第二話 鬼々怪々
空が綺麗になるのが夜ならば、昼は世界が綺麗になる時間であると、あたしは思う。
燦々と輝く一遍。何時もの光景を普通と人は言うけれど、それでもやっぱり皆が当たり前にあってくれることは嬉しい。
それを、あたしは最近痛いくらいに思い知っているだけ、余計に。多くの元気を、あたしは喜ぶ。
「みんな、凄いなあ」
そんなこんなをクラスメイトがめいめい駆ける日差しの下で思いながら、あたしは彼らに追い越されながらふらりふらりとグラウンドを巡る。
千百メートルを長距離と感じるかどうかは人によるだろうけれど、最低でもあたしにとってそれはとてつもない長さだった。
疲れに棒のようになった足を無理に先へと出すのを繰り返し、あたしは過去にあたしにかけてくれた葵の声援を思い出して、今それが失われていることを悲しんだ。
「やっぱり、ビリかー」
幾ら頑張っても、そもそもの規格が矮小であれば、同等の結果は出てこない。今回も、あたしは最下位を独走だ。
スポーツテストなんてなくなってしまえばいいとまでは思わないけれど、それでも毎年行われるそれのことを私は苦手にしていた。特に、体力に関しては全然なあたしなのだ。
あたしを溺れさせるつもりなのかなというくらいに汗は滴って、喉元は必死に酸素を求めすぎて痙攣しているよう。
未だ空に向かって咲くことの出来ない、地べたを這い回るのですら苦手なのがあたしである。可愛いねという声が可哀想ねと聞こえてしまう、そんな子供だった。
「けら。大丈夫?」
「
よちよち歩きのあたしに、近寄る影が一つ。颯爽と現れたお団子ヘアがお似合いのどこか尖鋭的な整いを持った彼女は、土川楠花。あたしの反対で運動神経抜群な、世にも珍しい鬼の女の子だった。
人間なんて歯牙にもかけない筈の楠花ちゃんは、けれども人の中に混じって正体を隠しながらもあたしに良くしてくれる。
それが、葵が残した願いから、というのは複雑だけれど、それでもあたしは嬉しかった。だから後ろ走りで先導してくれる綺麗な彼女に無理矢理にでも、あたしは微笑む。
「大丈夫、だよ。ほら、後少し……」
「けら。赤をとっ越してそんな真っ白なまでの顔して、よく頑張るねぇ」
「だって……」
「だって?」
「友達の前でくらい、意地を張りたいもの」
そうして、あと十メートルくらいに先に引かれたラインの周辺を見る。多くが次の種目に取り組んでいる中で、先生とお友達の何人かはゴールの近くにて待ってくれていていた。
奔放な楠花ちゃんは待てなかったみたいだけれど、他の子達は心配したままあたしが頑張り切ることを信じてくれているのだ。懸命に手を振ってくれる、普段は冷静なあの子のエールが届く。
それに応えなくっちゃあまりにかっこ悪い。もっとも、体育の授業で必死にならなければならないあたしがダサくないわけもないのだけれど。
と、そんな考えをしていたところ、ぷるぷるする足が白線を踏んだ。ここであたしもようやく走り終えたみたいだった。
「――ふぁ」
「百合ちゃん!」
途端に集中が切れてぱたり、と倒れ伏そうとするあたしの身体。そして疲れに意識は勝手に美しい世界から切り離されていく。
ブラックアウト。仲良しの椿ちゃんの声がどこかから響いて、そうしてあたしが小さな総身を地面にぶつけた際の痛みを覚悟したその時。
「けらけら。確かに、百合は面白い人間だ」
木の幹のように確りとした何かに、優しく抱かれたのだった。
土川楠花は、鬼である。それどころか、本当のところ彼女は種族名に物語られる鬼――バケモノ――の名を借りているばかりの、その身に繋がる異界に埋没した部分が世界を突き破るほどのスケールがあるヒトガタの異形だった。
ややこしいが簡単に言えば、遠い未来に世界を滅ぼすだろう異世界からの侵略者の一つ。そんな楠花の一族が尽く人間のようであるのは人間原理の証明のようであるが、そんなことは流石にどうでもいい事実である。
まあ、つまるところ楠花は人間に似たナニカであり、そもそも彼女も人に混じるつもりなんてなかった。
「けら。でもまあ、面白けりゃそりゃ手がでちゃうよね」
柔い脆すぎる少女、百合を抱き上げながら鬼の少女はそう独りごちる。スカスカで鬆ばかりのその身体の脆弱さに、愛着を覚えながら。
面白い。流石にあのどこかからの命令を遂行することに必死だった面白い人間、葵の大切な人なだけはあると楠花は思う。
人と中身が違う感覚器で、彼女はじろりと百合を観察する。
これは、生きるので限界だ。頑張ることには向いていない。だがそれでも、この子供は今回もやりきったのだ。
そして、それは何時だってそう。小さいなりでちょこまかと、百合は精一杯の愛を振り撒き続ける。それでみんなに幸せになって欲しいと強欲にも笑うのだ。
綿の少女は柔らかにも、その中身のない全身で人の心を撫で付ける。そんな博愛ぶりは、相方だった葵の偏愛ぶりと好対照で、それこそ楠花の正体を知ったところでそれは変わらず、だからこそ鬼は目を惹かれたのだった。
「ま、葵の遺言を聞いてるから気にしてるってのも正直僅かにあるけどね……っと」
「百合ちゃん!」
「……大丈夫?」
楠花がそんなこんなを思い出してそっと百合の蒼白な顔から汗でべたついた前髪を退かしていると、そこに二人の少女が駆けこんで来る。
鬼の子が抱いた中を覗くのは少女と言うには大人びすぎている月野椿と、少女と言うには知りすぎている火膳ふよう。
彼女らは楠花の平たい胸元で安らいでいる百合を見て、安堵する。そして癖毛にしては主張の強い――ドリル状――の髪を揺らして、椿が言った。
「ふぅ、良かったわ、土川さんが百合ちゃんが倒れる前に支えてくれて。百合ちゃんたら、何て言っても頑張っちゃうから……」
「心配」
「けら。そうかい」
椿のいやに聞き取りやすい甘い声色を聞き、百合を見つめるふようの、無表情に心配の色を乗っけるなんていう器用さに感心しながら、楠花は笑う。
そして果たしてその心配は誰のためかと思うと彼女はまた嗤ってしまうのだ。
「けらけら」
ああこいつら、愛という蜜を求める蟻みたいだな、と思って。きっと百合が愛を大安売りしているから近寄っているだけで、彼女らは自分を温めてくれるなら本当は誰でもいいのだろうな、と。
非情な鬼は悲劇のヒロインさん達の常を間近に感じながらも、そんな事実を口にはしない。
だが、親愛の欠損者達によって百合が何時までも食い物にされるのも面白くはないと、ひょいと軽い彼女を持ち上げた。
俗に言うお姫様抱っこの形を採った同級生にびっくりする椿とふよう。それを気にも留めずにこの場の一番の年長へと振り向いた楠花はからりと言った。
「それじゃあ、私がこの子を保健室まで持っていくよ。良いだろう、先生?」
「そうですね……本当ならあと二人ほどつけてあげたいところですが、土川さんなら大丈夫でしょう。お任せします」
少し申し訳無さそうにする体育教師。そんな何時もの放って置いてこっち見に来てよセンセー、という内容を砂場から叫ぶ他の生徒の言葉を雑音としてお辞儀する彼女に楠花はゆっくりと背を向けた。
そして、鬼は首を回して椿とふように対して、言う。
「けら。ということで、それじゃあね」
「あ……うん、百合ちゃんをよろしくね」
「……お願い」
楠花に向けて頼み込む、少女たち。だが、彼女たちの視線に強い嫉妬が篭もっているのを察せないほど楠の鬼は愚鈍ではなく。
「けらけら」
だから嗤って、彼女はその場から歩み去った。
楠花は世界を刺し貫くバケモノである。その証として、彼女の頭頂には小ぶりの角があった。
だからこそ鬼種として分類されているのではあるが、それはそれとして人の中に混じるにそれは邪魔である。
どこからか知識を得ているのか、何でも見透かしてくる面白い人間である葵と学生生活というものに興じようというのに、その特徴を開示したままでは上手く行かないのは明白。
どうしようかな、と思っていた時。それを知っていたかのようなタイミングで楠花の元にやってきた葵は、一人の小さな存在を引き連れていた。
なんだこのハリボテは、とその子に触れるのを躊躇ったそんな時。その少女――百合――は喜色を表しながらこの世を引っ掻くための鋭く整った容姿をした楠花を見て言ったのだ。
『わあ、この人とてもキレイ!』
角――異形――は目の前に晒している。その上で、こいつは私を人に見たか。なるほど葵が手にしているだけはあると、面白くなった楠花は笑う。
『けらけら。そんなに私は綺麗かい? こんな余計なものが付いているのに?』
空をすら切り裂く先端を指差しながら問う楠花。本当に、彼女にとってそれは疑問だった。
こんな人でなしの証が付いているバケモノのどこが綺麗なのか。そう、自分がこの世に認められるべきものでないと楠花は信じ込んでいたから。
だが、生きとし生けるものを思いやりたい百合は元気に言うのだった。
『うん! だって――――』
「貴女はあたしみたいなオバケじゃないから、か……」
「むにゃ……」
保健室のベッドの横で、角を隠すために頭頂にて髪をまとめて作ったお団子を弄りながら楠花は独り言つ。
そして、また口の端から寝言のなりそこないを発する自称オバケの百合を眺めながら、彼女は思う。この子もよっぽど生きているのが辛かったんだろうな、と。
それはそうだ。ただ生きるのにも必死にならなければいけない矮躯に、夢なんて詰め込めない。今を生きるだけの影――曰くオバケ――にしかなれないのだと、勘違いしてしまうくらいに百合は自分の小ささに苦しんでいた。
何しろそんな部分を突いて攻略したのだという葵すらも、可哀想だと言っていたのを、楠花はよく覚えている。
「――そんなことはないさ。百合は、立派な人間だ」
だが、楠花は百合を見つめながら、一人言い張った。
頑張り続ける出来損ない。そんな素敵なもの、人間でなくて何だ。それが立派でなくて他に何が立派なのだろう。
そう考えて、布団の横にちょこんと出ていた小さな小さな百合の手を、楠花は掴む。それはとてもとても、柔らかかった。
思わず、壊してやりたくなってしまうくらいに。
「けらけら」
そして、心の底から彼女は笑い、そっと百合に覆いかぶさった。
楠花はそのまま顔をどんどんと下げていき、やがて。
「ああ――――あんたったら、私が鬼らしく、食べちゃいたくなるくらいに可愛いよ…………ん」
鬼がお試しにと味わった人の子の唇は、温いものだった。
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