ママ、あのね

タウタ

第1話

 電車を降りるとセミの声が吹きつけた。山全体が振動しているみたい。自動改札のない駅に来るなんて、いつぶりだろう。半袖シャツの駅員さんが、切符を受け取ってくれた。

 駅の前の道は白っぽく焼けている。この日差し、日傘で防げるだろうか。少し不安になったが、駅の隣に箱型のバス停があった。よかった。五十を過ぎて肌の心配も何もあったもんじゃないけれど、気になるものは気になる。日焼けに加えて、熱中症も怖い。

 私はバス停のベンチに腰掛け、一泊分の荷物を膝に置いた。スマートフォンで時間を見る。今、十一時二十五分。志保からLINEが来てから、まだ八分しか経っていない。トンネル事故で大渋滞に巻き込まれたという報告をもう一度読み直す。一時間くらい遅れるらしい。あと、五十二分。ステンレスボトルのお茶を飲んでから、トイレが心配になった。きっと駅の中にはあるんだろうけれど。いざとなったら駅員さんにお願いして入れてもらおう。

 それにしても、嫌になるくらいの晴天だ。夜もこれくらい晴れるだろうか。山奥だから星がきれいだろう。娘と二人、露天風呂で星をながめるなんて最高だと思う。抑えていたそわそわの虫が騒ぎ出す。母子水入らず。何を話そう。夫の愚痴の言い合いっこはまだかもしれない。志保は去年結婚したばかりだから、まだラブラブよね。でも、新婚だからと甘やかすと、男は家事を何もしなくなる。気をつけるようにもう一度言っておかなきゃ。

 娘と二人。母子水入らず。

 急に色々な思いがこみ上げ、私はため息をついた。ようやく、理想の母親と娘になれた。長かった。志保はなかなか思い通りの娘になってくれなかった。私には私の母というお手本がいたけれど、志保にはお手本がいなかったのだから、仕方がない。

 私の母は、本当に完璧な人だった。編み物が得意で、料理上手で、外出しなくてもうっすらとお化粧をしていた。美人だった。家は隅々まで掃除され、必ずどこかに花が飾られていた。何より、いつも私の味方になってくれた。小学生の頃の私は太っていて、運動ができなくて、ずっといじめられていた。クラスの男の子に始終デブとかブスとか言われ、女の子の友だちもいなかった。先生も父も私の味方ではなかった。父など私に面と向かって「お前がデブでブスなのが悪い」と言い放った。母は泣き出した私を抱きしめて、「あなたは悪くないから、泣かなくていいのよ」と慰めてくれた。

 母は私の一番の味方で、一番の先生だった。編み物はうまくならなかったけれど、料理のレシピも簡単に台所をきれいに保つコツも、すべて母から教わった。育児もだ。私は育児書なんて読まなかった。夜中に授乳しながら上手に寝る方法や、離乳食を食べないときの対処法も母が教えてくれた。

 私の妊娠がわかったとき、母はとても喜んでくれた。志保が生まれた日の喜びようといったら、思い出すだけでおかしくなってしまう。おしとやかで物静かな母がいつにない大きな声で、なんてかわいい子なのか、絶対に美人になる、いい子だいい子だと志保を抱いてくり返していた。母が喜んでくれるだけで、産んでよかったと思った。

 七五三はランドセルはと楽しみにしていたのに、母は志保が二歳のときにくも膜下出血で他界した。私は身も世もなく泣いた。父も夫も当てにならなかった。二人とも私を慰めるどころか、いつまで泣いているのか、家事は育児はと私をせっついた。やっぱり、私の味方は母しかいない。母に会いたかった。会って、「あなたは何も悪くない」と言ってほしかった。母と過ごした時間を取り戻したかった。

 ある日、私は気づいた。私が母の代わりに、娘が私の代わりになればいい。私と母が過ごした時間を、今度は娘と私が作ればいいのだ。

 私は泣くのをやめた。母は私の前で泣いたことなどないから、私も娘の前でなくわけにはいかない。母が私にしてくれたように、絵本の読み聞かせを始めた。志保が小学校から帰ってくるときには、必ずおやつを作って家にいた。志保は子どもの頃の私と違って太らず、運動のできる子に育った。友だちが多くていじめとは縁遠い。私の子ども時代とはあまりに違ったけれど、つらい思いなどしない方がいいに決まっている。

それにしても、志保は不思議な子だった。

「ママ、あのね」

 志保が小学校二年生のときだ。布団に入って電気を消して、さあ寝ようというとき、志保が声を潜めて話し出した。

「わたし、ひどいことしちゃったの」

「えっ?」

 ひどいこと? ひどいことって何? お友だちに意地悪をしたの? まさか、いじめ? いじめられっ子だった私の娘がいじめっ子? 嘘でしょう? なんて言って叱ればいいの? いじめなんてしてはいけません? どうして、と聞かれたら? 自分がされて嫌なことはしてはいけません……ああ、でも、そんな単純なことも理解できないから、いじめっ子はいじめをするのだ。志保がそんな単純なことも理解できない子だったら、私はどうすればいいんだろう。お母さん、助けて。私、どうすればいいの? 母をお手本にはできない。だって私はいじめられっ子で、母はいじめられっ子の母親だったのだ。

「何をしちゃったの?」

 勝手に口が動いた。人間って、混乱していてもごく普通の会話はできるんだな、とぼんやり思った。

「おたまじゃくし、死んじゃった」

「えっ?」

 私が驚いている間に、志保はぽつぽつと今日の出来事を話した。志保が男の子たちとおたまじゃくしを捕まえに行ったのは、夕食のときに聞いて知っていた。我が家の近くの公園には、人工の小川とため池がある。この季節になると、カエルが卵を産む。あんな気持ち悪い生き物の何がいいのかわからないけれど、友だちと遊ぶというのなら止められない。志保がつき合いの悪い奴と思われて、私のようにいじめられたら取り返しがつかない。おたまじゃくしをすくうものが何もないので、志保はもっと幼い頃に使っていたままごとのプラスチックスプーンを持っていったらしい。そんなものを持っていっていたなんて、少しも気がつかなかった。

「スプーンですくおうとしたら、おたまじゃくのしっぽ切れちゃった」

 志保の説明は要領を得なかった。想像するに、池の縁とスプーンの間におたまじゃくしのしっぽが挟まったようだ。しっぽが切れたおたまじゃくしは、そのまま池の底に沈んでいったらしい。たぶん、死んでしまったのだろう。おたまじゃくしなんて、と思った。でも、志保の罪悪感は大切だ。生き物を愛する子に育ったのは喜ばしい。何より、私は志保に寄り添わねばならない。私の母はいつでも私に寄り添ってくれた。

「そう、かわいそうだったわね」

「……うん」

「でも、志保は死なせようと思ってしたんじゃないんでしょう?」

「うん」

「次はもっと気をつけて、死なせないようしようね」

「うん」

 私と志保は布団の中で墓参りのように手を合わせ、おたまじゃくしにごめんなさいをした。罪の告白をしたらすっきりしたのか、志保はすぐに眠ってしまった。

 どうしておたまじゃくしなのだろう。志保はカエルも平気だ。セミもトンボも平気で手を伸ばす。私は子どもの頃から虫が怖い。あのもぞもぞ動くたくさんの足が嫌いだ。カエルも気持ち悪い。ぬめぬめしているし、急に跳ねる。想像だけで嫌になってきた。

 私がまだ小学生のとき、買い物帰りの道の真ん中に、大きなヒキガエルが居座っていた。夕暮れどきのアスファルトの上に、私よりずっと小さいのに、山のように見えた。母は私の手をぎゅっと握ったまま、ヒキガエルから目を逸らさず、私を身体の陰にかばうようにして横を通り過ぎた。見上げた母の横顔は凛々しく、悪い竜をやっつける王子様のように思えた。私はヒキガエルが追いかけてこないかと気が気ではなく、何度も振り返りながら母と歩いた。しばらくして母は立ち止まり、大きく息を吐いた。

「ああ、怖かった」

 母は私の視線に気づいて、照れくさそうに笑っていた。母もまた、虫やカエルが怖いのだ。それでも、私を背中に隠してくれた。私も同じようにしようと思った。カエルに行き合ってもゴキブリが出ても、娘をかばう母親になろうと思った。

 ところが志保はカエルを恐れず、ゴキブリが出れば私が殺虫剤を探している間に新聞紙で叩きつぶす。しかも、顔色ひとつ変えずに。こんなはずじゃなかった。母子というのはもっと互いに寄り添うもののはずだ。私は娘に寄り添いたいのに、どうして志保は私に寄り添おうとしないのだろう。

 私は志保とすべてを共有したかった。パート先の話もしたし、向かい家のの柴犬や、季節の花や、天気の話もした。志保はいい聞き手だった。あいづちを入れ、おかしいところでは笑った。けれど、いい話し手ではなかった。

「今日、学校はどうだった?」

「普通」

「何かおもしろいことはなかった?」

「別にないよ」

「算数では何を習ったの?」

「面積」

 一事が万事、こんな調子だった。志保は私が根掘り葉掘り聞かなければ何も話さない。楽しい話も、悲しい話もしない。おかしな子。楽しかったら誰かに話したくならないの? 悲しいときは誰かに聞いてほしいと思わないの? 私ならどんな話も絶対に茶化したりしないで聞いてあげられる。ママはあなたと同じくらい、いい聞き手なのよ?

 恋人ができたという重大事件さえ、志保は私に話してくれなかった。忘れもしない。志保が中学三年生のときだ。

 夏の大会でテニス部を引退し、志保は本格的に受験生になった。小学生までは私が宿題を見ていたけれど、高校受験の内容はとても教えられない。私も昔確かに勉強したはずなのに、数学なんてさっぱり。完全に学校任せ、塾任せにしている。私は母親として消化にいい夜食を作り、あちこちの塾の冬期講習情報を集め、志保以上に模試の結果に一喜一憂していた。志保が欲しい参考書はいくらでも買ったし、塾の特別授業も好きなだけ受けさせた。そのために、パートも増やした。

「今日は遅かったね」

「うん、自習室にいた」

「わからないところは先生にちゃんと質問してる?」

「うん、大丈夫」

 志保は家ではほとんど勉強しなかった。誘惑が多いと言って、塾の自習室や図書館を使っていた。私は志保が帰ってきたらテレビの音量を小さくして、なるべく静かに過ごすのだけれど、夫はそういう気遣いをしなかった。私は密かに、志保が家で勉強しないのは夫のせいだと思っていた。

 志保は土日も図書館で勉強すると言って出かけていく。

「ひとりで勉強するの?」

「ううん、友だちと」

「そう、がんばってね」

 私にはお昼ご飯を買うお金を渡すしかできなかった。図書館でいっしょに勉強する子は誰だろう。一華ちゃん? 乃愛ちゃん? それとも、私が知らない友だちだろうか。中学生になり、志保の交友関係は私が把握できないくらいに広がった。中学校で新しくできた友だち、塾の友だち、友だちの友だち。いじめられっこで一人ぼっちだった私には想像もつかない世界だ。

 冬の匂いがただよい始めた土曜日、本当に偶然、私は志保の勉強仲間が男の子だと知った。干していた布団を取り込もうとベランダに出たとき、こちらへ歩いてくる志保が見えた。男の子といっしょだ。私はベランダから身を乗り出しそうになり、慌てて身を屈めた。二人はマンションの前で立ち話をしていた。数分すると、男の子は元来た道を戻っていった。つまり、志保を送ってくれたのだ。彼氏に違いない。私の娘に彼氏ができた。自分に恋人ができたように、ドキドキしてしまう。

 いつから付き合っているの? 部活で帰りが遅いときも、こうやって送ってもらっていたの? 全然気づかなかった。彼氏ができたなんて、そんな大事な話、どうしてママに言わないの? 彼の名前は? 足は速い? 勉強はできる? もう手は繋いだ? キスは? なんて呼び合ってるの? 志保からの相談だってあるはずだ。デートに何を着ていくか。誕生日プレゼントをどうするか。バレンタインデーは手作りか、既製品か。

 志保は相変わらず何も言わない。恥ずかしいのだろうか、思春期ゆえだろうか、ともどかしいまま一ヶ月くらい経った。志保の彼氏を見かけたのは一回きりで、私は完全にきっかけを失っていた。あのときすぐに「彼は誰?」と聞いておけばよかった。

「前にいっしょに歩いていた男の子は誰?」

 とうとう我慢できなくなり、私は夕食の席で志保に聞いた。夫は帰りが遅い。母と娘、二人だけのないしょ話をするには好都合だ。志保はきょとんとしている。

「一ヶ月くらい前に、図書館からいっしょに帰ってきたでしょう?」

「ああ、村上君?」

 村上君というのね。

「彼氏?」

「元カレ。もう別れた」

「えっ」

 恋バナどころか失恋の話になってしまった。頭の中で何度も反芻した母子のやり取りが崩れていく。私がおろおろしている前で、志保はじゃくじゃく音を立ててカキフライを食べている。この子は本当に顔色が変わらない。今も、悲しい話を急に持ち出されて泣いたり怒ったりしていいはずなのに、ご飯を頬張っている。彼氏と別れたのだからきっと傷心状態だ。母として慰めなければならない。

「悲しかったね」

「別に悲しくはないよ。いっしょにいても話すことなくなったの。だったら、わざわざいっしょにいなくてもいいかなって。話したかったらLINEすればいいよねーって」

 志保は平坦に言って、カキフライに残り少ないマヨネーズを絞り出す。新しいマヨネーズ買ってこなきゃ。

「あら、そうなの」

 志保の淡々とした口調につられ、私の熱も急激に冷めた。なんだかとても気のない返事になってしまったけれど、他になんて言えばいいかわからない。とんでもない喧嘩をしたり、浮気されたりしたわけじゃないのね。志保が傷ついていないならよかった。でも、もう少し何かないの? 愚痴や悪口の一つや二つ、あるんじゃない? そう思って待ってみたが、志保はカキフライをきれいに平らげて「ごちそうさま」を言うと、さっさと部屋にこもってしまった。最近の学生の恋愛はみんなこうなの? これが普通なの?

 私の学生時代はそうじゃなかった。私に初めて恋人ができたのは、高校一年生のときだった。同じクラスの男の子で、背が高くてスポーツマンだった。私はすぐに母に報告した。毎日、今日は彼とこんな話をしたとか、彼が体育の時間にバスケットボールの試合でシュートを決めてかっこうよかったとか、とにかく彼との出来事をなんでも話した。高校に入って中学校まで私をいじめていた同級生と離れたし、新しい友だちも少しできたけれど、母が一番の話相手なのは変わらなかった。母は私の話をにこにこ笑って聞いてくれた。

 初めての恋人に浮かれた私は、料理の練習を始めた。先生はもちろん母だ。クッキーもチョコレートもマフィンも作った。彼は部活をしていなかったので、お弁当を差し入れる機会はなかったけれど、いつかのためにおかずもたくさん作れるようになった。

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