3


帰宅してすぐにお風呂に入った。


今日は本当に疲れた。


唯一占いが当たってたなと思ったことは、

いつも買ってる生ハムがいつもより安く売っていたことくらいだった。


新しい風、ね。


もし、今日のプロジェクトの話が新しい風なのであれば、そんなのは私にとって運が巡ってきてるとは言えないことだった。


新島はどういうつもりなのか分からないけど、あいつのせいで、今日私は先輩をひとり、敵に回した。


思い出せば、思い出すほど、ストレスなのか、怒りなのか、なんだかよく分からない感情がふつふつと湧き上がってくる。


今日は珍しく浴槽にお湯を溜めてみた。お風呂でゆっくりお湯に浸かりたい気分だったのだ。


そうやってリラックスしないと、今日の件は忘れられないし、明日にも支障が出そうだから。


普段あまりしないことをしてみるのもいいかなと思った。


あ。これが、新しい風、かもしれない。



「いいじゃん、新しい風。」



ひとりで呟くと、

小さく反響した自分の声が返ってくる。


シャワーを止めて、湯船に入った。


シャワーを止めると、いつも脱衣所にあるスマホから流している音楽が聞こえてきた。


ジャズを聞きながらお風呂とか、今まで味わったことないお洒落な時間じゃない?


自然と笑みが零れる。


ルンルンな気分のまま、お風呂から上がっていつも通り寝室に行って部屋着に着替えた。


今日はもう、テレビも付けないし、鞄も開けない。電気も点けずに、ただ一口水だけ飲んでベッドに横になった。


スマホでお気に入りの動画を見ながら、

今日はいい日だ

と、さっきまでとは真逆のことを思っていた。



「食べるか。」



枕元にある間接照明を点けて、

冷蔵庫から生ハムを出した。


今日はもう何も考えなくていいのだ。


スマホで動画を閉じてから、

もう一度ジャズを流した。


バーでお酒が飲みたくなる気分だった。

お酒なんて飲めないけど。



「もう、この時間最高だから、明日出勤するの辞めようかな。」


いやいや、お金稼がないと。この時間があるのも、仕事してお金稼いで、生ハム買えて、スマホ代払えてるからこそ、出来てる事だからね。


「確かにそうだけど。今日みたいなことはもう二度とごめんだよ。」


今日は運が悪かっただけ。大丈夫だよ。明日には元通り。


「新プロジェクト、どうするの?私、本当にやりたくないよ。」


それは私もやりたくない。


「でしょ。でも、あの新島の感じだと、今回ばかりは、逃げるわけにもいかなさそうだな。」


我慢してやってみる?いいこと待ってるかもよ。


「ええー。本当に嫌だ。もう、どうしよ。」



私は頭を抱えることしか出来なかった。


せっかくいい時間だったのに、自分で自分を潰したようだった。


私は残りの生ハムを一気に食べて、

水で流し込んでから、洗面台に急いだ。


もうこうなったら寝るしかない。

寝るのが一番だ。


時刻はまだ20時。

今日はもうやることも無いし、機嫌も悪いし、お腹も空いたし、あとは寝るだけだ。


白い洗面台に一本だけ置いてある青色の歯ブラシに歯磨き粉をつけて、歯を磨いた。


音楽が消える空間に来ると、

雨の音がよく聞こえる。


明日もこの調子だ。

また気分が下がる。


明日はどんな服を着ようか。

きっと、また暗い色の服だろうな。


私の会社は、アパレルやデザイン系の会社で、ある意味お洒落は競争、勝負、そして自己表現であった。


だから気を抜けない。


同じ服を着回す時は、かなりのセンスが試されるもので、毎日周りからどう見られているかが気になってしまう、残酷な職場だ。


私はその名の通り、アパレル関係やデザイン関係に興味があって、この会社に入社した。


私はあまり目立たないようにしているから、自分の好きな格好をしているだけで、周りから何かを言われることも無かったけど、向上心を持って仕事に励んでいる人たちは、目立つ存在でもあるため、噂の対象になることが日常茶飯事であった。私はそんな話を聞きながら、自分も気を付けよう、と心の中で思うだけで精一杯だ。


歯磨きが終わって、寝室に戻った。


間接照明を消して、真っ暗な空間で目を瞑った。


明日はいい夢、見れるといいな。


期待出来ない毎日に、新しい風、を求めるような少し図々しいことを考えながら、眠りについた。






少し早めのいつもの時間に出勤すると、珍しく新島が私より先に来ていた。


私は挨拶をしてから、自分のデスクに着く。

今日やることのリストを確認して、必要な書式をピックアップしていく。朝一でこれをやっておくと、仕事がスムーズに回って楽になるのだ。



「今日、一回目の会議あるから。」



また急に、後ろから声をかけられて、驚いてしまった。これは新島の特技なのだろうか。


というか、やっぱりプロジェクトメンバーに私は入ってしまっているのだろうか。ここは、知らない振りをしておこう。



「何の?」


「何のって、昨日決まったじゃん。新プロジェクトだよ。今更やらないとか言わせないからね。」



新島は私の肩を叩いて、よろしく、と一言残して自分のデスクに戻って行った。


本当に勘弁して欲しい。


私はEnterキーを長押しした。勿論、昨日も見た、左端に矢印が沢山並んでいる画面が映る。


大きな溜め息をひとつ吐いてから、deleteを丁寧に押していく。


新島は、俺の言ったことをやればいいだけ、と言っていた。


だから、大丈夫なはず。

私は特に何もしなくても大丈夫なはず。


いつもの勤務時間が始まってから、お昼の前に私は新島に呼ばれて、会議室に行った。そこには、今回の新プロジェクトでコラボする他社の社員までいて、私と新島含めて10人ほど。そして、今回のプロジェクトリーダーが新島。



「こちら今回、僕の補佐をしてくれます、朝日です。」


「朝日夜宵です。プロジェクトに参加するのは初めてで分からないことだらけですが、皆さんと一緒に良いものを作っていきたいと思っています。よろしくお願い致します。」



朝、新島にとった態度とは全く別人のような、やる気に満ち溢れた挨拶をかましてやった。


偽りだけは得意なのだ。

自分に嘘をついて、表面だけでもしっかり者を演じる。


これだけの挨拶をしてしまえば、自分に対しても踏ん切りが着くのだ。


やりたくないけど、やるしかない。初めてのことで不安だけど、もう、やるしかないのだ。


その後は今後の流れについての説明と、大まかなプロジェクトプランの話し合いを1時間ほど行った。



「じゃあ、今日はこの辺で。」


「はい。それでは、よろしくお願い致します。」



新島と一緒に、他社の社員の見送りに行った時、聞きたくなかった言葉が耳に入ってきた。



「新プロジェクト立ち上げということで、今日の夜にでも、食事会をどうでしょうか?」


「いいですね。是非参加させて頂きます。」



新島が提案した食事会という名の飲み会は、全員が賛成してしまい、私も行かないわけにはいかなくなってしまった。


困ったもんだな。

こういうのは嫌いだ。

大勢で仲良く、みたいなやつ。


というか、プロジェクトリーダーの提案なんて、誰も断れないだろうな。


見送りが終わって、会議室に戻ってから片付けをしている時に、私は新島を少し睨んだ。


今まではそんなこと思わなかったけど、本当は私の生活の邪魔をしてくる、悪者なのかもしれない。


新島が私に新しい風を吹き込ませてから、私の生活は彼に邪魔しかされていない。なぜこの男がモテるのか分からない。私にとっては悪者、ヴィランズだ。



「今日の夜の食事会、店選び手伝ってよ。」



は?


私は新島を再び睨んだ。

もう一歩で、本当に声に出して言ってしまうところを、飲み込んだ私を褒めて欲しいくらいだった。何で新島が勝手に言い出した食事会の計画を、行きたくもない私が手伝わないといけないのか。


私は散らかった資料を全部まとめてから、新島の隣に音を立てて置いた。



「嫌です。」


「何でよ、俺の補佐じゃん。言ったよね?朝日は俺の言ったことをやってくれればいいだけだから、って。」



私は何も言い返せなくなった。

確かに言われた。


そして、さっきの会議であれだけの挨拶をしたからには、新島の言うことを聞かないといけないのだろう。


新島は私の悔しがっている顔を見て、笑ったのだ。最低。



「全部決めてくれなんて言ってないし。手伝ってって言ったの。お昼、少しだけ時間くれるだけでいいから、ね?」



ああ、女はきっとこの顔に落ちるんだろうな。


それは、私の好きなアイドルもよくする顔だった。甘えるような、おねだりするような、そんな顔。


私は溜息を吐いてから、会議室から出て、いつも通りのお昼ご飯を買いにコンビニに向かった。

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