第42話

 アーリはミリナを背負ったまま、三番街を駆け抜けた。

 背後から追いかけてくる怪物はいない。後ろをちらりと見ても、ほとんどの怪物達は地面に倒れこみ、がっくりと項垂れている。

 がむしゃらに走っていると、二番と三番街を渡す橋が見えてくる。そこでは、バレントとループが待っていた。

「おい、アーリ、ミリナ、大丈夫か?」バレントが心配そうな、しかし訝しげな表情で聞いてくる。「何があったんだ?」

「……うん」アーリはちらりと背中のミリナを見た。「ミリナさんが少しぐったりしちゃって」

「どういう事だ?」 バレントは険しい顔でアーリに訪ねた。「説明してくれ」

「……バレント達も見たかもしれないけど、街の人が怪物に変わっちゃったの。それも急に、私達の目の前で」アーリは自分の頭の中で整理しながら喋った。「それでミリナさんも怪物に変わっちゃいそうになったんだけど……ローブの人が注射を打って助けてくれたの!」

「……人間が怪物になって暴れてるのか。にわかに信じがたいが……」バレントは眉を潜めたまま、何度か小さく頷いた。「とりあえず、ここを離れる。中央街セントラルの病院でミリナを診てもらわなければ」

「ジェネスさんにもこの事、伝えなきゃ」とアーリが言うと、三人は走り出した。

 

 中央街の北側にある病院へ向かうと、そこには、多くの人間が搬送されてきている。中に入ってみれば、ベッドの数も多くないのか、待合室で手当を受けている人々も多くいた。

 受付の人間もおらず、医者達も右往左往に忙しく働いているようだ。

「あ、あの……」アーリ達が話しかけても、聞く耳を持っていないのか、そもそもそんな余裕がないのか、誰も止まらない。


 彼らが戸惑っていると、病院の扉が開け放たれ、一人の男が入ってきた。

 アーリ達も、そして市民が見慣れた顔。兵団長ジェネスだ。

 彼はバレント達を見つけるなり、つかつかと歩み寄る。

「……付いて来てください」バレントに小声で行った。「医者を付けましょう。それに状況を把握しなければ」

「ああ、頼む」 とバレントは小さく頷いた。


 ジェネスの手引きで、ミリナに医者が付き、個室のベッドまでが与えられた。

「ミリナさんは大丈夫なんですか?」アーリがジェネスに聞いた。

「ああ、医者の話では、今の所安静のようだ。特に獣化じゅうかする素振りもない。第一にここで獣化すれば、私やお前が取り押さえる事も可能だ。だろう?」ジェネスは静かに、淡々とそう言った。「急に発現した異常だ、原因も分からなければ……完全な対処方法も分からない。我々にできるのは、獣化した人間を調べ、何が原因でこれが発生しているかを確かめる事だけ、ということだな」

「……すまないな、ジェネス。こんな個室までも」バレントは静かに言った。

「いえ、個室を選んだのは話を聞くためでもあります。お聞かせ頂けますか?」ジェネスはすっとアーリに向き直る。「特に一番近くにいた、アーリ・レンクラー。貴方が見た出来事、怪物について、そして怪しげな人物について、知っている事は話してもらう」

「その言い方はアーリを疑ってるのか?」ループが不機嫌そうに言った。

「いいや、全く」ジェネスはきっぱりと言った。「しかし、一番最初に発見したであろう彼女の意見は、貴重な物だと言っている」


 すやすやと眠るミリナの横で、三人と一匹は今回の件について話し合った。

 アーリは助けてくれたあのローブの人物については、はっきりと味方であると、特に強調して喋った。事実、獣化しそうになったミリナを助けてくれたのはあの人物なのだ。

 ジェネスに間違った印象を与えてしまえば、強力な味方を失う事になるかもしれない。そしてその果ては、この街を救う希望がなくなってしまう。


 全てを静かに聞いていたジェネスは、時折メモを取っていた。キリッとした見た目通り、マメな性格だと伺える。

「……なるほど。そのベージュのローブを着た人物が、獣化を抑えるための注射器を持っていると……」ジェネスはペンでメモを叩いた。「その人物はきっと原因を知っているのでは?」

「分からないです」アーリは少しうつむき、横に首を振った。「でも、あの注射のおかげで、怪物になっちゃうのが止まったんです。ミリナさんも助けてくれたんですよ」

「本当に味方なのであれば、薬をこちらに渡せばいいものを……」ジェネスは睨みつけるような強い視線を送った。「あえて渡さずに自らの手で使って回るという事か。その点も理解できんな」

 ジェネスはメモの上に、自分で書いた文字を今一度読み返した。

 その顔はどこか、確信を得ないと言った様子で、まばたきを何度も繰り返している。


「何も喋ったり、話されたりはしていないと言ったが、それは確かか?」ジェネスが追加の質問を投げかける。

「はい、ローブの人は一切喋りませんでした」アーリははっきりと答えた。「指を立てたり、首を振ったりはしてたので、こっちの言葉は理解できるんじゃないかって」

「……喋れるが喋らなかったのか、それとも喋れないから喋らなかったのか。とにかく……人物像も、目的も、素性も分からない。そんな不確定な者を信じてもいいものか」ジェネスはそこで腕を組んで、唸ってしまった。


 沈黙を破ったのは、他でもなくループだった。

「話を聞いてる限りでは、私がその人間は味方だと思うのだが」ループが横からはっきりと言った。「怪物の群れに突っ込んでいく。そんな事をするのは、バレントみたいな馬鹿か、よっぽどの信念を持っている奴だけだ」

「おいおい、馬鹿呼ばわりされる筋合いはないが」バレントは反抗する。「……まぁ、俺も賛成だ。そいつも出てこれない理由があるんだろうが、その獣化した人間を元に戻す術を知っているんだ。味方に付けた方がいい」


 その言葉にジェネスは大きく溜息を付いた。かと思うとゆっくりと噛みしめるように頷いた。

「分かりました、信じるにせよ、信じないにせよ。謎の人物を探さなければいけない事に変わりはない。その人物に直接会って、注射器について、獣化についてなど、色々聞かなければならないようだ」ジェネスはそう言うと、今一度彼らをまっすぐと見た。「……もし、よろしければあなた方のご協力を仰ぎたい。勿論、兵士達も動かしますが、こんな事を頼めるのは貴方達しかいません」


「……いいですけど」アーリは少し考えてそう言った。

 何故だろうか、あのローブの人物が少しだけ気になるのだ。急に現れて自分達を助けてくれた恩もあるだろうが、それ以上に何か親近感を覚える。怪物と素手でやり合うという共通点かもしれない。何故だか、もう一度合わなければいけないと感じてしまっているのだ。


 アーリの返事を待ってか、バレントも続いた。「ああ、報酬は弾んでもらうがな」

「ジェネス、覚悟しとけよ」ループはいたずらな口調で言った。「バレントがこう言った時は、いつも数十万グランを請求してくるからな?」

「では宜しくお願いします。私は早速兵士達に指示を出さなければ」そう言うとジェネスは病室から出て行ってしまった。


 夕暮れに染まる病室。

 アーリは静かに寝息を立てるミリナの横で、ただぼんやりと空を見つめていた。

 バレント達は家に戻った。気が付いたら連絡を入れてほしいと言い残し、食料や衣服を取りに行くためだ。幸い病院の通信機を使わせてくれるらしい。


 それにしても、何故あの人物は注射器を持っていたのだろうか。原因を知ってからそれに対抗する術を思い付いたのだろうか。何を考えて行動しているのだろうか。

 そんな取り止めのない思考が、アーリの頭をぐるぐると回った。

「……うーん」ベッドに眠っているミリナが声を漏らした。

 かと思うと、静かに眠っていたのに、急にもぞもぞと動き出した。

「ミリナさん、起きた?」アーリはなるべく優しく聞いた。

「もう、ちょっとだけー……」いつもの寝起きのミリナだった。

 アーリが額に手を当てて体温を測るが、特に熱もない。寝ぼけ眼もいつもの茶色い瞳に戻っている。もう、大丈夫だろう。

「大丈夫そうだね、熱もないし」アーリは席を立った。「ちょっと連絡だけしてくるね」

「うーん、いってらっしゃーい……」ミリナはそういうと、寝息を立て始めた。


 静かな病室を後にしたアーリは、階段を降りながら、平和な日常を頭に描いていた。

 この時間はいつも、レーラとミリナ、アーリの三人であの公園でおしゃべりをしている時間だ。

 だが、この日は違った。

 いつもの日常にすんなりと戻れる訳も無い、人間が急に怪物に変わるかもしれないからだ。病院にいる患者、医者、果ては兵士の一人もが獣化し、街を再び混乱に陥れるかもしれない。

なんとかしたい。またあの三人で公園で遅くまでしゃべって、帰ったら家族四人でご飯を食べる。そんな日常を取り戻したい。

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