第41話
アーリは人の波に逆らう様に、悲鳴が生まれる方向へと走った。しかし、大勢の人々の流れはアーリの体を押し返し、逆らって進むのは容易ではない。
「ど、どうしよう……」とアーリは呟くが、悲鳴に揉まれて掻き消される。
ふと少女が上を見上げると、屋根の風見鶏が目に入った。
「あれに巻きつけて屋根の上を進めば……」少女は思いつき、もう一度右手をスレッジ・サーペントに変え、風見鶏を巻きつけた。
右腕が縮んでいくにつれて、少女の体が宙へと釣り上げられていく。
逃げ惑う人々はそんなことよりも逃げることが優先なようだ。一瞬気に掛ける者もいたが、すぐに逃げる事に戻っていった。
アーリが屋根に飛び乗ると、眼下に広がるのは、絶望と混乱に掌握され逃げる人々の波が見えた。そして、その中心には三体の怪物達だ。それぞれ人間大のトカゲや熊、蜘蛛の様な姿をしているが、変化している途中なのか、所々、人間の部分も残っている。
「三体も……なんでこんな事が……」
悲鳴が湧き上がる中、彼女は屋根上を走って、怪物になっていく市民達の前に飛び降りた。
「……ちょっと手荒になっちゃうけど……」アーリは右腕を蛇に変えた。「ごめんね!」
アーリは伸縮自在の右腕を振り回し、九割ほどトカゲになってしまった女性を絡めとり、ブンと振り回した。遠心力で巨大なトカゲが吹き飛び、熊に変わろうとしている男に向かって飛んでいく。
「よし、あとは——」
少女の後ろからカサカサと動く足音が聞こえてくる。
アーリが足音を聞きつけて後ろを振り返ると、後ろには真っ黒な体を持つ巨大な蜘蛛が、突進まがいに急接近してきていた。
本当にこれが元人間であったのかと疑うほどに、身の毛もよだつ、グロテスクな造形をしていた。八本の脚は甲殻類のそれを思わせるが、黒く短い毛皮がびっしりと生えている。顔面の半分以上を占領している、幾つもの赤い目玉の全てが、目の前にいる少女に向けられている。
そして二メートルはあろうかという巨大なクモは、黒く艶めく巨大な槍の様な二本の前足を、少女に獲物に突き刺そうと飛びかかってきていた。
「うっ……」少女が思わずそう声を漏らし、防御姿勢を取った。「シールド・ボ——」
怪物が少女に飛びかかろうと体を沈めた刹那、連続した二つの乾いた銃声が鳴り響いた。
そして二発の銃弾は怪物の脚を正確に射抜き、態勢を崩させた。
巨大グモは甲高い奇声を上げて、痛みに耐えているように見える。攻撃と支えを両立するために、振り上げた前脚を勢いのままに振り下ろすが、少女はそこには居らず、前へ飛び込んでいた。
「アーリちゃん!」ミリナが叫んだ。「ごめん、これしかなかった!」
攻撃を避けようと飛び退いたアーリは、二丁の拳銃を構えるミリナを見た。銃口からは薄い煙が立ち上っている。
「ありがとう、ミリナさん!」
アーリは振り返るや否や、右腕を振るって蜘蛛の脚を絡めとって転ばせ、動きを封じた。
駆け寄ってきた兵士達は、槍で威嚇しながら怪物達を拘束しようと近づいた。
空気が緩みかけた瞬間、幾重のも怪物の叫び声が三番街に、そして街全体から響き渡った。アーリが戦った三匹の声ではない、また別の種類、また別の場所から聞こえてくる。
しかもその数は、指で数えられる程度ではなかった。十数、もしくはそれ以上。家から、そして路地裏から、または遠くから。
数多の怪物達の呻き声や雄叫びの不協和音が、幾重にも響き渡り、不安と絶望を煽る音楽を奏で始めた。
兵士達は慌てふためき、命の限りを尽くして逃走しようとするも、逃げた先からは怪物達が寄ってくる。
耳を塞ごうにも間に合わない。そして、目を覆い隠そうとしても、アーリの背後の家を突き破り、それはもうその場にいる全員の目の前に現れていた。逃げようとしても間に合わない、あらゆる路地から怪物達が駆けてきていることは、足音を聞けば分かる。
アーリは事態を把握しようと周囲を見渡すと、先ほどまで銃を構えていたはずのミリナが、腹を抑えて
「ミリナさん‼︎」アーリはたまらず走り寄る。
アーリは苦しそうにしているミリナに駆け寄り、抱きかかえる。
「う、うう……」アーリの呼びかけに、ミリナは何も答えず、ただ痛みに堪えるように唸っているだけだ。
顔色は悪く、血の気が引いているのだが、薄く開いた目が血走っている。全身が細かく痙攣し、寒さに凍えているかのように震えている。
アーリの直感が、凄く悪い方向に働いた。このままでは、ミリナも怪物になってしまう。しかし、彼女にはどうすればいいのか、全く分からなかった。
「……アーリ、ちゃん」ミリナは悶え苦しみながら言った。「……逃げ、て……」
彼女は自分の体に何が起きているのか、自分がどうなるのか分かっているのかもしれない。
しかし、アーリはミリナの事を諦める事ができなかった。置いてはいけないが、怪物になってしまうかもしれないこの状況では、どうする事もできない。
周りでは怪物に相対した兵士達の断末魔が聞こえ、怪物達の叫びや奇声がそれを上塗りした。
「……どうすればいいの」彼女は困惑をそのまま吐き出した。
怪物の力を持ってしても、対処する事のできないこの状況。どうする事もできない無力感が少女を飲み込む。
周囲ではアーリや兵士達を襲おうと怪物達が突進してくる。
それでも少女は逃げれない。目の前の友達、いやそれ以上の存在を置いてなど、以ての外だ。
「逃げ……て……」ミリナは喉から振り絞る様に、そういうと低く唸り始めた。
目はさらに血走り始め、口元はぐにゃりと変化し、痙攣する腕には血管と毛皮が浮き出し始めた。
もうだめなのかもしれない。ミリナは怪物になってしまう。
少女がそう思った瞬間、何者かがアーリの目の前に音もなく現れた。視界の端に、その人物のロングブーツが見えなければ、気づかなかっただろう。
「え……」アーリが顔をあげると、そこには薄汚いベージュのローブを来た人物が立っていた。「だ、誰……?」
顔のほとんどはフードが落とす影に隠れて見えない。だが、口元と顎の下全部を覆う黒く艶めいて、角ばった機械的なマスクの一部だけが見えている。ネオンブルーのラインが、あご骨に沿って耳にまで伸びていた。黒くタイトなパンツを履いていて、手には同じく黒いグローブを付けているため、肌は一切見えない。
しかし、骨格から辛うじて、人間であろうという推測が立てられる。
そして右手には数本の注射器の様な物がにぎられていた。
「……だ、誰……ですか?」アーリはその人型に問いかけた。
しかし、アーリはその人物に思い当たりがあった。バレントやループが話していた怪しい人物。そして、この間ジュース屋を路地から覗いていた人物だ。
少女の問いかけに、その人物は左手の人差し指を立てたのみ。返事は一切返さない。そして、その人型は低く唸っているミリナのすぐ横に屈み込み、肩に注射器を刺そうとする。
だが、アーリはその人物の怪しさから、ミリナをぐっと引き寄せた。
「え……ちょっと!」怪しげな人物にアーリは怒鳴りつけた。「何してるの!」
ローブの者は、小さく首を横に振って、液体をミリナの体に一気に押し込んだ。中に全てが入りきると、先ほど唸っていたのが嘘の様にミリナが動きを止め、ぐったりとした。
「み、ミリナさん!」アーリは不安を抱えたまま、そう呼びかけた。「な、なにをしたの⁈」
それを確認して注射器を抜くと、ローブの者はすっと立ち上がって目にも止まらぬ速さで、一番近くの怪物へと走り出した。
ローブの者に走り寄られた、鮮やかな黄色い毛皮を持つ獅子のような怪物は、一瞬何が何だか分からずに躊躇った。だが、すぐに巨大な口を開いて、噛み付こうとする。
謎の人物は一切躊躇わず、尋常ではないほど軽やかに飛び上がり、その攻撃を躱し、頭に飛び乗った。一連の流れで怪物の首元に注射器を思い切り差し、ぐいと中身を押し込んだ。
動きを止めた怪物から飛び降りると、今度は別の怪物に向かって走り出す。
その間、約五秒だった。
アーリが動きに見惚れていると、腕の中にいるミリナが少し動いた。目線を落とすと、彼女は目を開いた所だった。
「だ、大丈夫? ミリナさん」とアーリが優しく問いかけた。
「う……頭、痛っ……」ミリナは自分の頭を片手で抱えた。「あ、あれ? あたし、なんだか気持ち悪くなって……怪物に……」
「た、多分大丈夫だと思う」アーリは口元を震わせている。「あの人がなんか注射みたいなのを打ってくれたの!」
アーリが指差す先には、巨大な蛙の怪物と戦う、謎の人物がいた。
「そ……っか、ごめんね、迷惑かけちゃって……」
「ううん、大丈——」
アーリの目の前に一匹の獅子に、片翼の生えた怪物が飛び出してきた。その怪物は一切の躊躇なく、鋭い鉤爪を振り下ろしてくる。
「シールド・ボア!」アーリは咄嗟の判断で右腕を振り上げた。
そして、右手が黒く艶めく盾のような形へ変化し、鉤爪を受け止めた。だが、立ち上がろうとした咄嗟の防御では、十分に攻撃を受け流す事はできなかった。
盾はボロボロと砕け、少女は衝撃で後ろへ吹き飛ばされる。
「ぐ……盾が……」少女が怪物を見ると、今度は動けないミリナに向けて爪を振り上げていた。「み、ミリナさん! 避けて!」
少女の叫びに答えたかのように、ローブの者が駆け寄って、怪物の腕を受け止めた。アーリが飛ばされるほどの力なはずなのだが、その人物は片腕でそれを止め、空いた右手で怪物の首に注射器を打ち込んだ。
怪物は動きを止めて、ぐったりと膝を付いて地面に沈んだ。
力の無くなった怪物の腕をブンと投げ、アーリに向かって一本指を立ててあっちに行けと身振りで伝えたあと、謎の人物はまた別の怪物へ走っていく。
「み、ミリナさん!」
アーリは倒れてるミリナに駆け寄り、彼女を抱きかかえて、怪物達の暴れる三番街の中央から離れていく。
ふと後ろを振り返ると、ミリナを襲おうとした翼のある怪物が、ゆっくりと人間の姿へ戻っていっていた。
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