第三話 痛み
淡色で町を飾った桜散り、緑ざわめく五月の頃。あたしは
ほどほど辛い坂道を、えっちらおっちら。道中高低差のあるこの町を上から下から望んで、あたしは微笑む。
春の装いだった町並みも、夏に向けて青々と変わっていく。草木の替わりに歩みを止めずに、高まる温度を楽しんで。
そんな人々が、あたしにとっては凄まじい。当たり前だけれど、彼らは力強くも生きているのだ。
「格好いいな」
思わず、あたしがそう言ってしまうのは仕方がないことかもしれない。何せ、生きるのが下手でとっても格好悪いあたしだから。
ひ弱なあたしにとって、当たり前を平気で行える誰もかもがすごく見える。感動的な毎日に、あたしはだからこそ今は亡きお父さんお母さんにあたしを生んでくれてありがとうと感謝するのだった。
たとえ素晴らしきこの世界で花と咲けなくても、それでもあたしは愛することを大切にしたい。
そんな風に、つい大げさにも思ってしまうくらいには、あたしは何時もこの世界の光の印象に感動しているのだった。
「ふぅ……あとお家までもう少しだ」
最後の軽い坂を越えて、僅か。そこで隣に見えたのは、桃色の遊具が立ち並ぶ広場。
子供の頃からピンクの公園と呼んでいる近所の遊び場を、あたしはラストスパートの目印にしていた。
ちっちゃなあたしよりも尚小ぶりな子たちがベンチでお喋りタイムのお母さんの近くで思い思いに遊ぶ姿を目にしたあたしは、頑張ろうと足に力を入れる。
そうして前を向いたその時に。あたしは子供の泣き声を聞いた。疾く心痛めてしまったあたしは地面にぺちゃんと伏した女の子の元へと駆け出す。
「うー、ああーん」
「大丈夫?」
「うぅ……痛いよお」
幼気が、苦痛に歪められて悲鳴を上げる。少女の痛みにあたしは泣きそうになりながら、彼女をよいしょと起き上がらせた。そのままあたしたちは偶々近くにあった水飲み場へと直行する。
「……う、うぅ」
「ちょっと、ごめんね」
そして、擦りむいて赤い血が溢れだした膝小僧に食い込んだ石を、あたしは流水でそっと落としていく。痛みに嘆く彼女の様子がとても悲しいけれど、同時に傷の小石がなくなったことにあたしは安堵もする。
「あーん!」
「痛いよね……でももうちょっと頑張って……」
「結っ! どうしたの?」
痛みに落涙をはじめた少女の靴下が血で汚れないようにハンカチで溢れる血をふき取っていると、そこに大きな声がかかった。
それは、少女のくしゃくしゃの顔が戻ったらきっとそっくりだろう綺麗なお母さん。
我が子の泣き顔に慌てる彼女に、あたしは努めて冷静に言う。
「あの。この子転んじゃって擦りむいちゃったみたいで……膝を水で洗って小石なんかを取らせて頂きました。化膿とかしちゃ大変なので」
「ああ、そう。そうなの……ありがとう。綺麗なハンカチを使ってまでくれて……本当に」
「いえ。ただ、消毒とかあたし出来ていないですし、なるべく早く帰って消毒したりしてあげて下さい」
「分かったわ。どうもありがとう!」
長い焦げ茶髪をたらしてぺこり。あたしでは持ち上げるにも大変だった少女を軽々と抱き上げて、お母さんは去っていった。
あたしは車の中に二人が入るまでを見送ってから、開けっ放しだった蛇口を締める。最後にぽちゃんと落ち込んだ水滴を確認して、私は呟いた。
「大丈夫、かな?」
それはきっと、愚問というのだろう。擦り傷ぐらいで人は死なないし、子供の頃の痛みなんて時に忘れるのが当たり前。
そもそもあたしのしたような処置がなかったとしても大体の場合は平気だろうくらいに、人体は強いものであることだし。
まあ、けれどもあたしは人が痛いのは嫌だ。少しでも辛いのが目の前にあるのが、悲しい。あたし以外の大勢は笑っていて欲しいのだった。
潔癖症で完璧主義とすら言われた、そんな独りよがり。でも、それでも、あたしは泣きたいくらいに幸せが好きだから。だから過ちだろうとも皆幸せがいい。
それで嫌われるのは怖いけれど、そんなことであたしは皆の無事を願うことを止められないのだった。
また大げさなこと。そう考えて、自嘲するあたし。
「百合、ちゃん……」
「ん、椿ちゃん」
そんな風にして少し黄昏れていたあたしに、声がかけられた。柔らかすぎてどこか熟れた果実のような感すら覚えさせてくれるその声の主は、あたしと仲良しさんでいてくれる、月野椿ちゃんのものだ。
振り返り、あたしは確りとしたロングカールがお似合いの大人びた少女である、椿ちゃんの真剣な視線を受けることになる。
やがて、白に近い色の青の瞳が瞬いて、そして柔和になった。椿ちゃんは、言う。
「百合ちゃん、お利口さんだったね」
「そうだった?」
首を捻るあたし。あたしはよく分からない。果たして、自分が辛いのが嫌だからって痛みを嫌う子供の傷口を洗ったのが利口な行動だったのかなんて。
そして、椿ちゃんがどうしてそんなに悲しそうな表情をしてるのかも、あたしには分からないのだ。
ただ、それでも彼女が褒めてくれたのには間違いない。だからあたしは辛さを忘れて微笑んで、返すのだった。
「よく分からないけど……ありがとう、椿ちゃん」
「っ!」
そんなあたしを見てどうしてだか悲しみを深める椿ちゃんに、あたしはどうしていいか考える。
分からない。ただ、椿ちゃんの悲しみを悼み、彼女にとってあたしという存在が悪性だとしたらどうにかしなければならないだろうな、と思うのだった。
そんな考えが見当違いのものだとは、知らずに。
月野椿は、お嬢様だった。酷く高値の中に埋没する日々を繰り返した少女だったのだ。
だから、椿が自分も高額の存在であると誤認してしまったのも仕方のないことだったのかもしれない。
幼い頃から、彼女は高飛車だった。綺羅びやかな自分たち以外の人間を庶民と呼び、蔑視をして憚らない子供だったのだ。
そんなことは間違っている。だが、彼女の親ですら勘違いしていたことに、子供一人でどう正答を導き出すことが出来るのだろう。
『うぅ……』
『あははっ、ショミンが泣くのはブサイクで、面白いわっ!』
ふんぞり返って、椿は多くを踏みつけることを楽しんだ。大人たちに叱られたら、次には隠すようにして。それでも見つけられたら、次には影に。
そうしてどんどんと陰湿にも続けた虐めは悪意に塗れて長じていく。やがて、彼女を中心として、悪行にてコミュニケーションを取る、異形の集団が誕生した。
そんな彼女らは、ある日ターゲットが学校に来なくなってから次にクラス替えがあった次の日に虐める子を探すことになった。そして、その相手は直ぐに見つかる。
それは、ふわふわした、可愛げの塊のような少女。出る杭は打つためにあると思いこんでいた椿に、極度の運動音痴である百合は叩き甲斐のある相手だった。
だから、当然のようにそれを進言された椿は虐めの次のターゲットに百合を指名する。
そうして、次の日に。彼女は己の過ちを知るのだった。
『う、ぅう……が、ぅう……』
『ど、どうしたのよ! ちょっと突き飛ばしただけで、こんな……』
椿は、知らなかった。庶民なんてどうでもいいからと、同級生のことをすら知ろうともしていなかったのだ。
だから、ハメられた。日田百合は、ただ運動神経が悪いだけの存在ではない。体重も印象も軽いだけの子供ではなかったのだ。
当時の百合は全身の組成すらとんでもなく悪く、その持つ命だって吹けば飛ぶくらいに軽いものだったのに。
多くの子供が親御さんから注意されていたそのことを知らず、椿は無遠慮にちょっかいを出してしまう。
そして、少女は壊れかけの女の子を、殺しかけた。救急車で搬送された百合を、椿はぼうっと見つめる他にない。
『なんで、私が……』
そして既に飽きられていた神輿であった椿は、その事件を口実にして周囲の取り巻きに虐められることになった。
人が沸くからと行わせてきた、非道に不浄。そんな全てが、自分に返ってきてなお、彼女は己が悪いとは思えなかった。
今まで下に扱っていた奴らに、足蹴にされる。自業自得だと、親も助けてはくれない。先生ですら、見て見ぬふりをした。
だから、誰もかもが敵になった時。それでも自分を見捨てなかったのは、ただ一人だけだった。
『大丈夫?』
『貴女……!』
それは、意外にと言うか当然というか、百合である。彼女は己の身体が脆弱である種の聖域であることすら利用して、びしょ濡れにされていた椿を助け出す。
それだけではない。食べ物に何かを入れられて泣いていた椿を見つければ、どうせ自分は食べ切れないからと濁ったスープと自分のものを交換してあげる。
体育の時間の後に椿の姿が見えないと分かれば、全身汗だくになりながらも必死に百合はそれこそ学校中探して体育倉庫から彼女を見つけ出した。
直接攻撃は出来ないからと無視のターゲットにされたところで気にもせずに、百合は椿を助けた。そして、次第に二人は揃って気にされなくなったのだ。
椿はあまりに訳が分からなくて、問った。私は、あんたを殺しかけたんだよ、と。
百合は、こう返した。
『でも、あたしは生きている。だから、椿ちゃんが辛いのを許さないの』
そうして百合があまりに綺麗に死人のように笑うのを見て、椿は酷く胸痛ませる。
確かに、椿は間違っていたのだと百合も知っている。だが、それでも助けの手はあって然るべきだと彼女は思うのだ。
どんなに罪があっても、それこそたとえ人殺しだからって、辛い目に遭うべきではないと、百合は考える。
何しろ、百合は生きるだけで、痛くて辛いから。こんなの自分だけでいいよと、思うのだった。
だから、助けた。それだけなのだ。
『皆、幸せが一番だよ』
そんなことを口にする少女を、椿は理解できなかった。
自分が辛いから、人を助ける。故に、自分の行いが善行だったなんて彼女はこれっぽっちも思っていない。
まるで、百合は人の痛みを否定するために動く、存在。ああ、それはなんて歪んでいて。
美しいのだと、その時椿は心底惚れ込んだのだった。
「百合ちゃん……」
寝所にて柔らかさの合間に入り込んで、眠れない椿は豊満な胸元を押さえながら、悩ましげに呟く。
痛む。辛い。張り裂けそうに、あの子が愛おしくて。
百合は変わらない。葵と付き合ってから、変化してしまうのかとも恐れたが、彼女が亡くなっても変わってはくれなかった。
「うふ」
そう、自分を助けられる位置にいて助けてくれなかったあんな女なんかには、百合の心の底までを攫うことなんて出来なかったのだ。
その事実は、甘く、嬉しい。
椿は、微笑む。
「本当に、お利口さん」
まるで百合は私のためにあるようだと、椿は言葉にせずに思うのだった。
胸元にあった手は、次第に下へと降りていく。想いの、ままに。
胸が、痛い。愛に焦がれる。それでも、椿は急がない。
だって、愛が成就して、それであんなに美しいものが変わってしまっては、本末転倒だから。
「ああ……あの子があの子のままでありますように」
手と手を組み合わせて、椿は百合が痛み続けることを、祈る。自分を温めてくれるその温もりが、続きますようにと。
「うぅ……」
涙を流して、その罪深さを悲しみながらも、しかし、彼女は確かに彼女の口元は笑っていたのだった。
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