第15話 初恋の記憶

「私は復讐しかできない」

「やり直しはできる。何年かかったって」

「リチャードと同じことを言うのね。……恋人から愛される喜びを知っているから、そう言えるのよ」

 恋人。リチャードととはそういう関係ではないのだが、彼女からはそう見えるらしい。

「私はことごとくアビゲイルに奪われてきた。そこの女はリチャードにも手を出そうとしていたのよ」

 ナオは口を開くが、思い当たる節があり何も言えなかった。

 事件が起こる前、アビゲイルはリチャードによく絡んでいた。リチャードは気づかないふりを貫き通していたが、やはりあれはアピールだった。

「家がお金持ちだと、なんでも手に入るのね。羨ましくもあり、そんな生き方はしたくないとも思う」

「やめて、リンダ」

「さようなら、アビゲイル」

 後ろで犬の鳴き声がした。オリバーだ。

 警戒心丸出しでリンダに向かって吠え、リンダは銃を下げた。

 オリバーはリンダに向かって突撃し、手に向かって大きく口を開ける。

 驚いたリンダは銃を手放してしまい、床に転がる。オリバーは銃を蹴った。

「動くな」

 リンダもアビゲイルもナオも、息を呑む。

「……なんで、」

 外に出たはずのリチャードがいた。銃を構え、トリガーに指をかけたままリンダに向いた。

 オリバーはリチャードの後ろに回り、リンダに向かって唸っている。

「リンダ、罪は逃れられないが、事情を説明すれば減刑される可能性がある」

「嘘言わないで」

「司法の大学を出たというのは嘘じゃないさ。学んできたし、何よりFBI現役だ。法については君より詳しい」

 リンダに迷いが生じている。これはある意味チャンスだ。誰も死なせず、ここを出る方法がある。

「あなたはシリアルキラーでもサイコパスでもない。事情があったんだ。僕も警察に説明する」

「ナオ…………」

 リンダの目が揺れた。大きな瞳からは涙が零れる。あともう少しだ。何か言わないと。焦りが生まれるが、ここはリチャードに任せようか。

 終わるはずの事件は、終わらせまいと続いていく。

「動かないで」

 転がっていた銃をアビゲイルは取り、立場が逆転した。

 銃口は、リンダではなくナオに向かっている。すべての弱みのもとだった。

「恋人を撃たれたくなかったら銃をこっちに投げて」

「……分かった」

 リチャードは素直に従い、銃を転がした。

「誰のおかげでイーサンと付き合えたと思ってるの? 裏で賭けをしていたのよ。リンダを落とせたら私の勝ち、落とせなかったらロイドの勝ち」

 耳を塞ぎたくなる絶望的な話だ。聞きたくなかった。

「弱いものは蹴落とさなければならないの。それが私の生き方よ。父も母もそうやって生きてきて、私はそう教えられた。弱者は死ぬべきなのよ」

「人間じゃないわ……」

 リンダは膝から落ち、涙が次から次へと溢れ出す。

「なんとでも言えばいい。リンダは私の苦労を知らないから。理解してほしいとも思わない。リチャードも手を上げたまま中に入って」

 入れ違いでリンダはリチャードの銃も拾い、一人で外に出た。

 オリバーはリチャードの横をすり抜け、ナオに近寄ると悲しそうに上目遣いで見つめる。

「ナオ」

「ごめんなさい、リチャード……僕が銃を拾っていれば」

「君にそんな危ないものは触れさせたくない。ケガはない?」

「大丈夫です。どうしてここに? みんなと外に出たはずじゃ……」

「こっそり裏口から入ってきた。セシルたちは安全な場所に避難させている。どうにかして脱出しないとな」

「窓があります。そこから降りれば……」

「無理よ。ここは三階なんだから」

「君はどうするつもりだったんだ? ナオたちをここまで連れてきて」

「建物ごと燃やしてアビゲイルごと死ぬつもりだった。ナオは死なせるつもりはなかったけど」

 嘘に嘘を重ねた彼女には、どこまで本気か信じられなかった。

 リチャードも何かを感じ取ったのか、それ以上つつくまねはしなかった。

「アビゲイルは銃を持っている。扉から出たら撃たれる危険性が高い彼女は自分の都合通りに動かせると妙な確信があるタイプだ。迷っても自分の野望のためならトリガーを引く」

「よく分かるのね。FBIだから?」

 リンダの質問には答えず、リチャードは物に被さるシートを取り外していく。

 ナオもシートを取り、下に降りる方法を探した。

「これは……」

「梯子ですね。でも三階から地上まで届きそうにありません。あとは……ロープ」

「これなら使えそうだな」

 しっかりとした太いロープだ。長さも申し分ない。

「まさかそれで下に伝っていく気?」

「ああ。できるかどうか俺が先に行く。そこにくくりつけて、別荘の壁を蹴りながら下に降りていくんだ」

「あなたは特別な訓練を受けているんでしょうけど……」

 そう言いながら、リンダはナオをちらちらと見る。

 同じ男であっても、しっかりと筋肉のついたリチャードの腕とはまったく違う。

「下で俺が受け止める」

 リチャードは迷いのない目で、ナオを見つめた。

 過去の記憶が蘇る。あれはリチャードと初めて会ったときだ。

 今はそんなときじゃないと、ナオは頭を振る。

 リチャードが太い柱に巻きつけると、下にロープを投げると、地面に蛇のようにだらりと垂れた。

「最初は俺、次にナオ、最後はナオとふたりでリンダを受け止める。それでいい?」

「分かりました」

「……分かったわ」

 何度かロープを引っ張り、びくともしないと確認すると、めいっぱいに窓を開けて窓枠に足をかけた。

 全体重を腕で支え、壁を地上とみなしながらゆっくりと降りていく。普段から鍛えているおかげか、楽々こなしているように見える。

 地上につくと、リチャードは大きく息を吐いた。

「ナオ、おいで」

「は、はい…………」

 ここへきて、恐怖が足下から侵食していく。リチャードだから恐怖も乗り越えられたのだ。なんの迷いもなく降りる彼を見ているとできそうな気がしていたが、細腕でどうやって身体を支えればいいのか。

「腋を締めながら、一歩一歩ゆっくり降りてくるんだ。途中で落ちそうになっても大丈夫。……おいで、受け止めてあげるから」

 リチャードはふわりと笑う。

──おいで、受け止めてあげるから。

 あのときもそうだった。リチャードは両手を広げ、落ちるナオを力強く受け止めた。初めての恋を捧げた瞬間だった。

 古くなったロープは素手で持つと、繊維が皮膚に突き刺さり、かなり痛い。

 地面を見ないようにし、リチャードをまねて踏ん張りながら少しずつ降りていく。

 手のひらが悲鳴を上げる。錆びた臭いが鼻につき、手の状態がどうなっているか悪い方向へ考えてしまう。段々上半身に力が入らなくなっていった。

「ナオ!」

「うっ……むり…………」

 悲鳴にもならない声を上げて、ナオは手を離してしまった。

 重力に逆らえるわけもなく、そのまま真下に落下していく。怖くて目を瞑り、上か下かも分からない。

 生暖かな感触と男らしい汗の匂いに囲まれ、ナオは目を開けた。

「だから言ったろ? 俺がいるから大丈夫だ」

 場に似つかわしくないウィンクに、ナオは堪えきれずに瞳に涙が溜まっていく。

「あのときと……おんなじだ…………」

 意識が遠のいていき、やがて目を閉じた。

 ナオと呼ぶ声、そしてリンダと叫ぶ声が聞こえたが、夢なのか現実なのか定まらないまま、全身の力を抜いた。

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