第6話
少しだけ上昇したノルトルドの機嫌は、午後になって再び下降した。なぜなら原因がわざわざ訓練棟へやってきたからである。
「キツネ、なにしに来た?」
憂さ晴らしに鍛錬場にて隊員たちを鍛えている最中に名指しで呼び出され、ノルトルドは極寒の視線でリディアを射抜く。
「あらホント。全然落とせなかったんですね。バツ印」
そんな氷の刃のような眼差しなど気にもならないのか、リディアは頬に手を当てると、目をくるりと瞬いてノルトルドの顔を見上げている。
ちなみに彼女の顔は平常通りだ。
「ふむふむ。せっかくの色男が台無しですね」
「なにをしゃあしゃあと! お前がやったことだろうが!」
リディアののんきな言い草に、カッとなったノルトルドは掴み掛る勢いで怒鳴った。
「そうですけど。そのせいで今日は朝からメイド仲間や侍女の方々から怒られっぱなしで大変だったのですよ」
芝居じみた仕種でやれやれと首を振り、他人事のように溜息を吐く。
聞けば各方面の女性たち(一部男性も含む)から、ノルトルドの顔のバツ印を何とかしてくれと要請というか苦情というか、とにかくうるさくて仕事にならないというのだ。
とうとう堪忍袋の緒が切れたメイド長に厳命され、仕方なく、仕方なく! ノルトルドのいる訓練棟へ来たそうだ。
「まったく。副隊長様はもっとイケメンの自覚をもって、墨くらいきちんと落としてから出勤してくださいな」
「いけめん? なんだ、それは?」
「美男子という意味です。とにかくお邪魔致しますね」
そう言うとドア近くにいた面会時立会役の騎士に洗面器と湯を持ってくるよう頼み、強引に室内へ押し入った彼女は、持参した小さな鞄を開いて中から水筒と手巾を取り出した。
「はい、では椅子に座って眼鏡を外してくださいな」
「は?」
「は? じゃないですよ。わたしだって忙しい中こうして出張してきてるんですから。ほらさっさと言われたとおりにする!」
ぐいぐいと押されて椅子に腰かけると、毟るようにメガネを取り上げられた。
「おい!」
「いいから黙っててください。クレンジングオイルが口に入ってしまいますから」
「く、くれんじ…?」
困惑しているノルトルドを余所にリディアは袖を捲り上げ、水筒からトロリとした液体を手のひらに落とすと、それをノルトルドの頬へ塗りたくった。
「うわ、冷たっ」
「初めだけですから我慢してください」
目を閉じるように指示し、ぬりぬりネリネりと顔全体に伸ばしてゆく。体温で暖められた液体が、彼女の両手で円を描くように塗りこめられた。
「結構気持ちがいいでしょう?」
目を閉じてされるがままのノルトルドに、いつもとは違う柔らかなリディアの声が掛けられる。ノルトルドも顔だけでなくイラついてささくれ立った気持ちまで揉み解されたように、素直にこくんと頷いた。
「ああ。これは一体何なんだ? こんなもので顔の墨が落とせるのか?」
「さっき言ったでしょう。クレンジングオイルですよ。これは女性が化粧を落とすときに使うものなのです」
「くれんじんぐおいる? 聞いたことがないが…」
ノルトルドが女性の化粧事情に詳しくなくとも、生家には母親や妹、それに女性の使用人もいるのだから、耳に入っていたとしても何ら不思議ではないはずだ。なのに一度も聞いたことがないと内心首を傾げていると、リディアは「そうでしょうね」と肯定した。
「このオイル、実はわたしが試行錯誤して作ったものなので、まだそんなに普及してないのです。一応トリスタン商会と契約を結んでますが、一部店舗にしか置いてないみたいです」
「作った? このオイルをか?」
驚きのあまり目を開けそうになったが、寸でのところでリディアに止められた。
「目を開けちゃだめですよ。柑橘系の成分も入っているので、目に入るとちょっと沁みますから」
「あ、ああ」
慌ててぎゅっと瞼に力を入れると、リディアは少しだけフフッと笑った。
目を閉じていると時間の経過が長く感じる。自分のものより小さく細い指先を額や頬に感じながら、ノルトルドはただひたすらに終わるのを待つ。
「さて、これで大丈夫かな? 副隊長様、一旦布で拭いますから、もう少しそのままでお願いしますね」
「わかった」
頷くと同時に柔らかな布の感触が顔を覆い、丁寧な手つきでオイルが拭われていく。正直ねっとりと何かが張り付いていたような感触が気持ち悪かったため、オイルが落とされてゆくのは気持ちがいい。
目の周辺を殊更慎重に拭われると、漸く目を開けてもいいと許しが出た。
「墨はきれいに落ちましたから、あとはお湯で洗ってください。さっぱりしますよ」
ぬるめの湯を張った洗面器を目の前に置かれたノルトルドは、勧められたとおりに顔を洗った。髪の生え際までしっかりと洗ったノルトルドは、差し出された手巾を受け取り顔を拭う。
「ふぅ…」
「はい。お疲れさまでした。あとは乾燥しないようにコレを顔に浸み込ませておけばばっちりです」
シンプルなガラス瓶に入った透明の液体を手のひらに出し、両手に馴染ませてからノルトルドの顔を手挟んだ。
「わ! まだなにかあるのか⁈」
問答無用で顔をこねくり回されたノルトルドは、反射的にリディアの両手首を掴んで動きを止めた。
「もう終わったんだろう! これは何なんだ⁈」
「え? ただの化粧水ですよ。クレンジングの後は乾燥しやすいので、化粧水を浸み込ませておくとカサカサにならなくて済むのです」
「ケショウスイ?」
化粧と聞いて眉根を寄せたノルトルドに、リディアは何かを察したらしくクスクスと笑い出した。
「違いますよぅ。”化粧”って付きますけど、お化粧するわけではありません。これはお肌の調子を整えるものなんです!」
肌がガサガサだと化粧のノリが悪くなるから、女性は常に肌の状態にも気を使っているのだと説明された。
確かにそう言われて改めて見ると、ノルトルドよりも顔全体が真っ黒に染まったはずの彼女の顔はいつもと変わらずきれいな肌色をしているし、これほど間近で観察しているにも拘らず、化粧が粉っぽく浮いている感じはしない。
「副隊長様って案外顔に出るタイプなんですねぇ」
「…そうだろうか?」
「ええ。それにちょっと困った人かも」
「?」
軟膏を上下の唇に薄く伸ばすと、彼女は持ってきた道具を仕舞って立ち上がった。
「それではわたしはこれで」
「…ああ。仕事中にすまなかったな」
ノルトルドが頼んだわけではないが、一応大人の礼儀として礼を告げると、彼女は一瞬キョトンと目を丸くし、次にはいつもの意地悪そうなキツネの顔になった。
「いえいえ。わたしとしてはお仕事がサボれた上に
ぐふふっと不気味に笑ったリディアは立会人
「な…! キツネめぇ。覚悟するのはお前の方だ!」
「ふ、副隊長! 落ち着いてください!」
この日は終日、ノルトルドの機嫌は底辺だったという。
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