第6話 「ごめんね」

 白石さんに運ばれた僕は、先生が出払っている保健室で白石さんから手当てを受けていた。

 僕は自分でできると言ったのだけど「どうしても」と白石さんが言うから折れたのだ。


「……ごめんね、助けるのが遅れちゃって」


 消毒液で殴られた跡を消毒しながら白石さんはボソリとつぶやいた。

 学園やテレビで聞く落ち着いた声でも、恋人として一緒にいるときに聞く溌剌なそれでもない、落ち込んだ声だった。


「ううん、僕こそごめんね。色々と台無しにしちゃって」


 彼女に色々と助けてもらったのに、最後の最後でこうなってしまった。

 やっぱり僕は――


「――『僕はダメなんだ』とか、そんなこと思ってない?」

「い、いや、そんなことは……」


 図星だった。

 結局こんな僕は彼女にふさわしくないんじゃないかと、確かにそんなことを考えていた。


「……あいつね、私のこと好きだったみたいなんだ」


 顔を下に向けた白石さんが、ぽつぽつと言葉を紡ぎはじめる。

 白石さんの口から言われて合点がいった。

 白石さんのことを妙に見ていたり、彼女と話した後あたりから僕に接触しはじめたり、そんなことがいくつかあったから。


「でもね、私はあいつのことなんて興味がなかったんだ。だからどうでも良くて無視してた。というより、一定の距離を超えないようにあしらっていたって感じかな。……それが、こんなことになるだなんてね」

「こんなこと?」

「あいつは君に嫉妬してたんだ」

「……え」


 それは初耳だった。

 そして合点もいかなかった。


「たぶんだけど、私の気持ちに気づいちゃったんだと思う。……私が君に恋してるってこと」

「……いつから」


 混乱する頭で質問する。


「いつからは知らない。けど結構前からだと思う。……黒木くんがこんなことされてるだなんて、全然知らなかったけどね」


 我ながら薄情な女だね、と彼女は笑った。

 自責の念をひきずったひどく乾いたものだった。

 ――ああ、違う。

 僕はそんな顔をさせたかったわけじゃない。


「……ねえ、白石さん」

「……なに、黒木くん」


 ふと顔を上げた白井さんと目があった。

 やっぱりというべきか、彼女の目はいつもと違い悲しみに曇っている。


「僕、後悔してないよ」


 とっさに口をついたのがそれだった。

 もっと色々なことを、たとえば「千田くんは白石さんが帰ったあとにやってたから気づかなくてもしょうがないよ」とか「ここまでされたことは今までなかったから」とか、そういった言葉で慰めようとしたのに。

 だけど出てきたのはこれだった。

 ……でもきっとこれでいいんだろう。

 これこそが、僕がなによりも言いたいことだから。


「え……」


 白石さんが困惑した様子で立ちすくんでいる。

 それを気にしていないかのようにふるまって僕は言葉をつづけた。


「だってさ、白石さんのおかげで、こんな立派な格好になれたんだ」


 ありがとう。

 そう白石さんに伝えると、彼女は大きな瞳をうるませてぽろぽろと涙をこぼした。


「……ずるい、ずるいよ黒木くん」

「……うん」

「そんなこと言われたら、もっと好きになっちゃうじゃん……」


 ――好き、か。

 千田くんの表情を思い浮かべながら僕は思う。

 今でこそ彼女は僕のことを好きだと言ってくれているけれど、きっといつかは別れなければならない日がくるのだろう。

 彼女はこんな僕を好きだといってくれたけれど、やっぱり彼女にはもっとふさわしい人がいると思うんだ。

 できるのなら、その時は笑って見送ってあげたい。

 ……だから、せめてこの時だけは。

 その別れをどこまでも引き延ばそうとする、ずるい僕を許してほしい。

 そう願わずにはいられなかった。


◇ ◇ ◇


「……さて、もう大丈夫みたいだし一緒に帰ろうか」


 白石さんの言葉にうなずいて、僕たちは靴箱へと向かった。

 ひらひらと保健室の先生が手を振っていたので、僕たちは軽くお辞儀をしてそのまま保健室を出る。

 白石さんが泣いてからしばらくして、保健室の先生が戻ってきてくれたのだ。

 ケガの様子を見たところ、清潔にさえしておけば大したことはないだろうということで、湿布と絆創膏をもらってそのまま帰ることになった。

 誰もいない廊下にカツカツという靴音だけが響く。

 ――ピチャ、ピチャと、水滴が地面に落ちる音が聞こえる。

 それが土砂降りに変わったのは、保健室を出てからしばらくしてのことだった。


「……困ったな」


 そう白石さんがつぶやく。

 話を聞いてみると、今日の天気予報が晴れだったので、油断して傘を持たずに出たとのことだった。


「折りたたみ傘とかは入れてないの?」

「……それだ! なんで気づかなかったんだろう、ありがとう黒木くん!」


 白石さんは意気揚々とかばんを漁りはじめた。

 数分から十数分ほど経ってからだろうか。最初は素早かった腕の動きが、段々と緩慢なものへと変わっていく。


「……あ、あれ?」

「白石さん?」

「……黒木くん、傘忘れた」


 白石さんが絶望した様子で僕を見つめる。

 折りたたみ傘も忘れてきてしまったみたいだ。

 ――なら仕方ないか。

 僕はかばんから折りたたみ傘を取り出し、その手を白石さんのほうへと伸ばす。


「これ使いなよ」

「え、いいの?」

「うん。ウチにまだまだ予備あるし、貰っちゃって」


 白石さんが、僕の取り出した傘を見てうんうんとうなっている。

 受け取るべきかどうか悩んでいるみたいだ。


「……よし、決めた!」


 白石さんが僕の傘――を通り越し、腕をつかみながら溌剌として声で言った。


「黒木くん、一緒に帰ろ!」

「うん……うん!?」


 そうして僕は白石さんと一緒に帰――

 ――白石さんと、一緒に、帰る!?

 い、いや、そ、そ、そんな恐れ多い!


「ほら、相合傘って恋人っぽいでしょ? せっかく恋人同士なんだからやろうよ」

「で、でも、住所とかバレたら、色々と、マズいんじゃ……」

「たしかにそうだね。だけど帰るときはいつもマスクしてるし、黒木くんの家まで一緒にいくくらいなら大丈夫だと思わない?」

「……オ、オモイマス、デス、ハイ」


 いくらなんでも無謀すぎるとか、そんな問題じゃないだとか、反論はいくらでも出てきた。

 だけど彼女の顔を見てしまうと、どれもこれも使えないガラクタに成り下がってしまう。

 彼女の言うことを聞きたくなってしまうからだ。

 ――ここは腹をくくるしかないか。


「……わかった。一緒に帰ろう?」


 堪忍してそう答えると、白石さんは満面の笑みで答える。

 ――ああ、これだ。

 テレビの中で見せる完璧な笑顔とも、ふだん見せるクールな顔とも違う、年相応の少女らしい笑顔。

 洗練されていなくて、だけどそれが何よりも魅力的な僕だけに見せる顔。


「それじゃあ、早く行こ!」


 ひどくはしゃいだ様子の彼女が靴箱へと向かって走りはじめる。

 僕は腕を引っ張られてこけないように気を付けながら、彼女の後を追うのだった。

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