第2話

 彼には、他に好きな人ができたと振られた。一学年上の先輩。私は顔も名前も知らなかった。こっそり見に行ったら、大人っぽい美人だった。私は家に帰って母に泣きついた。振られたこと自体もショックだったが、先輩が私より美人でとうてい太刀打ちできないのもショックだった。あんな美人には勝てないな、と心のどこかで負けを認めてしまった自分も嫌だった。小学生のときはデブといじめられたけれど、高校生の私はスリムだったし、クラスの女子を半分に分けたらかわいい方に入ると自負していたのだ。母は私の話を一頻り聞き、

「見る目がないわねぇ」

 と、言った。彼を怒るでもなく、私を慰めるでもなく、母の感想のようだったが、私はずいぶん心が楽になった。

 以来、私は結婚までに数人の男性と付き合った。友だちとも恋愛談義をしたけれど、母ほど何もかも話しはしなかった。母としゃべるのが一番楽しかった。母はなんでも答えてくれたし、どんな相談も真剣に聞いてくれた。恋人ができてから振られるまで――なぜか私は圧倒的に振られる側だった――ずっと寄り添ってくれた。

 私も母と同じように、自分の娘の恋愛に寄り添おうと決めていた。村上くんの後にも、志保には何人か彼氏がいたらしい。ずっと携帯電話をいじっていたり、校則に引っかからない程度に色の濃いリップクリームを塗ったりという小さな行動の変化からの私の想像だ。志保は何も教えてくれなかった。村上くんのときのように、「別れた」と言われたらどうしようかと、私も踏み出せなかった。

 私の決意が空回っている間に志保は高校三年生になった。志保はいつの間にか志望校を決めていた。私にはなんの相談もない。この大学はどうかとか、将来こんな職業に就きたいとか、そんな大事な話をどうして母親の私にしないのだろう。

「一人暮らししたい」

 志保が夫と私に話したのはこれだけだ。隣の県の短大で、栄養系の学科だった。就職率は悪くないし、金銭的な問題もない。夫は関心があるのかないのか、二つ返事で了承した。私は志保ともっと話し合いたかったけれど、反対要素がないのだから仕方がない。とうとう私と母のような関係を築けないまま、志保は私のそばからいなくなってしまった。

 私の夢見る母子像はまぼろしに終わった……と思っていたら、志保はちょくちょく連絡を寄越した。最初は電話だった。

「ママ、あのね。お米一合って何カップ?」

「炊飯器に計量カップがついてるでしょう? あれ一杯分」

「あ、わかりやすい。そっか。ありがと」

 電話は切れた。呆れてしまう。あの子、そんなことも知らないの? 家庭科で習わなかったのだろうか。栄養系の学科でやっていけるのだろうか。うちの米櫃はボタンを押すと三合までなら勝手に量ってくれるから、その弊害だろう。

 それからも、志保は家事に困ると電話をかけてきた。白いシャツに醤油が跳ねた。フライパンにチーズがこびりついて落ちない。豚の生姜焼きがおいしくない。今さら、と思った。どれもこれも、志保が家にいる間に教えたかった。私が母に教わったように。

 志保はどうして急に私に連絡するようになったのだろう。家にいたときは私が話しかけるまで何も言わなかった。まるで、誰かから諭されたみたいだ。もしかして、お母さん? お母さんが志保の守護霊になって、導いてくれている? きっとそうだ。母の霊が、ちゃんとママを頼らなきゃダメよ、と志保にメッセージを出しているのだ。そう考えたら、久々に背筋が伸びた。私が目指す母と子はまぼろしなんかじゃない。これから作り上げていくのだ。

「ママ、あのね」

 志保は次第に家事以外についても話すようになった。

 帰りが夜遅くなるバイトをどう思うか。

 果物は案外高い。

 授業はきちんと出ている。

「足りないものはないし、別に困ってないよ」

 新しい服を買ったとメールが来て、写真が送られてきた。私も何か写真を送ろうと思ったけれど、これと言って写す物はない。そもそも、撮った写真をどうやってメールで送るかわからない。志保がせっかく話しかけてくれるようになったのに、このままではいけない。私は近所の携帯ショップに行き、LINEやSNSを知ってスマホに替えた。夫は私のスマホデビューを冷ややかな目で見ていた。使いこなせるのかと嫌味を言われたが、使いこなせなくたっていい。志保とLINEをしたり、きれいな写真――画素数が高いと言うそうだ――を送り合ったりするのに必要なだけ。それ以上に大切なことがあるだろうか。きっと夫には一生わからない。

「そのかわいい絵はどうやって出すの?」

「スタンプ? 下のところ触ると出るよ」

 LINEも写真の加工も志保が教えてくれる。スピーカーで話しながら、志保のガイドに沿ってスマホを操作する。楽しい。

 志保はどうして急にたくさん話してくれるようになったのだろう。同じ短大に行った友だちがいないからだろうか。新しい友だちはできなかったのだろうか。母と娘の時間を持てるのがうれしい反面、さびしい思いをしているのではと心配になる。

「お友だちとも、こうやってLINEでやり取りをするの?」

「用事があるときはね」

 友だちがいないわけではないようで、私はひとまずほっとした。アルバイトや授業や家事やその他の雑多な会話から察するに、どうも「スタンスの合う友だち」がいないらしい。

「高校の友だちとはたまに会うけど、みんな四大行ったし」

 私は一応四大を出ている。仲良しもみんなそうだった。友だちの半分の時間で大学を卒業するとは、どういう感覚なのだろう。

「働いてる子とは会えないし」

 社会人になれば、自由な時間は悲惨なほど少なくなる。私も就職してから連絡が途絶えた友人が何人もいた。友情とははかないもので、似たような人生のステップを経て似たような時間の流れを共有しないと、続けるのは難しい。

「大学の友だちは、しゃべっててもなんかズレる」

 何がどう違って、どうずれているのか、志保は深く話さなかった。私も聞こうとは思わない。志保がさびしい思いをしておらず、私と二人の時間を持ってくれるのだから、文句なんかない。

「ママ、あのね」

 また、十一月だった。

「彼氏できた」

 中学三年生のときとは違う。今度は別れる前だ。しかも、志保から私に打ち明けてくれた。感慨深い。スマホを持ったまま居間をぐるぐる歩いてしまう。ようやく。ようやくだ。

「そうなの。どんな人?」

 アルバイト先の先輩らしい。志保はファストフード店でアルバイトをしている。大きな通りに面しており、女性は遅くても夜八時までしか勤務させないルールがあるというので、私も安心している。

「かっこいいよ」

「背は高い?」

「え? 高いけど、なんでそんなこと聞くの?」

 志保は電話の向こうで笑っている。なんでって、身長は大事でしょ?

「だって、背が高い方がいいじゃない」

「パパは小さいじゃん」

 それを言われると返す言葉はない。自分でもなぜと思う。若かったから、としか言いようがない。一時の気の迷い。迷って、迷って、迷いっぱなしだ。夫はさておき、私は昔から背の高い異性が好きだったし、面食いだった。スポーツ選手よりも俳優よりもジャニーズが好きで、今でもよく歌番組を見る。

「やさしい人?」

「うん、やさしい」

「デートはどこに行くの?」

「映画とか行って、ご飯食べる」

 ふうん、その辺りは私の頃とあまり変わらないのね。デートの費用は割り勘と聞いて、もしや苦学生なのかと聞いてしまった。志保はまた笑っている。私はデートのお金なんて一度も出さなかった。今では考えられないけれど夫も、その前の彼も、私には一円も出させなかった。

「ケーキくらいならいいけど、ご飯奢ってもらうと高いもの頼みにくくない?」

 考えもしなかった。男の人ってお金をたくさん持っているものだと思っていた。最近はそうでもないようだ。不景気って嫌だ。志保から送られてきた先輩の写真はちょっとピンボケしていたが、ワイルド系のイケメンだった。志保はこういう男の子が好みなのね。

 志保は電話のたびに先輩の話をするわけではなかった。私が水を向けると話すけれど、洗濯をしたら色移りしたとか、一限目は眠いとか、そういった雑談と同じトーンで話す。恋愛はもっときらきらしているはずだ。私は恋をすると、彼に関するすべてが嬉しくて、輝いているように見えた。志保はずいぶんドライだ。彼氏ができたと聞いてからまだ一月経ったばかりなのに、もう色褪せた雰囲気をただよわせている。

「ママ、あのね。別れた」

 半年ほどで、あっさりと。

「どうしたの? 喧嘩したの?」

「ううん。なんとなく。もういいかなって」

 中学生のときも、似たようなことを言っていた。大げんかをしたり、浮気をされたりしたのだったら、いっしょになって怒ったり悔しがったりしたが、なんとなくなんて言われたら、私も「あら、そうなの」しか言えない。今どきの子はこんな風に後腐れなく別れるのが普通なの? それとも、志保がそういうタイプなだけ? なんだか納得いかないけれど、円満が一番に違いない。数日前にも痴情のもつれから相手を刺した男のニュースを見た。志保がおかしな男に引っかかるとは思っていないが、離れているのでやはり心配になる。

「さびしくなるね」

「別に、そうでもないよ」

 志保はあっけらかんとしている。返事を聞いてわかった。今どきの子がこうなんじゃない。志保がこういう子なんだ。痴情のもつれや泥沼とは縁がなさそうでほっとする反面、「なんとなく」の一言で結婚までしてしまいそうで不安になる。さすがにそれはないと思いたい。ううん、安心できない。たくさん連絡をくれるから忘れていたが、志保は私に相談もなく大学を決めた前科がある。今後の人生を大きく左右する選択を、母親である私にまったくしない。

「志保、結婚したい人ができたら、する前にママに言いなさい」

「えー、何それ。結婚なんて考えてないよ。先に就職しなきゃ」

 ああ、そうだ。就職先。それも一人で決めたりしないでね。ママは専業主婦だから仕事については当てにならないと思わないで。そりゃ、実際当てになるかどうかはわからないけれど、誰かの意見を聞くのはとても大事なんだから。まずはママに頼って。ママに聞かせて。なるべく潰れなさそうな会社にしなさい。今は大きな会社でもすぐ倒産するから、名前だけでは当てにならない。ちゃんと財政基盤のしっかりしたところを選ばなくちゃ。

 志保は、私が志保をどれだけ案じどれだけ愛しているか、たぶんわかっていないのだろう。少しでもわかっていれば、もっともっと私を頼るだろうし、大事な相談もするはずだ。親の心子知らずとはよく言ったものだなあ、と思う。

「ママ、あのね」

 大学生の志保は、十年くらい時を戻して家にいてほしいと思うくらいだった。ゴキブリが一日に二匹も出たと笑って電話が来る。炊き込みご飯がおいしくできたとLINEが来る。レポートの字が汚いと先生に叱られたと怒りながら電話が来る。お習字、ちゃんと行かせたのに……。

 二年なんてあっと言う間だった。志保は食品系の会社の開発部門に就職した。小さな会社だけれど、ロングセラーの商品を出していて、経営は安定しているらしい。商品のいくつかは私も知っていた。やはり事前の相談はなく、ある日面接に行ってきたと言われた。就職し、志保はさらに遠くの県に行ってしまった。連絡も減った。仕方がないとわかっている。昼間は仕事がある。でも、やっぱりさびしい。

「ママ、あのね」

 やり取りの頻度が減ったのもさびしいけれど、私が教えられることがぐんと減ったのもさびしい。仕事についてはあまりアドバイスができない。私は三年くらいで寿退社してしまったから、新人の域を出られなかった。それも三十年前の話だ。聞けば、今はお茶汲みがないらしい。みんなマイボトルに好きな飲み物を入れて持ってきているそうだ。時代は変わったのだとしみじみしてしまう。

「電話きらい。何言われてるかわかんない」

「入社したばっかりなんだからしょうがないじゃない。大丈夫。すぐにわかるようになるから」

「先輩たちがみんなすごくて、あんな風になれる気がしない」

「先輩はみんな男の人?」

「男の人が多いけど、女の人も思ってたよりいる」

 志保がどんな仕事をしているのか、私は詳しくは知らない。教えてもらっても、耳慣れないカタカナの言葉が積み上げられていくばかりで、ちっとも頭に入ってこなかった。何を言われても、私はうんうんと相槌を打ちながら聞くだけ。それでいいのだと思う。私の母もそうだった。ただ、聞いてくれた。仕事の話なんて大半は愚痴で、聞いてもらえばすっきりする。

「ママ、あのね」

うまくできない、今日も失敗した、とめそめそしていた志保に後輩ができ、もう一年経ったのかと時の早さを実感する。何かのチームに入れられ、先輩が主導する新しい仕事を手伝うのだと言う。

「先輩は一瞬でできるのに、私は倍以上かかる。でも、入力は速いねって言われた」

「褒められたのね。すごいじゃない」

 仕事は順調らしい。周囲ともうまくやっているようだ。同期に誘われ、初めて合コンに参加したとLINEが来た。楽しかった? 何人だったの? 男の子はかっこよかった? 私の方が興奮して、矢継ぎ早に質問してしまう。呼び方が違うだけで、きっと私が若い頃にも同じような集まりはあった。でも、私はそんな遊びを知らないまま夫と結婚してしまった。あーあ、プロポーズされて舞い上がったまま結婚するんじゃなかった。もっと違う出会いがあったかもしれない。私に寄り添ってくれる人、夫や父のように冷淡じゃない人と巡り合いたかった。

「連絡先は交換したの?」

「全員とした。誘ってくれた同僚が、みんなでしよって言ったから」

 その場で格差が見えないようにするためだろう。なかなか考えられている。

「誰かから連絡来た?」

「うん。斜め右に座ってた人からメールが来た」

「どんな人? かっこいい? 芸能人だと誰に似てる?」

「顔よく覚えてない。かっこよかったかなぁ? メガネかけてた気がする」

「覚えてないなら、きっと好みの顔じゃなかったのね」

「そうなのかな」

 私の予想はぴたりと当たった。数日後に志保から電話があり、食事に誘われたので行ってきたが好みではなかったと聞かされた。ほら、やっぱり。私は志保のことはなんでも知っている。だって、志保は私の娘で、私は志保の母親なのだ。

「悪い人じゃなさそうだから、しばらく付き合ってみる」

 志保は村上くんやバイトの先輩と別れたときのように淡々と言った。この子の恋愛は淡々と始まり、淡々と終わる。きっと今回もそうなのだろう。案の定会話には彼の名前――春田くんと言うらしい――はあまり出てこなかった。仕事の愚痴、月曜日のドラマ、正月休みに帰ってきたら食べたい私の料理。雑多な話題が取りとめもなく流れていく。たまに私が思いつきで様子を聞かない限り、春田くんは話題にならなかった。

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