第18話 二年後の世界

 二年の月日が流れ、ほんのちょっとだけ身長が伸びた。会うたびに大きくなったと驚く僕の恋人は、最初は気を使っているものだと思っていたのに、測ったら四センチほど伸びていた。

 たった二年でもされど二年で、学生の一年は長いものだと思う。在学していた頃から小説を書き始めていて、実を結ぶようになっていた。

 本屋の角で長い行列ができ、一人一人で握手を交わして有り難い言葉を頂戴する。狭い空間で生き続けた僕は、てっきり同い年くらいの人がくるものだと思っていた。九割くらいが大人で、大人になるとはこういうことかと勉強になった。自分の持っていた世界が覆される。

「二度目の握手会も好評でしたね」

「ありがとうございます。ぜひまた呼んで下さい」

 サインつきの本は綺麗に完売して、追加で名前を書いた。名前を書いただけで喜んでもらえる。僕は倍以上幸せをもらっている。

 ファンの方の頭に桜の花びらがついていたりと、建物の中にいても春の訪れを感じるし、春を運んでくれた。仕事を終えて本屋を後にすると、外は桜の香りで包まれていた。空は青色ではなく、桃色だ。

──ショッピングモールで。

 一本のメールに返事をし、僕は小走りで待ち合わせ場所に向かう。

 ベンチに顔色の悪い女性が座っている。年齢は……分からない。不詳だ。若くも見えるし、けれども年配というわけでもない。

「あの……大丈夫ですか?」

 女性は驚愕し、やがて頬から涙が伝う。綺麗とは言えず、どす黒く見えた。

「ごめんなさいね。冬は耐えられたんだけれど、春になったら急に悲しくなって」

「春になると気分が高揚して、悪い方向に行ってしまう人もいるんです」

「心理学でも学んでいるの?」

「いえ、人間行動学です。大学を卒業したばかりで」

「まあ、おめでとう。うちの娘もあなたくらいの年齢ね」

「大学生なんですか?」

「そうね……二年前に行方不明なの」

 行方不明。ある女性の姿が浮かぶが、数日しか顔を合わせていないため、すでにモザイクがかかったようにはっきりしない。

「あなたは大切な人はいる?」

「ええ……います」

 浮かんだ顔は、優しくて世界一かっこいい王子様だ。そしてスーパーヒーロー。

「自分の子供が犯罪者扱いされて、家族や友達、親戚からも見放されて。でもね、私は娘を信じたいの。警察がいくらうちの娘を犯人の可能性があるって言っても、私は信じたい」

「それは……そうでしょう」

「ああ……リンダ……」

 まさかとは思っていたが、こんな偶然があるのだろうか。

 僕は彼女に殺されかけた。向けられた銃口はときどき夢に出て、銃弾が僕を追いかける。夜起きるとリチャードが抱きしめてくれて、温かなミルクを入れてくれる。不幸と幸福が一度に体験しても、相殺してはくれない。どちらもそれぞれの記憶として、脳に刻まれる。

 あの事件があってから、学校でも持ちきりだった。どこで情報が漏れたのか、セシルの別荘で起こったと広がると、マスコミも土足で入ってくる。僕も大学をしばらく休んだ。

 リンダとともに出てくるのは、アビゲイルだ。彼女はどうしているだろうか。彼女は殺人者に荷担してしまった。イーサンが殺害された後、僕の部屋で倒れているイーサンを発見して、残り香からリンダが犯した罪だと気づいていた。冷房の温度を下げ、せめて死後硬直の時間をずらそうとした。たったそれだけでも、罪は罪だ。

「今日のこと、どうか覚えていてくれるかしら? そうすれば、娘を知る人が一人でもいてくれるから」

「もちろんです。忘れません」

 夢に出てくるくらいだ。忘れたくても忘れられない。

 女性とさよならを交わし、待ち合わせのカフェに急いだ。すでに三十分のオーバーだ。

 圧倒的な女性の数で、男性がひとりでいると珍しさでつい目がいってしまう。他の女性たちもだ。けれど、奥に座る男性に視線が集まるのは、それだけじゃない。

「リチャード、ごめんなさい。遅れました」

「女性と何を話していたの?」

「……エスパーだ」

「ふふ……ここからだと丸見えだからね」

 窓ガラスには、桜の散る様子も車の排気ガスもなんでも見える。

「まあ……そうですね。びっくりな話です。リンダのお母さんでした」

「あの?」

 リチャードの顔が険しくなる。FBIの顔になった。

「偶然です。僕がここにいることは、リチャードしか知りませんから」

「偶然は起こるから偶然というが、事件で起こる偶然はない。必然と……すまない。デートで生臭い話はいらないな。サイン会はどうだった?」

「皆さんに好きとか、次作も楽しみにしてるって言ってもらえました」

「それは良かった。成功したみたいで嬉しいよ。何か食べないか? おすすめはレモンパイだそうだ」

「じゃあ、それにします」

 リチャードはサーモンが乗ったワッフルを頼み、僕は追加でコーヒーを注文した。

 ここ最近は立て続けで、お互いに忙しかった。卒業を終えてワシントンへ引っ越ししてきた僕は、リチャードとついに同棲生活を始めた。日の当たる部屋が僕のプライベートルームで、数日間荷どきに費やしていた。リチャードも家に戻れないほど、多忙だった。

 数日ぶりに会ったリチャードは前髪を横に撫でるだけのラフな髪型だった。かっこいい、僕の王子様。

「リチャード、リチャード」

「ん?」

「リチャードって、ハンサムで困ったことはありますか?」

 ちょうど頼んだデザートがきた。レモンパイにはバニラアイスが添えられていて、黒い粒々つきだ。バニラビーンズが入っているだけで、なぜかましましに美味しそうに見える。

「どうしたの? 急に」

 リチャードは困惑した顔だ。そんな顔もかっこいい。

「女性はいつもリチャードばかり見てるから」

「ははっ……そんなことはないと思うけどね。俺は一番好きな子から好きって言われてればいいよ」

「答え方もパーフェクトだ……」

「早く食べないとアイスが溶けるよ」

 すでにパイが水浸しになりつつある。パリパリでもしっとりしていても美味しい。

「困ったことか……強いて言うなら、そういう人間だと思われることかな」

「そういう人間?」

「俺にも得意じゃないことはあるだろう? なんでもできる万能人間に思われる。できないとがっかりされるんだ。美味しいって食べてくれたのは君だけだったよ。セシルは俺の作った料理を食べるとき、眉間に皺が寄るんだ」

 セシルから聞いた話だが、リチャードの作った料理を食べて腹痛で死にかけたらしい。

「勉強も運動もできて当然のように思われるからな。他人からのプレッシャーが凄まじい。ナオは? そんなに可愛くて困ったことはない?」

 リチャードは笑いながら質問した。

「もう……強いて言うなら、リチャードが可愛い可愛いって褒めてくれるところです」

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