第四話 無知
休日を楽しむことって、あたしにはちょっと難しいことだ。
休みはアヤメと一緒に貯まった洗濯物やら外から始めるお掃除やらの家事に追われることでくたくたになってしまうあたしは、家事以外では本当に空いた時間を身体を休める時間に充てるだけ。
特にどこかへ赴くこともなく、すやすやと、眠ってばかりのあたしなのだ。葵が生きていた時は出かける時間を増やしていたけど、今はもう無理する必要ないからと、ぐっすり。
まあ、そんな面白みのない中で楽しみを見つけることは出来るかもしれない。
アヤメと一緒にお外でふわふわあったかの洗濯物を取り込むときなんて大変心地いいもの。最近買い換えたばかりの掃除機がすいすい進んで手を取られてコケちゃって、つい笑っちゃったこともある。
ご飯を作るのはとても好きだし、それにそもそも寝息を立てられることですらあたしにとっては幸せなことだった。
「ふゎあ……」
今も、ゆっくりあたしは昼寝して起きて、すっかり暗くなった外を見る。
あたしの家の周りは比較的に田畑が多い。おかげで畦に咲く花にほっこりしたり、ぴょこんと窓に飛び付いてきた蛙さんを楽しめたりもする。
今も夜の中でぱたぱたとする、コウモリさんらしき姿が見て取れた。意外なその軌道は結構面白い。二匹の追いかけっこに、あたしは暫く見入った。
「ん? 誰だろ」
丁度一匹が家を飛び越えた音を聞いた時に、携帯電話が電子音を響かせる。それがSNSアプリか何かに通知が来たときの音だと知っているあたしは、あまり沢山ではない友達があたしになにかメッセージをくれたのだと察した。
指先を液晶画面の上に滑らし、僅かな操作。そして見つけた名前にあたしは微笑む。
「ふようさんだ」
にこりとした間抜け顔をスマートフォンに向けて披露し、あたしは怖がりな彼女の固い笑みを思い出しながら、ふようさんが送ってくれたメッセージを見て取る。
その文面もやっぱりどこか固い。あたしなら絵文字や略し言葉を使って遊んじゃうのに。面白い普段はともかく文章においてはちょっと真面目なふようさんなのだった。
「明日放課後図書館で勉強しよう、かぁ……」
要約を呟いてから、あたしは大丈夫だよ、とVサインを付けて送信する。明日は月曜日。部活をしていないふようさんとあたしは、放課後に少し暇な時間がある。それを有意義に潰したという彼女の考えには、あたしも賛成だった。
椿ちゃんとかは勉強しようよと誘われるのは嫌だろうけれど、あたしはどちらかというと得意な方である勉学は好きなのだ。そして、ふようさんに至ってはどうして半端な西郡高校に入ったのか不思議なくらいに成績抜群。
彼女は暇があれば本を読んで学を積み重ねているのだった。
「見習わないとなあ」
本当に、そう思う。あたしなんて大したことないものが、何の努力もしないなんて言語道断。そんなのでは上等に生きている人たちの間に割って入る資格はないのに。
でも、あたしはどうしたって素晴らしい皆の間で楽に逃げてしまう。普段が辛いからって、そんなのいけないな、と改めてあたしは自戒した。
すっかりと暗い中。あたしは今更ながら灯りを点けることを忘れていたことに気づく。ふと、鏡のように姿を反射するようになったガラスを見てみたら、酷く白い顔をした少女が、どこか媚びたように笑っていた。
「お姉ちゃん、ご飯どうするー?」
「……あ、うん。そうだ、そろそろお夕飯の時間だったね。今行くよー!」
思わずあたしが、自分の頬を抓ろうとしたその時、ずっと最愛であるべきだった妹、アヤメの声があたしに届く。
そのおかげで我に返れたあたしは、直ぐに夕ご飯の献立を考えることに勤しむことになる。
メインはお魚でいいだろうけど、彩りはどうしようかな、そういえば冷凍庫に手を入れた小松菜があったっけ、とか思う。このままない知恵を絞りながら一階に降り、あたしは眦から柔らかな妹と手を取り合ってご飯を作るのだろう。
そんなこんなで今日もあたしは学ぶのを忘れて、無知の知すらよく分からないままに過ごすのだった。
ぱたりぱたりと、一羽になってもコウモリは夜の空を飛ぶのを止めずに。
だから、あたしは彼女の気持ちを本当は理解出来ないのかもしれない。
火膳ふようは、自分が何も知らないことだけは、知っている。
天才に並ぶことすら夢見れない、ただの無知に怯える無才は知識の群れに埋没することでしか安心できなかった。
成績が他を抜く。そんなことは当たり前である。ガリ勉に慣れたふように、膨大からの類推の上で正答を選ぶことは決して難しいことではないのだから。
自分の成績に合った学校に行かなかった。そんなことだって、当たり前だったのだ。本当の天才に思い知らされてばかりの彼女が、わざわざそういうものが群れる場所に行くことなんてあり得ないために。
「……そこ、間違ってる」
「え? どこ?」
「セントラル・ドグマとドグラ・マグラは違う」
「そうなんだ!」
西洋美術の本を読んでいる自分の隣で、なんでか分からないが、専門でもないのに生物の問題集を解いている百合に、ふようは一つ間違いを正した。
多分カタカナが少女の頭のなかでごちゃごちゃになった結果だろうが、百合の頭の中で遺伝子の基本法則の名前と読んだこともないだろう本の題名がすり替わったのは、中々愉快なことである。
「……でも、生物の問題にあの奇書の名前を結びつける百合のセンスは素晴らしい」
「あはは。ありがとー、ふようさん」
だが、ふようはにこりともせず真剣なまま心にもないことを言って、褒めそやす。それでただでさえ蕩けた少女の表情が柔らかになったことを、彼女は喜んだ。
どうしたってふようは百合を甘やかしてしまう。静かに、目立たないように努める彼女はしかし、イエローシグナルの少女のことが隠しきれないくらいに大好きだったから。
きらきらと輝く百合は、飴色をした大粒の瞳を瞬かせてから、ふように問う。
「ねえ、ふようさんが読んでる本、面白い?」
「……うん。殊更、近代美術に至ってくると難解で、頭が痛くなってきて愉快」
「それは大変だよ! 痛いのはいやー」
頭を押さえて辛そうなふりをしてみると、百合は心配を全身で表しながら突貫してきた。それをふようは受け止めてみるが、しかし殆ど体重は覚えられない。
またこの子痩せたかなと思いながら、ふようは微笑んで見せる。
「ふふっ、冗談」
「もー。あんまり驚かさないでね」
「善処します」
「大人の言葉だ!」
友人の口から出てきた曖昧な言葉にびっくりする百合。目の前で披露される百面相に、それでも可愛さ崩れないところがずるいなと思いつつ、彼女を撫でてみるふよう。
ふわあ、と接触を喜ぶ百合に、ふようはますます調子に乗る。それこそ、親からかけられた呪いの言葉すら忘れて、楽しげに。
「ふふっ……百合。痛いのも気持ちいいものだよ?」
「それは大人の言葉というか……変態さんの言葉!」
「羽化したての蝶の羽はスケスケでとっても綺麗だよね……」
「それ、違う変態だよ!」
「ふふ。百合は賢いね。ご褒美に私、ひと肌脱いで夜の蝶になって、スケスケせくしー下着を披露してあげようか? ほら」
「ふようさんが変態さんに変態しようとしてるー! 止めてー」
ふとももまでを覆ったスカートの端をぴらりとしただけで、百合は大げさに乗ってくる。
野暮ったい下着しかその中にはないのに、恥ずかしげに顔を覆いながら背ける少女が、ふようにとってはとても可愛らしいものだった。
しかし目に入れても痛くない、という言葉があるがそれ程では流石にない。そも、接触に痛みなんて当たり前。何せ百合への想いを胸に抱いているだけでふようの心ははち切れそうに痛いのだ。身体の一部にでも容れたら、どうなってしまうことやら。
もっとも、膝の上できゃあきゃあ言う百合は、キャンディのようにどこまでも甘く丸い安心安全。目の前の尖ったところ一つもない子は擦り切れたふようの心を何時だって優しく撫でてくれるのだった。
だから甘えて、ふようはときに駄目になるのである。それこそ、母親のように、恋に焦がれてその他を忘れて。
「……百合はいけない子だね」
「いけない子なの、ふようさんだよ!」
「そ……ふふっ」
「きゃー、髪は止めてー」
ふようは、そうだね、と返しそうになったところで我に返り誤魔化すように百合の頭をごしごし擦った。
ふわふわの細髪がとっ散らかっていくことに、慌てる百合。金毛に限りなく近い少女の髪の毛は輝いて仕方ない。小さな手が二つその広がりを押さえているのが、どうにもいじらしかった。
「ふふ……」
それを愛らしいとふようはうっとりと間近で見ながら、彼女は冷静な部分でこれで自分の学ぶ時間が五分は減ったと、カウントする。
そのために起きる焦りをふようが欠片も浮かべないのは、果たして彼女の上手なのかどうなのか。だが何時だって、足りない足りないとふようの心はあえぐのだ。
そう、火膳ふようはほとんど全てを知らないからこそ信じることの出来ない自分を許せない。
『あんたは、クズの子だからね。クズなんだよ』
浮気症の母の血を引くふようは、彼女にそんな言葉を掛けられるまでもなく分かっていた。自分は自分のことが大好きな生き物でしかないと。
あの不可思議の塊であった、水野葵にも言われていた。キミは、自分以外を信用していないんだね、と。
それはそうである。親に嘘を吐き続けられた幼少から、ふようは全てを不審がっていた。
愛していると言っていた母親には浮気の結果として生まれた最愛の娘が別にいて。大切だと言っていた父親は、母が居なくなったらもう自分に目を向けることすらなくなった。
まあそもそも、不義の子供同士の子供。親子の触れ合いなどは殆どなく、端から信などそれほど存在はしていなかったのは、不幸中の幸いだっただろうか。
だがその経験によりふようは、自分以外を信用できなくなっていた。
よく分からないのは殊更嫌いで、ふようは自分以外の知らない全てが怖い。見知らぬ花にだって時に悪意を幻想してしまうくらいだから、それはよっぽどのことだ。
だから、彼女は向かない勉強をしている。知らないもののその意図の不明さに恐れるのを嫌って。
『ふようさんって、優しい人だね』
だがしかし、そんな内心を諦観と共に吐露した際に、百合はそう言ったのだった。
そうして百合は微笑みと共に続けたのだ。怖くても手を伸ばすのってあたしにはとても出来ない、とっても優しいことだと思うんだ、と。
向けられた視線の温かみにただ、あ然とする。ふようは、百合のそんな思い違いを、ダリやピカソの絵よりもよっぽど理解することができなかった。
「すぅ……」
「ふふ」
二人が図書館にてはしゃぐという、あまり良くないことを楽しんでいると、途端に百合はまるで糸が切れたかのように寝入りだす。
ああ、これは何時もの電池切れだな、と気づいたふようは辺りに広がる二人分の勉強用具を片付け始める。心底、面倒だと思いながらも彼女の手は止まらない。止まってなんてあげないのだ。
「……よし」
そして、バッグ二つを両肩に下げながら、彼女は軽い軽い百合を背負う。途端に寝息のこそばゆさにびくりとして、しかし震えは続かなかった。
「大丈夫」
正直なところ、怖い。ふようは、百合のことだって本当は心の底からは信じられていないから。
このよく分からない子に後ろから刺されるのは嫌だ。でも、この子に嫌われるのはもっと嫌だ。そして、百合を愛せないのは、もっと嫌だった。
決して百合になら殺されてもいいとは思わない。けれども。
「……百合に痛めつけられるなら、それはきっと、気持ちいいこと」
本心から、ふようはそう思う。
だって今だって。怯えて出すことすら出来ない深い想いは痛くも自分を傷つけつつ、こんなに甘く切なく感じさせてくれるのだから。
「はぁ……」
一人に悩ましげな吐息は、高い空へと消える。
求めるように向けたふようの視線の先では二匹のコウモリが、近寄り離れ、じゃれ合いを続けていた。
闇の中、それでもきっと求め合いは続いていくのだろう。
「いいなぁ」
なんとはなしに、ふようはそう呟くのだった。
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