第26話 ミトレアでの一日
カシス一行がミトレアに滞在して四日が過ぎた。カシスは毎日朝の七時から夕方の六時まで"船闘祭"の練習に出かけている。祭りについて何も知らず、また力もそこまでない彼が任されたポジションは旗振り役だった。旗振り役は船の後方部にある台に立ち、旗を振って仲間を鼓舞する役割がある。本来ならばチームリーダーであるアイナスの役だが、この役は旅人にさせると幸運がやってくると言われている。だから旅人であるカシスが任せられたのだった。
だが、この役はある意味では最も過酷な役でもある。"船闘祭"は船をぶつけ合い、先に沈んだ方が負けという祭りだ。つまり、船がぶつかる際に生じる衝撃は凄まじいものとなる。船には漕ぎ手や銅鑼打ちの他の役も沢山乗ってはいるが、漕ぎ手は無論座っているし、銅鑼打ちは立ってはいるものの銅鑼につかまる事ができる。それに対し旗振り役は大きな旗を両手で持ち、それを振らなければならない。よってぶつかった時の衝撃は自分の体幹でどうにかするしかない。カシスはこの一週間体幹を鍛えるトレーニングもしなければならなかった。
一方で、彼が練習をしている間、シャル達は街で観光をしていた。ミトレアは小さな町ではあるものの、良港を有しており、世界各国のありとあらゆるものが集まってくる。自分の生まれ故郷と、セーランの街しか知らない彼女たちにとって、そこに集まるものはとても珍しく、魅力的であった。
午前八時頃、日はすっかり昇り、窓から差し込む日差しを眩しそうにしながら赤髪の少女は目を覚ます。彼女は目をこすり、欠伸をしながら大きく伸びる。そして隣で寝ている猫人の少女を揺さぶって起こそうとする。
「クロリス、起きやクロリス。朝やで」
「無理……」
クロリスはルーイの揺さぶる手を払いのけ、布団にもぐり込んでいった。猫人は夜行性で、朝には弱いのだ。ルーイは冷たくあしらわれた事にムッとし、今度は布団の裾を掴んで思いっきり引っ張った。
「クロリス! 起きや! 朝やで!!!!!!」
「無理!」
「なんですかもう、朝からうるさいですよ……」
二人の隣で寝ていたエチュードは、あまりのうるささに目を覚ました。栗色のボブカットの髪はぼさぼさで、服も少し乱れている。これは彼女の寝相が非常に悪いため、こうなってしまっているのである。
「あ、おはようエチュード! ちょうど起こそうとしとってん」
「そんな事しなくても隣でそれだけ騒がれたら目が覚めます……クロリスさんもさっさと起きてください」
エチュードは少々機嫌悪そうにクロリスを起こした。彼女は眼ざめが悪い方で、いつも寝起きは不機嫌になる。彼女は嫌がるクロリスを無理やり立たせ、服を着替えさせた。そして彼女自身も服を着替え、出かける準備をする。そしてふと、シャルとセレンが居ない事に気がついた。既に寝間着は布団の上にきれいに折りたたまれ、外出用の小さなポーチは無くなっている。エチュードは、きっとカシスさんを見送りに行ったのだろうと考えた。
身支度を終えた三人は、宿屋の一階へと降り部屋のカギを宿主の老婆に渡した。彼女たちはこれから屋台で朝食をとるついでに、カシスの練習風景を見るためにトンペイオス海岸へ向かおうとしていた。この宿はミトレアの内陸の方にあり、ここから海岸までは十分ほど歩かなければならない。既に元気いっぱいのルーイはまだしも、まだ少し眠いエチュードや、ほぼ目をつむってうとうとしているクロリスには長く感じる道であった。
初夏の季節に入っているミトレアでは、八時を過ぎた段階で既に気温は高くなっていた。幸い太陽はまだ真上には来ていないので、建物の影を伝っていけば比較的汗をかかずに歩く事が出来る。
日陰を歩く事十分、彼女たちは街の南端にあるトンペイオス海岸へ到着した。この海岸が祭りのメイン会場で、祭りが始まる一週間前には屋台がずらっと並んでいる。この屋台で食べ物や飲み物を買って、海岸の右側にある防波堤に上がって沖合で行われている練習を見物するのが、ここの住民の楽しみであった。祭り当日は専用の遊覧船が出るので、もう少し近くで見る事が出来るが、練習の段階ではこの防波堤から見る事しかできない。その為住民は双眼鏡を持参し、練習の風景を眺めるのであった。
エチュードたちは屋台でイカ焼きを買い、防波堤に登った。防波堤の上には既に多くの住民が押しかけており、大人は酒を飲みながら、子どもは屋台のお菓子を食べながら沖の方を見ている。
彼女たちがきょろきょろと座れるところを探していると、少し離れた所から彼女たちの名前を呼ぶ声が聞こえた。
「あっちにセレンとシャル」
「本当だ。席を取っててくれたんですね」
エチュードたちはセレンたちの所へ行き、確保されていたスペースに座った。
「朝早くカシスと一緒に出たけど、来た時には既にいっぱいでここしか空いて無かったの。ここの人たちは本当にこのお祭りが好きみたいね」
「そうそう。大人も子どももお年寄りも、みんな集まってて朝からとっても賑やかで素敵だわ」
セレンとシャルは楽しそうに話す。この街に来て、何かと二人で行動する機会の多かった彼女たちはすぐに意気投合をしていた。
「うちもこんな賑やかな所に来たの久しぶりやで。あの街じゃお祭りなんてなかったし、あってもうちらには関係なかったしな」
「ほんと、あの街は楽しくなかった」
「まあそれは仕方ないですよ。でもこうやって楽しいお祭りに参加できてますし、いいじゃないですか」
エチュードの言葉に、皆そうそうと賛同した。彼女は仲のいい女性同士であれば、スムーズに会話をする事が出来るが、カシスのような異性の前や見知らぬ人に対しては、挙動不審になり、恥ずかしがって会話をする事が出来なくなる。その為カシスは、彼女はとても照れ屋で口数が少ないと思ってはいるが、実際はそういう訳ではないのだ。
それからしばらく彼女たちは雑談を楽しんでいたが、周りの観衆の盛り上がりが更に大きくなったことに気づき、海を見た。防波堤から少し離れた沖合に、遠目からでもわかるぐらいの色合い――片方は赤色で、もう片方は青色の――船が二隻、見合っていた。ヒッポスとエウクレイアだ。
「あ、ほら見てくださいよ。あそこにカシスさんが居ますね」
エチュードは双眼鏡を覗きながらカシスの居る辺りを指をさした。カシスは青い船の後ろの方に、英雄ヒッポスが持ったとされる剣と盾が描かれた大きな旗を両手で持って、立っていた。最初は旗を持って立つことすらしんどそうにしていたが、すっかり慣れ、いまやその立ち姿が様になっていた。
それぞれのチームの銅鑼担当が、大きく銅鑼を鳴らし、練習試合が始まった。練習試合では本番の様に相手の船を大破させ、沈没させることは禁止であり、船の先頭に軽く取り付けている木材が落ちる事で勝敗を決める。両チームは一旦後ろに下がり、ある程度の距離を保った後、一気に前へ漕ぎ始めた。そしてある程度加速したところで正面から激突した。当然その衝撃はすさまじく、旗持ちであるカシスは前へ吹き飛ばされそうになる。しかし、何とか耐え、再び旗を振り始めた。
「絶対死人が出そうですよね、このお祭り」
「でもこれまで死人は出なかったらしいで」
事実、長い歴史があるこの祭りでの死者は今のところ出ていない。一見すれば毎年のように死者が出そうではあるが、一人も出ていない。ミトレアの人々はそれを海の加護と考えている。
練習試合は日が沈むころまで行われ、地平線の彼方に太陽が沈んだ頃、ようやく選手たちは帰路につく。シャル達は、一日船に乗り、衝撃に耐え、そして重い旗を振っていた事により疲れ切ったカシスを迎えに行った。カシスは砂浜に寝転がり、暗くなった空を見上げていた。
「お疲れっす。はいこれ水」
「ああ、ありがとう」
カシスはルーイから水筒に入れられた水を受け取り、ごくごくと飲んだ。
「段々コツは掴めてきたけど、身体が追い付かない。鍛えてなかったって理由もあるだろうが、もう歳だな」
「まだ28でしょ? そんな事言ったら私だってもう歳だわ」
「セレンは今年で21だろ。心配しなくても、まだまだお前はガキだ」
「子ども扱いしないでもらえる?」
子ども扱いされたセレンは、少し不機嫌そうに答えた。これまでセレンはルーイ達のまとめ役のような存在であった。その為、彼女は示しを付けるために常に大人の様に振舞ってきた。だが、この様にまだまだ彼女には子供っぽい部分が残っているのだ。
それからしばらく、カシスたちは砂浜に座り、シャルとエチュードが屋台で買ってきた夜ご飯を食べながら楽しく駄弁っていた。練習があってなかなか街を見て回れないカシスに対し、シャル達はミトレアについて沢山の事を話した。国際市場や、独特なオブジェクトのある公園、街の高台にある古の神殿の事や、優しい街の人々のこと。ミトレアについて話す彼女たちはとても楽しそうであったし、それを聞くカシスの表情もとても和らいだものであった。
彼らは屋台がたたまれ、街の明かりも消え、星と月だけが海を照らす時まで話し続けた。自由のなかった環境に居た彼らにとって、この時間はとてもかけがえのないものであった。
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