちがあるためだ。だが、臨海点を越えたらそんなものあっという間に弾け飛ぶだろう。

「俺は仕事だからここに来ただけで、別に好きで来たわけじゃないし、ぶっちゃけドラゴンなんてトカゲの仲間ぐらいにしか思っていなかった。そんなドラゴン愛の欠片もないような人間が島本って人間の後にきたら、そりゃあ気にくわないだろうな」

 ――島本くんはね、結局、花子に何も言わずに行ってしまったの

 東さんがそう、寂しげに言っていた。島本。話したことも会ったこともない、俺の前任。もういないっていうのに、どこもかしこも彼の痕跡であふれていた。

「島本がどういう人間か俺は全く知らない。俺よかよっぽど出来が良かったんだろう。だが、それがどうした? 俺は俺だ。そして俺に出来ることをやるまでだ」

 今からやろうとしていることは、計画性なんてまるでなく、どう転ぶか全く分からない。それでも、ここまで来てしまった以上やるしかない。スマホを取り出し、東さんの机にあった昨年の緊急連絡網に書かれていた電話番号をうつ。防犯だけでなく個人情報管理もゆるゆるだが今はそれに感謝し、電話がつながるのを確認して花子の前に置いた。

『はい、島本です』

 若い男性の声が獣舎に響きわたる。声に反応して花子はうなり声をあげるのを止めた。

『メールで連絡をくれた河合さんですか? ドラゴンのことで相談したいことがあると文面に書いてありましたが、どういった内容で……』

「グル、ル……」

 花子が檻の前で喉をならすと、声の主の息をのむ音が聞こえた。

『……花子?』

「グルルルルル」

 とまどった声に花子が応えるように鳴くと、ガタガタッとスマホが落とされた音が聞こえ、電話の向こう側での彼の慌てぶりが手に取るように分かった。スマホを持ち直す音が聞こえたが、その手は震えているようだった。

「もしこの電話を切ったら、お前の花子ノートのスクショをパーク全職員に送りつけるからな」

 先手をうつと、うっとうめく声が聞こえた。

「俺に言いたいことは色々あるかもしれないが、今はそんなことどうでもいい。花子と話せ」

『……俺は彼女より自分の将来を選んだ。こんな自分勝手な野郎が花子と話すことなんで出来ない』

「うるせぇ。こちとらお前が中途半端な別れ方をしたせいで、花子からいじめられるわ、唾吐かれるわ、牛の骨を投げつけられるわ、入院させられるわでかなり大変だったんだぞ。ちょっとは俺に申し訳ないと思え。思ったなら、花子と向き合え」

『そんな資格あるわけ……』

「資格? そんなんお前が自分で勝手につけた枷だ。俺にも花子にも関係ないっ!」

 カッとしたまま吐き出した言葉に、彼は黙り込んだ。重苦しい沈黙が訪れる。あまりの息苦しさに息がつまりそうだが、ここから先は、彼らの成り行きを見守るしかない。4月の割には少し冷え込む夜の闇を、煌煌と照明が照らしていた。

『花子……いきなりお前の前から消えるようにいなくなってしまってごめん』

 沈黙を切ったのは、絞り出すような島本の声だった。

『彼の言うとおり、俺はお前にもう会う資格がないとか、言っても伝わるか分からないとか、ぐだぐだ理由をつけて結局のところお前から逃げた。どうしようもない卑怯者だ』

 淡々と語っているのに、それは絞り出した悲鳴のように聞こえた。

『最後の言葉を告げてしまえば、お前との関係がすべて終わってしまうかもしれないと思って怖かった。お前を傷つけたくないなんて言い繕って、自分が傷つきたくなかっただけだった。ごめん……でも、俺はもう、お前とずっと一緒にいられない。許してくれなんて、言えない。でも……』

 花子は尻尾で俺のスマホをたぐりよせ、顔の前に掲げた。

「グルル」

 そして、言葉に詰まる島本を励ますように、スマホに向けて穏やかに喉を鳴らした。

『花子……』

 島本の、泣きそうな声が響く。言葉にしなくても、彼らの間に伝わる絆があるのだろう。

 やれやれ俺はしがない傍観者だ……と、一昔前のラノベ主人公のように気取ろうとした直後。

 花子はスマホを掴む尻尾を掲げ――思いっきり地面に叩きつけた。

 ガシャーンッと音とともにスマホが粉々に砕け散る。

「グルアアアアアアアアアッ!!!」 

 花子が、吼えた。激情にかられた咆哮を聞きながら俺は、まだ端末代を支払い終えていないスマホが散りゆく様を呆然と眺めるしかなかった。どうしてこうなったと俺は花子に目を向け、はっと息をのんだ。花子は泣いていた。ボロボロと両目から涙を流す様を見て、ようやく分かった。これは彼女なりの訣別なのだろう。花子は最初から理解していたんだ。島本がここを去ることを。辞めたくて辞めたわけじゃないってことを。捨てられたわけじゃないってことを。でもだからといって、はいそうですかって簡単に納得できるわけじゃない。気持ちの整理がつかず、俺にあたっていた。

「頭で分かっていても、仕方ないって割り切れるもんじゃないよな」

 心の傷は癒えることはない。傷口から溢れでてくるグチャグチャになった感情を涙で何度も洗い流していくしかない。傷は自分の一部でもあると受け入れられるその日まで。

 泣き叫ぶ花子に、なにか慰められるようなものでもないかと休憩室へいくと冷蔵庫の上に花子用と札にかかれたレミーマ○タンがあった。なぜ、これに花子用と書かれているのか。ご丁寧に隣には蜂蜜とミネラル水も置いてある。もしやと冷凍庫をのぞけば、氷ときた。これは割って飲めと言っているようなものだ。

 ウイスキーを抱え花子の元へ戻り、近くにあった銀色のボールに水と蜂蜜をいれその上にウイスキーを注ぐ。側に置くと、花子はしゃっくりを上げなら鉤爪でボールをひっぱりたぐり寄せ、器用に持ち上げるとグビグビと喉をならし飲んだ。そしてあっという間に飲み干すともっと寄越せと言いたげに、ボールをこちらに戻した。

「良いのみっぷりだな」

 ドラゴンにアルコールはどれぐらい飲ませても良いのだろうか。過去に、逃げ出したドラゴンに眠るまで飲ませていたと言っていたから、気持ちを落ち着かせるぐらいなら大丈夫だろう。

「今日は飲むぞ、花子」

 ボールに再び割ったウイスキーを作り、花子に付き合うようにもう一つボールを用意し自分用にも作る。なみなみとボールについでしまったウイスキー水割りに、ちょっとこれは作りすぎたなと思いつつ、花子にボールを手渡し、自分もぐびっと飲んだ。相手の飲みっぷりが良いと、自然と酒はすすむもの。誰かのおやつのチーズとナッツのつまみがあるのも良かった。そうしてほろ酔い気分になるともう歯止めは効かなくなる。そのうち、何杯目を飲んだのか数えられなくなり、今作っているウイスキー水割を花子用に作っているのか、自分のために作っているのか訳が分からなくなった。ふわふわ気分で視界もぐるぐる回り始めた頃、花子も結構酔いがまわったのか、泣き疲れたのかうつ伏せになり寝息をたて寝始めた。そんな花子の様子を見て、少しは気持ちが落ち着けただろうかと思った次の瞬――俺の意識はブラックアウトした。

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