第35話 病室で
重苦しいまぶたをゆっくりと開けて、ぼんやりとした視界で目の前にある白いなにかをじっと見つめる。
あれは天井なんだろうか。
ゆっくりと首を回すと、染み入るような痛みが肩から首の辺りまで走る。
そしておなかの辺りからも、ジンジンとしたイヤな痛みが。
それに耐えながらゆっくりと周囲を見渡すと、ここは病室みたいだ。
周りにベッドが見えないので、たぶん個室タイプなんだろう。
僕の左腕には深々と針が刺されていて、そこから伸びた管が点滴へとつながっていた。
――ふと、右腕の側へと視線を移す。
そこでは、目を赤く腫らせた白石さんが心のそこからうれしそうに笑いながら座っていた。
「……おはよう」
かなりガサガサしていた自分の声に我ながら驚く。
白石さんはそんな聞きづらい言葉にも関わらず「おはよう」と言って、
――僕の額にデコピンした。
「イタッ!」
アイドルは見た目とは裏腹に、いろいろな練習を積み重ねないといけない職業である。
だからだろうか、彼女のデコピンは思った以上に痛かった。
「まったく。あの傷結構深かった上に意識がなかったから、私心配したんだよ?」
「え?」
「大腸の辺りをかすってたんだって。手術はちゃんと終わったから、その辺りは大丈夫だと思うけど」
「え、そうなんだ」
あまり実感がない。
あの時は勢いであまり痛みを感じていなかったものの、実際はかなり危ない状態だったみたいだ。
「……どれくらい意識を失っていたの?」
「手術も含めて丸1日くらいかな。それとお医者様が言っていたけど、全治3ヶ月だって」
「……そんなかかるの?」
「うん。まあ、学校のほうも入院中でも勉強できるように対策しているらしいから、その辺りは安心していいと思うよ」
横に置いてあった林檎を剥きながら白石さんが言う。
こうやって見ると、ずいぶんと手が器用になったんだな。
「そういえば、あの穴井……さん?」
「別に良いよ呼び捨てで。あんなのに敬称付けたくないでしょ?」
「……穴井はどうなったの?」
「傷害罪で現行犯逮捕。もともと逮捕令状も出ていたし、余罪もいろいろと追及されるでしょ」
そうなったら社長たちも無事じゃすまないかもしれないねと、白石さんはいたずらっぽく笑った。
「……でも、事務所はどうなるの?」
「しばらくは無所属になっちゃうかもね。でもその辺りは心配しないで。アテがあるから」
……白石さんはすごい。
「そうかもね」
彼女がそう返したのが聞こえて、遅れて恥ずかしさがやって来る。
どうやら、さっきの考えがこぼれてしまっていたみたいだ。
「でもさ、あの時言ったでしょ?」
白石さんは林檎をきれいに八等分して言う。
「どれもこれも黒木くんのためだって。もし黒木くんがいなかったら、きっともっとダメな人間になってたと思うよ」
「その……例えば?」
「うーん。人と会うのがものすごく苦手になって。ものすごーく小さいころから引きこもりになっちゃうとか?」
そう答えながら快活に笑う白石さんがそうなるとは到底思えない。
けれど彼女の実家がものすごい家なのは本当のことで、それに――
「言われてみれば、あの時とかものすごかったもんね」
「……え?」
「ほら。保育園で会ったばかりの時なんて、あいさつする前に家具の後ろに隠れ……て……」
白石さんが驚く顔が見える。
そして僕も、自分が口走ったことに驚きを隠せないでいた。
「……思い出した」
「黒木、くん?」
「……思い出したんだよ、白石さん」
そう答えると、白石さんはうれしそうに笑った。
「保育園の時のことも、一緒に家で遊んだことも」
「……うん」
「全部全部、今の今まで忘れてたなんて」
――ふと、白石さんの手が動く。
彼女は僕の頭にその手をのせ、ゆっくりと撫で始めた。
「ありがとう黒木くん。これからは昔のことも喋れるんだと思うととてもうれしい。……でもね」
「……なに?」
「昔のことはもうどうでもいいんだ。だって、私が好きなのは幼稚園のころの黒木くんじゃなくて、今ここにいる君なんだから」
白石さんが恥ずかしそうに頬を赤らめながら言う。
その言葉がかかるであろうことはなんとなく予想できていて、それでも、予想をはるかに超える喜びを僕の心の中へともたらしたのだった。
◇ ◇ ◇
「――あ。もうこんな時間だ」
スマホの画面を見ながら白石さんがつぶやく。
僕もつられて見てみると、そこには「20:27分」の文字が。
起きたときの時間はわからないのだけれども、カーテンからやわらかな日差しが指していたのは確かだ。
今は外もすっかり暗くなってしまっているので、かなりの時間が経ったのは確実だろう。
あの後思い出話に花を咲かせたのだけれども、思った以上に長く話していたみたいだ。
「マネージャーも待たせちゃっているし、今日はこのくらいにして帰るね」
「うん」
現在、あのマネージャーさんがそのままマネージャーの仕事を引き継いでいるらしい。
穴井のほうはあれだけ問題を起こしたのだから、まあどちらにしてもマネージャーの仕事はクビになるんだろう。
もし僕が社長の側だとして、イラついて刃物まで取り出すような人間は怖くて置けない。
「……それじゃあ、また来るね」
「うん。楽しみにしている」
すっかりしなびてしまった林檎をかじりながらそう答える。
みずみずしさを失ってしまった林檎は、それでも甘酸っぱくておいしかった。
――白石さんが、名残惜しそうに病室の外へと向かっていく。
「……白石さん!」
白石さんは弾かれたように振り向いた。
「また明日!」
「……うん」
そううなずく彼女の姿は、どこまでもうれしそうだった。
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