第3話

「ママ、あのね」

 志保の仕事の愚痴は減っていた。少し前に、新入社員の教育を任されてふてくされていたくらいだ。人事部が仕事をしない。自分の仕事は製品開発なのだと憤慨していた。だから、私は油断していた。

「プロポーズされた」

「え? 誰に?」

 そんな馬鹿な質問をしてしまうほど、春田くんの印象は薄かった。結婚する、と志保は言う。決め手を聞くと、「なんとなく」と返ってきた。ああ、数年前の不安は当たってしまった。どうしてそんな大切な選択を「なんとなく」で決めてしまうのだろう。

「本当にいいの? ちゃんと考えた?」

 金銭的な問題はないか。女癖が悪かったり、最近よく聞くモラハラ男だったりしないか。男なんて蓋を開けてみたらどうかわからない。初めは王子様でも、すぐに魔法が解けてただのヒキガエルになってしまう。せめてヒキガエルよりはマシな生き物を選んでほしい。一生いっしょに生活するんだから。

「うん。一応」

「一応じゃダメでしょう。人生の岐路なんだから、もっと真剣にならなきゃ」

「だって、何をどう考えればいいかわからないよ。ママはどうしてパパと結婚しようと思ったの?」

 それを言われると困る。あの頃の私は夫に真剣に恋をしていて、プロポーズに舞い上がって一も二もなくイエスと言ったのだ。後のヒキガエルとは知らずに。「なんとなく」の志保より悪いかもしれない。強いて言えば銀行員という堅実な職で真面目な性格で歯並びがよかったからだろうか。今となっては堅実な職以外はどうでもよくなってしまった。

「再来週の土日にあっちの実家に行くんだけど、何着てけばいい? 美容院って行った方がいいの?」

 どうやら志保はその相談がしたかったらしい。私も母に同じ質問をした。母はいつものようにやさしく答えてくれた。そう言えば、母は私の結婚に異を唱えなかった。年収や学歴を気にしたのは父の方だ。今まで私に興味があるのかすら怪しかった父が急に根掘り葉掘り私の愛する人――かつては本当に愛していた――を疑うのが心の底から腹立たしかった。母は父と私から等距離のところに座り、やさしい笑みを浮かべて私を見ているだけだった。

 母はきっと私がヒキガエルと結婚しても何とか生きていくと信じていてくれたのだろう。あるいは、相手がヒキガエルとわかったら、身を挺して私を守ろうと決めていたのだと思う。私も母のように娘を信じ、もしものときには身体を張って助ける覚悟を持たなければならない。ここはぐっと我慢して、志保を見守ろう。

「私はシンプルなワンピースで行ったよ。美容院も行ったけど、頻繁に帰省して会うなら最初からおしゃれしない方がいいね。いつも頑張らなきゃいけなくなるから」

「あ、そっか。そうだね。見栄張るのやめとこ。うちには来月行くから、パパにも言っておいて」

 志保が結婚すると聞いた夫の狼狽は無様だった。私は母がどうしてあんなに穏やかにしていたかわかった気がした。

 春田くんは顔が丸く、見るからに温和そうな子だった。王子様ではないけれど、今のところヒキガエルでもない。動物にたとえるなら、お腹いっぱいご飯を食べた柴犬だろうか。志保を本当に好いているのがわかったので、私は少し安心した。もちろん、これからどうなっていくかはわからない。春田くんがヒキガエルだったら、という私の覚悟は変わらない。志保は結婚しても仕事をやめないらしい。不景気なので、共働きの方がいいだろう。

「ママ、あのね」

 結婚が決まれば大忙しだ。志保からの電話は結婚式一色になった。白無垢かドレスか。チャペル、神前、今は人前式というのもあるらしい。エステは受けたか、親戚はどの範囲まで呼ぶべきなのか、引出物は、と志保の疑問は尽きない。私もいっしょになって結婚情報誌を読み、最新の結婚式事情を調べた。

「会社にはまだ言ってないし、結婚した友だちはみんな言うことが違って困る」

「今は選択肢が多いから、かえって大変ねぇ」

 口では大変と言ったけれど、私は楽しくて仕方がなかった。私が結婚するときも、こうして何もかもを母に聞いた。母は今どきの流行りはわからない、時代遅れだったら、と前置きしながら色々教えてくれた。早々に飽きてしまった夫を残し、母とふたりでドレスや白無垢を見て回った。招待状の宛名書きも手伝ってもらった。

「ママになんでも言いなさい」

 私はあなたの母親なんだから。

「うん。ママ、ありがと」

 しあわせな結婚式だった。志保は私が勧めたドレスを着て、とてもきれいだった。私は誇らしかった。母親でなければ「見てよ。美人でしょう?」と招待客の一人一人に言って回りたかった。春田くんも志保も仕事の段取りがつかず、新婚旅行に行ったのは三ヶ月以上経ってからだった。たくさんのお菓子と、おしゃれなスカーフやハンカチや香水をお土産にくれた。ハンカチは今日も持ってきている。膝の上のハンドバッグをのぞくと、明るいオレンジ色が見える。それだけで、凱旋門がどんなに眺めがよかったか、食事がどれほど美味しかったか話す志保を思い出してうれしくなった。

 今日の温泉もご飯がおいしいといい。たまにはお酒でも飲んで、洗いものも明日の朝食も気にせず、志保とのんびり過ごしたい。先週、志保は結婚記念日があった。春田くんと食事にでも行ったのだろうか。プレゼントをもらっただろうか。惚気話を聞いてあげよう。新婚の初々しい話は私の潤いにもなる。

あちらのご両親とはうまくやっているだろうか。私はなかなか子どもができず、義両親にずいぶん白い目で見られた。母は私が子どもだった頃のように「あなたは悪くない」ときっぱり言ってくれて、病院にもついてきてくれた。私も母と同じように、志保の味方でいよう。これまでだってずっと母と同じようにやってきた。私と志保は初めこそうまくいかなかったけれど、今はかつての母と私のようだ。いっしょに温泉まで行くんだから。本当に、諦めなくてよかった。

 クラクションの音がして顔を上げる。丸っこい輪郭の軽自動車がゆっくり走ってきて、私の前で止まった。運転席で志保が手を振っている。私は早速助手席のドアを開けて乗り込んだ。

「ママ、ごめんね。お待たせ」

「大丈夫。事故大変だった? 渋滞は長かったの?」

「うん、結構いろんなものが飛び散ってるみたいで、規制区間が広かった」

「そうなの。志保が巻き込まれなくてよかった」

「ちゃんと安全運転してるよ」

「あなたが安全運転でも、周りの車が安全運転じゃなかったらダメでしょ」

 志保はこの一時間一台も車が通らなかった道の後方をきちんと確認してからアクセルを踏んだ。なんていい子に育ったんだろう。運転を教えたのは私ではないけれど、誇らしい気持ちになる。

「今日の旅館はどんなところなの?」

 私は高校の修学旅行の前のようにはしゃいでいた。

「温泉なんて何年ぶりかな。お父さんは全然旅行にも連れていってくれないの」

 連れていってくれたとしても、こんなにわくわくはしないだろう。夫との旅行なんて義務的でつまらないに決まっている。

「お隣の加藤さんにビワをもらったから、お土産を買わなきゃ。いっしょに選んでね」

 志保はまっすぐ前を見て運転している。反応が薄いのは運転に集中しているからだと思っていたが、どうも様子がおかしい。どうしたのだろう。私との旅行が楽しくないのだろうか。ふとおとずれた沈黙が悲しくて、私は必死に話題を探した。

「ママ、あのね」

 なあに、と私は答えた。

「妊娠したの」

 え?

「すっきりしたー。いつ言おうかと思ってたんだ。お風呂がいいかな、寝る前がいいかなって。黙ってられなくて言っちゃった」

 えっと、こういうときはなんて言うんだっけ。そう、おめでとう、だ。

「おめでとう」

「ありがとう。昨日も先生に順調ですって言われたんだよ」

 そうなの。順調なの。じゃあ、もう少ししたらお腹が出てくるのね。でも、どうして? なんで妊娠したの? だって子どもができたら、子どもにかかりきりになるじゃない。

 やっと理想の母子らしくなってまだ五、六年しか経っていない。始まったばかりなのに、もう水入らずの時間は終わり? 嘘でしょう? 私と母はもっとたくさん二人だけの時間を過ごした。私は物心ついたときから母とべったりだったし、就職しても結婚しても、落ち着いたらすぐに母と食事や旅行に行った。本当はもっと母と過ごしたかった。志保が連れ歩けるような年になったら、またいっしょに旅行に行こうと思っていた。

 志保の子育てが一段落するのはいつ? 五年? 十年? 十五年? そのとき私は何歳? それから何年、志保と二人の時間を過ごせるの? こんなひどい話はない。ようやく志保がまともに娘らしくなったのに。私の努力が報われたばかりなのに。ひどいひどいひどい。

「ママ?」

 やっぱり志保は私のような娘にはなってくれなかった。私はちゃんと母のような母親になった。母と同じように娘の味方になって、母と同じように娘が誇れる母親になって、母と同じように知っているすべて教えて、母と同じように……。

「ママ? ママ、どうしたの?」

 母と同じようにしてきたのに、どうして私は娘の妊娠を喜べないのだろう。



Fin.

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ママ、あのね タウタ @tauta_y

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