第16話 憧れの人と

 真っ白な天井を見て、家じゃないと悟った僕はなかなか現実を受け止められなかった。

 近くにいた真っ白な服を着た女性がいて、僕に気づくと部屋を出ていった。

 ぽたぽたと落ちる点滴を見つめていると、セシルとドクターが入ってきた。

「良かったあ……目が覚めて」

「なんで僕、病院にいるの?」

「目を覚まさなかったからだよ。それと検査入院」

「セシルも?」

「一応検査してもらった」

「他のみんなは?」

「ディックなら警察署だよ。いろいろ説明するんだってさ」

 いきなりリチャードの名前を出されて、布団に顔を隠すしかない。

 みんなの前で、盛大な告白をしてしまったんだ。あのときは二度と会えなくなるかと思って、つい。後悔だけはしたくなかった。でも今は後悔しかない。結論は、どの道を選んでも後悔が残る。

「まさかふたりが付き合うことになったなんて、知らなかったよ! おめでとう!」

「え?」

「ディックが言ってたよ。同棲する約束もしたんだって?」

「え? え?」

 話がついていけない。セシルは何を言っているのか、もしかしたらこれも夢の可能性がある。

「卒業したら一緒に住むんでしょ? 良かったじゃん!」

 ひとときの夢を見せようと、リチャードが嘘をついてしまったのか。困惑しかない。

「ほら、あんまり騒がないように。記憶はある? 点滴は打ったけど、身体の痛いところは?」

「ないです」

「なら退院できるね」

 ドクターは忙しそうに、部屋から出ていってしまった。冷たいというより、本当に忙しいんだ。額の汗が物語っている。

 荷物はセシルがまとめていてくれていた。お礼を言うと、スーツケースに詰め込むだけだから問題ないと笑っていた。

 セシルの話によると、外に逃げた後、すぐに警察が駆けつけてくれたらしい。レスキュー隊も続いて現れ、まずは年配のドクター夫妻、続いて気を失った僕、あとは体調の悪い順に保護されたのだそう。オリバーは廊下でうろうろしていて、隊員を見るなり何度も吠えたと言っていた。危険を知らせたかったのかもしれない。

 気を失っていた時間はほぼ朝までで、今は七時である。寝過ぎて頭が痛い。

 本当に本当に、恐ろしい出来事だった。突きつけられた銃、犯人とは思えない人物の中身が露出した姿、すべてが夢のようだった。白昼夢であればどれだけ良かったか。

 母親には退院した後、事件に巻き込まれたとメールをした。きっと何も知らないはずだ。

 母は僕を見るなり抱きしめ、しばらく離さなかった。

「ニュースでも持ちきりよ。本当に良かった……病院に行けなくてごめんなさい」

「そんな心配しなくて大丈夫だよ。いろいろあって気を失って、点滴を打ってもらったんだ。朝までぐっすりだったよ」

「朝食はパンでいい? フランスパンがあるから、サンドイッチでも作りましょうか」

 いつもよりちょっと豪勢な朝食だ。お腹は空いていたようで、普段より多く食べた。母の料理は美味しい。生きて食べられる想像すらしていなかった。

 自室に戻ると、妙に現実感に覆われる。まだ連絡をしていない人物がいる。

 ベットにダイヴして、しばらくごろごろしていた。連絡はなし。きっと忙しいのだろう。なんて言ったって、彼はFBI捜査官だ。

──実家に戻りました。ご迷惑をおかけしました。

 何が最善のメールなのか分からず、まずは詫びのメールを送った。すると十分も経たないうちに電話が来て、思わず飛び起きた。

「も、もしもし?」

『おはよう。身体の調子はどう?』

「大丈夫ですっ……」

 甘ったるい声に、うっとりとしてしまう。できれば目覚まし時計にしたい。

「リチャードは? 怪我はないですか? 寝てます? ご飯は?」

『怪我もないし眠ったしご飯も食べたよ』

 リチャードはくすくす笑っている。

「テレビですごい事件が流れてますね。ネットニュースも持ちきりです」

『ブランド会社の社長令嬢が関わっているからな。それだけでマスコミの餌になる。それはそうと、今日会える?』

「リチャードも実家に戻ってるんですか?」

『ああ。久しぶりにね。明日にはマンションに帰らないといけない。君に会えるとしたら、今日なんだ』

「じゃあ、どこかでランチでも……」

『ホテルで食事しないか?』

「ぜひ」

 あまり高いところでは困る。きっと彼は奢ろうとする。けれど彼に会いたいあまりすぐに返事をしてしまった。

 彼には聞きたいことは山ほどある。告白の返事は聞くつもりはなかったのに、なぜか同棲するまで話が一人歩きしてしまっている。しかも付き合っている前提で。

 家を出て待ち合わせのホテルの前に行くと、駐車場に白い車が止まる。リチャードだ。ジーンズにTシャツというラフな格好だった。

「急に呼び出してすまない。どうしても会いたいくて」

「ぼ、僕も……」

「さあ、行こうか」

 さり気なく手を握られ、僕もコットンキャンディーに触れる程度の強さで握り返した。していることは恋人そのものだ。恋人じゃないのに。

 リチャードが予約していた店は、日本食の店だ。しかも高級店の分類に入る。

 リチャードは入り口で名前を告げ、中に案内された。

 個室に通され、リチャードと向かい合うように席に座ったのに、リチャードは隣を差した。

「隣においで」

「分かりました」

 メニュー表を見ながらああでもないこうでもないと言いながら、天ぷらやすき焼きを注文した。

 太股にずっと右手が置かれている。ときどき撫でたりして、彼の行動がいかがわしい。好き。勇気を出して、彼の手の甲の上に自分の手を重ねてみた。リチャードは息をつまらせ、手のひらを上に向ける。

 手のひら同士が合わさり、自分の汗が気になってしまう。

「あのときは突然、すみません。変なことを言ってしまって」

「どうして謝る? 嬉しかったよ」

 彼の父であるハリーさんの前で、とんでもないことを言ってしまった。自慢の息子が男に告白される瞬間なんて、さぞ滑稽だったろう。

「最後かと思って……あなたを信じていましたけど、二度と会えないとも思いました」

「君が書いた小説の初恋の話って、俺?」

「う…………はい。子供のときに木に登って遊んでいたら降りれなくなってしまって、居合わせたあなたは両手を広げて『おいで』って。僕が恋に落ちたときです。ずっと忘れられなくて、リチャードは僕の王子様でスーパーヒーローです」

 どうにでもなれ、と最初で最後の告白をした。きっと僕には、リチャード以上の恋は巡ってこない。

「僕が王子様か。王子はね、逃がさないように回りから固めたりしないんだよ」

「固める?」

「いや……俺も君と……」

 がたん、と扉が開き、男性が入ってきた。僕は手を放し、適当に飲み物を飲む振りをする。

 おお、と思わず声がぼろっと出た。揚げたての天ぷらと、鍋と寿司。定番の料理で、でも日本では三セットがテーブルに並ぶことはほぼない。少なくとも僕は見たことがない。

「豪華ですね。美味しそう」

「天ぷらはどうやって食べるのがおすすめ?」

「塩ですかねえ……」

「塩? だけ?」

「だけです。まずは素材の味を……」

「ああ、そういうのテレビで観たことがある。ナオは料理研究家にかりそうだ」

 料理のおかげで緊張も解け、めいっぱいご馳走になった。特に揚げたての海老は身がぶりっとしていて、お代わりしたかったくらいだ。足りない海老を求めて、寿司は海老ばかり食べてしまい、リチャードは笑いながら皿を差し出してくれる。

 おかげで胃も心も満たされた。当初の目的など忘れるほどに。

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